シクラメンの馨り
三衣 千月
シクラメンの馨り
【撮影開始】
撮影現場に、張りつめた緊張が走る。
役者、スタッフ、助監督、監督。それぞれがそれぞれの持つ意識の糸をぴん、と走らせ、互いに絡み合った網の目が現場に独特の雰囲気を創っていた。
「本番……」
監督が少し上を向いて声を発する。今から
主演と助演に、同じ水野という苗字を持った俳優を起用したことが話題になっているこの作品を、ただの話題作では終わらせないという、静かな、けれど硬い意思がそこにはあった。
「3、2……」
それで充分だった。限界まで張りつめた糸は少しの振動でさえ遠くへ伝えられるのだから。静かな一声は現場全体に波紋を広げ、無音の鬨の声が上がる。良い役者と良い裏方が揃った現場でのみ起こり得る、理想的な撮影の始まりだった。
こうして、『シクラメンのかほり』の撮影はスタートした。
【序】
ドラマの撮影スケジュールが消化されていく中であちらへこちらへと走り回る男が一人。
名を
シーン撮影の合図を出したり、現場にいる役者やスタッフへ監督からの連絡を伝えたり、飲食物を用意したり。
周りからは小間使いのような扱いを受けているが、彼は与えられた仕事を実直にこなす。
「監督、器材班への連絡、済です」
「おう、古屋。ご苦労。段取りが変わっちまうから、役者へも断りを――いや、もう済ませたか」
「はい! でも、あの、助演の水野さんだけ少し気を悪くされています」
「天候ばかりはどうにもならん」
「フォローの声掛け、してきますね」
「頼む」
晴天のシーンでの撮影が予定されていたが、天候が崩れたために他のシーンの撮影が先に行われた。よくある話だ。
ドラマの撮影は放送、公開される順に撮っていくわけではない。シーンごとに分割して撮影し、それらを繋げるように後に編集されるのが通例である。
役者にとっては周知の事柄であり、撮り順の変更や待ちが出ることも想定のうちだ。しかし、今回のドラマの助演ヒロインを務める水野の機嫌が悪い理由は別にある。
古屋は助監督補佐見習い業務の傍ら、撮影待ちをしている水野の元を訪れ、遠慮がちに声をかけた。
「水野さん、お疲れさまです」
「うわ、明楽君すっごく他人行儀」
「……他シーンの撮影中で、周りに誰もいなくても、今はスタッフと女優です」
「昔から変わらないなあ。傷ついちゃおっかなー。傷ついちゃおっかなー、私」
「傷ついてもダメです」
頑として態度を崩さない古屋。水野は大きく溜息をついた。
「せっかく明楽君と同じ現場になれたのに。ね、帰りは遅くなる?」
「だからプライベートと仕事は分けてください。マネージャーさんにも言われたでしょう。……23時には帰ります」
「じゃあ晩御飯は私が作っとくから、明日の朝食はよろしくね」
今度は古屋が嘆息した。どうやら彼女には仕事とプライベートを線引きすべきだとする古屋の主張は伝わらないようだった。
古屋をじっと見つめ、水野は言う。
「あと、呼び捨てとは言わないけど、せめて
「それは……確かに。それじゃあ美登里さん、また何か動きがあればお知らせに来ます」
「はーい、了解です。古屋助監督補佐見習いさん」
間延びした挨拶に一礼を返し、古屋はその場を後にした。
主演・水野洋子、助演・水野美登里。俳優界の顔とも言える二人の共演はこれまでになく、関係者らの中ではそれだけで今期一番の話題作になるだろうと囁かれていた。
爛漫な演技を売りとする美登里とは対照的に、どこか妖艶な演技を得意とする洋子。
普段の生活やメディアでの露出でも同じ空間にいることない二人が今回演じるのは姉妹の役柄であり、うまく空気を作れるかどうかが監督や助監督、そして古屋の懸念するところでもあった。
なにせ洋子は、気難しさと我儘が服を着て歩いているような存在でありながら、それを周囲に通せるだけの実力を持った存在であったからだ。
姉役である洋子のシーン撮影が終わり、古屋は「お疲れ様です」と労いの声をかけた。
「まだ撮影初日なのに疲れたも何もないわ。そんなに貧弱な俳優に見えるかしら、私」
「もしそう見えていたら、ミネラルウォーターじゃなくて栄養ドリンク持ってますよ僕」
洋子は古屋を一睨みして水を受け取ると、銘柄を確認してから一口飲んだ。
「この銘柄じゃなければ帰ってたところね」
「それは命拾いしました。洋子さんがいないとこのドラマは――」
「ちょっと」
洋子が鋭く古屋に視線を向ける。
「ずいぶんと慣れ慣れしい呼び方じゃないかしら」
「あ、すみません! これは……」
主演と助演の二人の水野を呼び分けるため、と正直に言ってしまうのは憚られた。
しかし焦りを見せた古屋が想像していたような言葉は続かず、
「名前で呼ばれるのも、たまには新鮮ね。助演の子も水野だし、ちょうどいいわ」
「お気遣い、ありがとうございます」
なんとか事無きを得た、と古屋は翌日以降のスケジュールを洋子に伝える。
この日の洋子の撮りは全て消化していたが、彼女は「帰りはこちらで勝手に都合をつけるから」とその日の全ての撮影が終わるまで、ずっと現場の隅で座っていた。
○ ○ ○
助監督補佐見習いの朝は早い。だが、彼に与えられた業務は名目上ない。それ故に、彼は現場の誰もがスムーズに仕事をできるように現場全体を見る。
今日も誰よりも早く現場に来て、資器材の確認や撮影順などを確認していた。
俳優陣からは、なんだかよくわからないけれどいつも現場で走り回っている人、と認識されており、製作陣からは、なんだかよくわからないけれどいつも現場で走り回っている人、と認識されている。つまり誰も古屋の明確な仕事内容を把握していないのである。
古屋の仕事に価値を見出しているのは、同じように全体像を見通して作品の概形を構築している監督だけだった。
少し性格に硬い所はあるが、現場のマネジメント能力はある。というのが監督から見た古屋の評である。
今回のダブル水野の起用の一因となったのも、彼であれば気難しさに定評のある水野洋子と、快活な水野美登里との緩衝材になれるのではないかと監督が考えたからであった。
「おう、古屋、おはようさん」
「お早うございます監督!」
ただ、古屋と水野美登里が交際をしていることは監督の想定外だった。
「今日から本格的に共演シーンだ。あの2人、実際の所はどうなんだ? 不仲説なんかもあるが……」
「いえ、僕の知る限りでは本当に接点がないだけで、仲が良いも悪いもない状態だと思いますよ」
「そうか。まあ、今回の脚本だと仲が悪い方が逆にやり易いかも知れんがなあ。古屋は、昼ドラの現場は初めてだったな」
「そうですね。他のジャンルと何か違う点が?」
「気を付けろよ。
ドラマのジャンルは様々であるが、昼の帯に放送されるドラマでは愛憎劇を描くことが多く、表現もそれに沿うように構成されているため、知らずの内に役柄として表現する感情を自分のそれだと感じてしまう役者も多いのだと監督は語った。
古屋は、一つ頷いて今回のドラマの筋書きを思い返す。
両親を亡くし、それぞれ別の親戚に引き取られた姉妹が社会人になって再び出会う所からドラマは始まる。
妹には交際している相手がおり、結婚を間近に控えていた。結婚の準備にと役所で戸籍を確認し、幼い頃に別れた姉の存在を知ったのだ。
妹は記憶に残る微かな懐かしさから姉の現状を調べ、二人は再会する。
しかし偶然にも、妹の婚約者はかつての姉の恋人だった。姉は妹にその事実を悟られないように隠し、自らを捨てた男に対して復讐を企てる。
そして再会を喜び合ったはずの姉妹は、徐々にお互いを憎むようになっていく――
「2人ともベテランですよ。そうそう、役に沈むものでしょうか」
「昼の帯……いわゆる昼ドラにはある種の魔物が棲んでる」
「それはまた、オカルトじみた話ですね」
「用心に越した事はない。古屋、お前のためを思って言うんだ」
そこでようやく、古屋は自分と助演である美登里の関係を心配してくれているのだと思い至り、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「すみません。プライベートまで心配してもらって」
「お前にはまだまだ働いてもらわんとな。芸能誌のヤツらには気を付けろよ。公表してないんだから」
二人の関係は、美登里の俳優稼業への影響を考えて公表はしないと事務所とも話がついている。今回のドラマ撮影にあたり、監督だけには内々の話として美登里の事務所から話を通してあった。
「肝に銘じます」
「頼むぞ。さあ、そろそろ他のスタッフも来る。良い
強く口を結び、古屋はしっかりと頷いた。
○ ○ ○
そんな監督の心配に反して、二人の水野の撮影は驚くほどスムーズだった。主演である洋子の演技は圧倒的で、それに引き上げられるように他の演者も持っているポテンシャルを最大限発揮したのだろうと古屋は判断した。
本来であれば、数度のリハーサルの後に本番を行うのがドラマ撮影の通例だが、最終リハーサルの画をチェックしていた監督が「これを使おう」と宣言し異例のカメラリハーサル採用となったのだ。
現場の程よい緊張も継続し、その日の撮影は予定の時刻よりも早く終わった。
映像の確認や翌日の調整を撮影スタッフと行ってから古屋がマンションに帰ると、すでに美登里も帰宅していたらしく、玄関やリビングは明るかった。
しかし、美登里本人の姿がない。
「美登里?」
荷物を置き、部屋を見渡すが返事はない。けれど浴室の方からシャワー音が微かに聞こえた。
入浴中かと理解し、帰宅を知らせるために脱衣所の扉をノックする。
「美登里、ただいま」
「明楽くん……」
扉越し、シャワーの水音に半ばかき消されながら、微かに聞き取れる声で、美登里は一言「助けて」と呟いた。
反射的に扉を開け、立ち込める湯気にあてられながらシャワールームに入る。
湯の張られていない浴槽に、膝をしっかりと抱いてうずくまって、シャワーヘッドから放射される音と熱に彼女は濡れていた。
服が濡れるのもかまわず古屋が駆け寄り肩を掴むと、確かに彼女は震えていた。
「何かあったのか!?」
「……怖いの」
「こわい?」
「あの人、洋子さん、洋子さんの演技が、吸い込まれるみたいで、自分が、何の役だったか、分からないうちに、あの人の思うように演技、してるみたいで……いくら熱いシャワーを浴びても、寒いの……」
古屋は美登里を抱きしめる腕にことさら力を込め、「大丈夫、大丈夫だ」と繰り返し言い聞かせた。
彼は、気が付かなかった。
監督がリハーサルを使おうと言ったのは、あれ以上続けていたらドラマ全体のバランスが崩れると判断したからだったのだと。
美登里たち他の役者も、無理やり洋子に良い演技を引き出されていただけだったのだと。
恐怖から逃れるように美登里は古屋の体を求めた。縋るように、幾度も古屋の名前を呼びその背に爪を立て、自らの拠り所に示すように。
古屋は、戸惑いながらもそれを受け入れるのだった。美登里からは、どこかシクラメンの花の香りがして、古屋をその香の中に閉じ込めていく。
【破】
数話分の撮影が終わり、放送開始当日。
この段階で、ドラマ全体のおおよそ三割ほどの撮影は終了していた。
週に一回、それを半年に渡って放送するテレビドラマのスケジュールでこの消化率はかなりのものである。ドラマによっては翌週の撮影を追いかける自転車操業のような撮りも、全て撮り終えてから満を持して公開する方法もある。
今回の場合は、先に屋外での撮りを全て終わらせて、残すは全てセットを使ってのスタジオ撮影のみ。よほどのアクシデントやトラブルが無い限りは余裕のあるスケジュールだと言えた。
初回放送の反省会という名目で、主演クラスの俳優陣や監督、助監督ら、さらには主題歌を担当した歌手も集まってそれなりに値の張る料亭で卓を囲んでいた。
そこには、助監督補佐見習いである古屋の姿もあった。本人は所在無げな態度で、監督に耳打ちする。
「監督……監督! ただのスタッフでしかない僕がなぜここに?」
「いやあ、その、事情があってな。まあ、気楽に飲み食いしてくれ」
「そう仰るなら、まあ……」
監督の対面に水野洋子。そしてその隣に水野美登里。心なしか、古屋を見た美登里の頬が緩んだように古屋には感じられた。軽く視線を送り、今はプライベートではなく仕事の時間だと釘を刺したつもりだったが、おそらく伝わっていないだろうとも容易に想像できた。
運ばれてくる料理は、いわゆる懐石料理と呼ばれるもので、礼儀や作法が重要視されるものだった。
映像の現場仕事に心血を注ぐ古屋にその辺りの教養は無く、隣の監督の様子を盗み見ながらなんとか礼を失することのないようにと気を遣っていた事もあり、味の良し悪しなどはまったく分からなかった。
そこへ、俳優の一人、ドラマの中では美登里の婚約者である人物から声が投げられた。
「おいおい、そこのスタッフ君、まるで“本膳”だなあ」
「……?」
「いやあ、悪いね本城君。彼、見どころのある奴でね。監督としては今後のために色々学んでもらおうと思ってるのさ」
監督が快活に笑いながらすぐさまそう返す。
古屋にはその“本膳”が意味するところも分からないが、場違いだと暗に言われているのは理解できた。
美登里も何か言いたげな顔をしたが、それを制して洋子が本城に対して声をかける。
「落語のおはなしね。確か」
「ああ、そうさ。さすが洋子さん。教養があるね」
作法を知らない村人たちが、ある時かしこまった場所に招かれてしまう落語の噺が“本膳”である。
本膳料理の作法が分からぬと困った村人たちは知識ある者に作法を乞うが、期日までにはまるで覚えられそうにない。そこで知識ある者も招かれた席に同伴する手筈になった。
当日、村人たちは見よう見まねで事なきを得ようとするが、知識人がうっかり里芋を掴み損ねて落としてしまう。するとそれが作法だと勘違いして、みな一斉に芋を床に落とすという内容である。
「料理も芝居も、作法は大切ですものね」
「その通り。スタッフ君。君ね、たとえ裏方とはいえ、それくらいの教養は持っていたまえよ」
「あき……古屋、さん、は細かい所までよく気付いてくれます。とても助かってますよ!」
「そう? おつかい係くらいにしか見えないけど。みどりちゃんは優しいね。僕らは演じる。彼らはそれを助ける。あくまでも補助さ。それに頼ってちゃあ、演技の幅も広がらないよ。洋子さんもそう思うだろ?」
場の空気が沈む中で、無表情に息を吐いて洋子はそれに返答する。
「演技の質のお話をするのなら……この中で良い役者だと思えるのは美登里さんくらいですけれど」
「なっ……ッ!」
重たくなった空気に冷気がまとわりつく。洋子はさらに続けた。
「あなたもそう思うでしょう、古屋君」
古屋は当惑する。まさかここで自分に話がくるとは思ってもみなかった。下手に答えれば今度こそ場の空気はおろか、今後の撮影にも影響しかねない。
「そんなヤツに何が分かる。そこの助演だって楽な役どころで気ままにやってるだけだろう。俺やベテラン陣がどれだけ合わせてやってるか――」
「あの!」
反射的に古屋の喉から声が出ていた。プライベートと仕事は分けるべきと美登里に言っておきながら、美登里の演技にケチをつけられたことに我慢ならなかった。
彼女がどれほど恐怖と闘いながら演技をしていると思っているのだ。それを出さぬように、自らのキャラクタを守るように必死に振る舞っている彼女に対して、気ままだなどとよくも――
「洋子さんの演技に合わせているのではなく、彼女の演技にあなたが引きずられているように感じます。仕草や台詞の溜めなど、同じリズムになってしまっている場面が多いです」
「素人が知った口を!!」
「その通りね。自分をしっかり保って演技をしているのは美登里さんだけだわ。本城さん、私の真似だなんて、それこそ“本膳”のよう」
本城が顔を白くしながら口を開閉するも、声にならない。驚きやら、怒りやら羞恥やらが彼の中で渋滞を起こしていた。
「私、帰ります」
静かな表情のまま、洋子は席を立つ。
「本城さん、何かありましたら私の事務所までお話をくださいね。もし、他の方やスタッフにご迷惑を掛けるなら、このドラマを降ります」
そう言い残して、振り返りもせずに場を去った。
誰も、何も言えなかった。洋子の所属する大手事務所に盾突いてこの業界でやっていけるなど、誰も思っていなかったからだ。
ただ一人、古屋だけが「洋子さん!」とその後を追った。
○ ○ ○
外に飛び出した古屋を待っていたかのように、洋子は振り返り、怖ろしく冷たい笑みを浮かべた。
「ふふ、予想通り。さ、古屋君、飲み直しましょう」
「え、あの……あ、さっきは! ありがとうございます!」
「そういうの、いらないから。行きましょう」
手を引かれ、洋子の行きつけだというバーに連行された。
何も頼んでいないのに、二人の前には琥珀色が注がれたグラスが置かれる。
「すみません、あの、監督に連絡を……」
実の所は監督ではなく美登里に連絡を入れたかった。きっと、心配しているだろう。
「必要ないわ。君を連れてきてくれるように、私が監督に頼んだのだし、連れ出すとも言ってあるわ。それと、美登里さんに連絡したら、二人の関係を世間にバラしてしまうから」
「それを……どう、して」
「ふうん。やっぱり君があの子の支えだったのね」
つまらなさそうにグラスに口をつける洋子。
カマをかけられたことに気付いた古屋は、気まずさから自分もグラスの中身を煽った。
「嘘よ。本当にバラしたりなんかしないわ。ドラマがダメになってしまうもの」
「ドラマのため……ですか」
「そう。私たちは作品の奴隷」
その一言がカクテルと共に、彼の臓腑を酷く重たくした。
【急】
やけに意識に霞がかかったような気がしていた。
慣れない相手と飲んでいるからか、弱みを握られたと感じているからか。しかし不思議と悪い心持ちではなかった。
いつの間にか、自らの情報をほろほろと話してしまうくらいには。
「僕、ずっとドラマを撮りたかったんです」
「そう」
「高校の時にね、三上ってヤツが……そいつ、部活の後輩で、でもすごい情熱持ってて」
「部活?」
「将棋部です」
「演劇部ではないのね。変なの」
「一手一手がすごく光ってて、なんていうか、こう……」
「ドラマみたいだったの?」
洋子が、くすりと笑う。それを見て、古屋の顔も綻んだ。
「そうです。すごく、それを、誰かに伝えたくて」
「そこにドラマを見たのね」
こくりと、頷く。
「ドラマはね。どこにでもあるものよ」
「やっと、ドラマを作る側になれました……」
「撮影現場ではね、二度、ドラマが生まれる。作品とは別に、私たちの間にも」
急に、洋子の声が冷たくなったような気がした。
視界が一瞬揺らめき、重たい靄が意識にかかりはじめる。
「製作陣の中でドラマが生まれたら、作品にもそれは反映される。ねえ、君の役割は何かしら。助監督補佐見習いくん」
「僕の役割は、皆にスムーズに動いてもらう環境を、つく、る、こ……と……」
急激に瞼が重たくなっていく。
必死で目を隣にやれば、洋子の口の端がきりきりと上がっていた。
「私の役目は、良い映像を撮る事。……たとえ、誰に恨まれても」
その呟きは、古屋には届かなかった。
○ ○ ○
目を覚ませば、ベッドの中。むせるような甘い香りに囲まれていた。
何も身につけず、また何も纏わず、そして隣には同じく一糸纏わぬ洋子の姿があった。
声が出ない。
状況が一切飲みこめず辺りを見渡すが知らない空間に変わりはなかった。
ベッドの横には、いかにも豪奢な果物類を入れた籠。切り分けられた何かの果実と、果に濡れたフルーツナイフ。
甘い香りは、そこから放たれていた。
「おはよう、古屋くん」
「え、え……?」
「私が犯人よ。カクテルに薬を仕込ませてもらったわ」
それは、そうなのだろう。だが、どうして。
「こうすれば、良い画が撮れるもの。あの子、君を奪った私を恨むでしょうね。そうすればきっと、迫真の演技が見られるわ」
「でも、僕はアナタと関係を持っていない!」
逃げるようにベッドから転げ落ちる。
「それを決めるのは、私でも君でもない。……連絡はしておいたから、そろそろかしらね」
部屋に、扉が開く音が響く。
視線を向けた先には、美登里の姿があった。
「美登里! これは違うんだ!」
「……明楽くん……」
美登里の頬に、一筋、涙が伝う。
「何もない! 信じてくれ!」
「嫌だ、明楽くん、嫌……」
酷く重い足取りで、ゆっくりとベッドへ、古屋と洋子の近くへと寄ってくる美登里。
古屋を見て、そして洋子を見る。その眼は深い絶望を映していた。
――慟哭。
部屋に漂う花の香りを引き裂く声と共に、美登里はそこにあったフルーツナイフを握ってベッドに駆ける。
古屋が声を出す前に、洋子の胸に銀のナイフが突き立てられた。
じわり、深紅が刃を流れる。
「――え……」
声とも、息ともつかぬものが洋子から漏れる。
彼女は測り損ねた。水野美登里という人間を。天真爛漫に振る舞っているようで、それらは全て古屋という人間の土壌が咲かせた儚い一輪の花のようなものだと見抜けなかった。
果実の香りに、鮮血の臭いが混ざる。
時が止まったような長い数秒の後に、美登里がハッとする。そこでようやく、彼女は己の手の中に何があるのかを認識した。
「明楽、くん……私、私……」
目を見開いたまま事切れた洋子から視線を剥がせず、美登里は声を絞り出して古屋の名を呼んだ。
二人の間を体で遮り、古屋は美登里の震える体を強く抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だ。俺がなんとかする。俺が、なんとかするから」
肌に纏わりついて離れない淀んだ臭気の中で、微かに、だが確かにシクラメンの香りがした。
◆ ◆ ◆
「はい、カーット!」
監督の声が響くと同時に、多くのスタッフが慌ただしく動き出す。
何も着ていない古屋と洋子にブランケットを渡し、メイク班が洋子についている血糊を速やかに落としていく。
「お疲れさまでした!」
「ありがとう。さ、画の確認に行きましょう」
がばりと洋子がベッドから起きて、髪を掻き上げる。
「洋子ちゃん、服くらい着てからにしたら?」
「美登里の会心の演技だったもの。早く見たいの」
「うんうん。洋子さんは美登里さんが好きだから仕方ない」
「妹が好きで何かいけないかしら。さ、早く」
古屋と二人の水野。主役の三人は軽口を交わしながら撮影された映像を監督やスタッフらと共に確認した。
「……よし」
「よしでーす!」
「古屋明楽さん、水野洋子さん、水野美登里さん、オールアップでーす!」
「全行程あがりです!」
「クランクアップです!!」
「おつかれさまでしたー!」
「おつかれさまでした!」
撮影現場が喧騒に包まれる。
「お疲れさまっす、古屋先輩」
「お、ベテラン俳優の本城様」
「もー、それやめてくださいよホント! プレッシャー、パなかったんすから!」
「でも、堂に入ってて良い演技だったぞ。初めてなんだろ? 現場」
「古屋先輩のアドバイスのおかげす」
「いやいや、みんなやってるよ。“自分をベテランだと思い込む”なんてのは」
一人のドラマ撮影スタッフを巡る、二人の女性の愛憎劇。映画の中でドラマ撮影の様子を表現する入れ子構造のような脚本を演じたのは、仲睦まじいことで知られる水野姉妹と、実力派の古屋。
役名と俳優名を一致させるこの試みは話題を呼び、その年の興業収入ランキングで一位をかっさらう話題作になった。
映画内でベテラン俳優役を演じた新人俳優、本城はこの作品を期にブレイクしていくが、それはまた別の物語である。
【撮影終了】
シクラメンの馨り 三衣 千月 @mitsui_10goodman
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