考える妻、悩む夫

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考える妻、悩む夫

「妻は考察魔なんだ」



 そういって、近藤はカレーパンを一口頬張る。



 時刻は午後十時半を回っているというのに、オフィスはまだ騒がしかった。しかし活気に満ちているとは言い難く、社員のこぼすため息が蓄積して部屋全体がどんよりしているように思える。


 企業に納品した印刷機に異常が発生して、課全員がその処理に追われているのだ。


「あのね、電源がつかないんだよね」


 納品先のお偉いさんがクレームをつけてきたのだ。


「百回くらい電源連打しても、うんともすんともしない」


 そういったそうだが、そもそも百回も電源を連打したことが問題ではないのか、といいたくなる。


 近藤はパソコンの数字と格闘しながら、再び軽食であるカレーパンをかじる。


「考えるのが好きというより、考えるのをやめたくない、っていっているんだ」

「へえ」


 隣の席で、同僚の前田がコーヒーをすすった。興味深そうに目を細めている。


「たとえばさ、俺が娘の美波にタブレットを持たせたことがあってさ」


 とある日曜日の出来事だ。近藤は仕事用のタブレットで作業をしていた時、いつの間にか美波がタブレットを興味津々で見ていることに気付いた。


「おとうさん、これ、なにー?」


 そう無邪気に聞いてきたため、試しに触らせてみたのだ。

 それを見た妻は激怒した。


「何やらせてるの⁉」


その怒声に飛び上ったほどだ。



「子供っていうのはね、これからいろんなことを会得していくのよ? それなのに、小さい頃からこんな機械に頼って何が学べるの? 知識が増えるだけで、何も学べないじゃない」


 そう嘆いていた。


「こんなものは思考の放棄と同じよ? 美波にはね、『何でも手の届くところに答えがある』って思ってほしくない。考えて、考えて、とにかく考えて自分なりの答えを得る。そういう子に育ってほしいのよ。考えるのをやめた人間なんて、サルにも劣るわ」



 タブレットごときで何を大げさな、という言葉は妻の凄まじい剣幕に封じられた。

 たとえ話はこれだけではない。

 半年前の衆議院議員選挙の時も、妻は憤っていた。



「毎回毎回さ、周りの雰囲気だけで行動する人がいるよね。みんなが動くほうに、自分も動く人が。川の流れにしたがう流木みたいにさ」



 テレビで開票結果を見ているときだった。大方の予想通り、今回の選挙も国民党が票の大半を占めている。



「そういう人ってさ、ちゃんと自分で考えてないんだよ。いつも他人の考えに流されれば、何かあっても自分に責任はないって思っているんだよ。そういうの、ずるいよ」



 お酒も入っていたからか、妻はどんどん饒舌になっていった。「政府はいつも考えなしだ」「政治家の考えていることは金と権力のことばかりだ」と悪態をついていたのだが、「あなただって、どうせ私と美波のことなんて……」といつの間にか近藤のほうに矛先が向けられていた。



「あなた、ちゃんと考えているの?」



 語りつかれたのか、それを最後に妻は眠ってしまった。



「まあ、そんなことがあったんだ。結婚生活は苦労するよ」

「理屈っぽい奥さんだな」

「本当にその通りだ」



 そのとき椅子に掛けていた上着から、振動を感じ取った。ポケットから携帯を取り出してみてみると、妻からだった。



「はい、もしもし」

「今どこ」


 ぶっきらぼうにいわれる。


「どこって、会社だよ」

「ホントに?」

「なんで疑うんだよ」

「ここ最近ずっと帰りが遅いじゃない」

「まあ、今日はトラブルがあってな。残業だよ」

「ふーん」


 携帯からノイズが走った。故障かと思って画面を見てみると、「ねえ、これおとうさんと、つながっているの?」という声が聞こえた。慌てて、携帯を耳に押し当てる。


「美波か?」

「あ、おとうさんだ」


 娘のはしゃぐ声を聴いて、近藤は仕事の疲労感が吹き飛んだ。


「ねえ、おとうさん。きょうも帰り、おそいの?」

「うん。ごめんね、お父さん今、忙しいんだ」


 いくつかの間があったあと、美波はいった。


「おとうさん。おとうさんって、ウワキ、してるの?」

「え?」


 近藤の顎が、がくっと落ちる。

 危うく携帯を落としそうになった。


「びっくりした?」


 再び、妻の声が聞こえた。悪戯が成功した小学生のような声だ。


「美波に妙な言葉を吹き込まないでくれ」

「子供って不思議よね。いつの間にか難しい概念を覚えてて。この間もさ、美波が死んだカマキリを持ってきてね、『この虫さん、しんじゃった』って言ったのよ。子供って親の知らない間に『死』を知るのよね。やっぱ自然の中で学ぶものなのねえ」

「子供が自然の中で、どうやって浮気という概念を学ぶというんだ」


 そもそも、浮気というのは概念ではなく、単なる行いのことではないか。


「美波はまだ幼いんだから。頼むから変なこと教えないでくれよ」

「あなただって『浮気』の意味を美波に教えることにならないよう、頑張ってよ」

「はいはい」


 電話を切る。

 携帯をデスクの上において、背もたれに体重をかける。

 ぎしぃ、と椅子が音を立てた。


「素晴らしい奥さんだな」

「ホント、それな」


 前田の冷やかしに、手を振ってこたえた。





 結局帰路についたのは午後十一時半だった。

 商店街を通る道なので、この時間帯でも人は多かった。すれ違う人からは濃い酒の匂いがした。


 近くの居酒屋から出てきた五人くらいの若い男女が「当然、これから二次会だろ?」と騒いでいた。


 近藤は肩を回した。

 大して重くないカバンなのに、五分持つだけで肩が痺れ始める。

 足取りはとても軽いとはいえず、足裏を這いずらせて歩いていた。


 ――明日も残業なのか。


 そう思うと暗鬱な気分になるので、その思考を振り切った。

 とりあえず、今日はさっさと風呂に入って寝よう。


 ――でも、明日も早起きだな。


 肺に溜まった重い空気を吐き出した。

 今は何も考えない方が賢明だ。


「あなた、ちゃんと考えているの?」


 そんな声が聞こえた気がしたが、疲れから来るものだと思い、無視した。


 しばらく人の流れに従うように歩いていると、突然大声がすぐ近くから聞こえてきた。


 半ば放心状態だった近藤は、その不意打ちに体をのけぞらせた。

 見ると、駐車場にいる二人の男が言い争っていた。


 ちょうど二人の真上に電灯が置かれてあったので、暗転した劇場で照明が当てられている舞台のようになっている。


 一人の男は、体格のいい坊主頭の男だ。歳は三十代後半あたりか。半袖のシャツからタトゥーのようなものを覗かせている。

 怒りのために顔を真っ赤に染めて何か怒鳴っていた。今にも殴りかからんばかりの勢いだ。


 手は車のドアノブにかかっている。

 もう一人の男は、眼鏡をかけた神経質そうな若者で、緊張のためかしきりに眼鏡をずり上げている。


 口論で優勢なのはどうやら坊主頭の男のようで、勢いで眼鏡の若者を言い包めようとしている。

 まあ、眼鏡の若者よ。どんな理由で言い合っているのか知らないが、頑張ってくれよ。


 そう思って、立ち去ろうとした時だった。


「ど、どんな理由があっても、酔っている状態で、その、運転はダメです。……と思います」


 途切れ途切れの言葉にはっとする。

 そこで近藤は初めて気づいた。

 坊主頭の男の顔が赤いのは、なにも怒りのためだけではない。


 そして、坊主頭の男は、今なお車のドアノブに手をかけている。


「うるせえんだよ、お前は。ここから家は近いんだよ。すぐだ、すぐ。事故にさえ遭わなきゃいいだろうが」

「そ、そういう問題では、な、ないと思います」


 坊主頭の男は鬱陶しそうな顔をした後、ドアノブを引いて車に乗り込もうとした。

 その肩をなんとか眼鏡の若者は引き留め、弱々しくも説得しようとしている。

 坊主頭の男は凄むように「なんだよ」と低い声を発した。


 大丈夫だよな。


 あたりの通行人に目を配らせる。誰も、駐車場の言い争いに目をはせることはしない。

 あんな大声なのに、誰も彼も気づいていないふりをしている。

 きっと、あの眼鏡の若者が止めてくれる。


 そう思いたいが彼を見る限り、意地でも坊主頭の男を止めるような頼もしさは感じない。

 近藤は川の流れを感じた。



「周りの雰囲気だけで行動する人がいるよね。みんなが動くほうに、自分も動く人が。川の流れにしたがう流木みたいにさ」


 いま、川は二人の言い争いから遠ざかろうと流れている。その流れに乗じなければ、厄介ごとになる。

 目に見えない人の流れというのは、常に厄介ごとから離れるよう出来ている。


 近藤は考えを打ち切って、大人しく家に帰ろうとした。


「考えるのをやめた人間なんて、サルにも劣るわ」

 妻の声が頭に響く。


「いつも他人の考えに流されれば、何かあっても自分に責任はないって思っているんだよ。そういうの、ずるいよ」


 誰かに責められているような気がした。

 再び駐車場を見ると、坊主頭の男はもう運転席に座って、眼鏡の若者は開けたままのドアを掴んで説得を試みている。


 あの臆病そうな眼鏡の若者が、自分より何倍も勇敢に見えた。一瞬、眼鏡の若者が妻の姿に重なる。

 妻はこういう場面に出くわしたとき、どうするだろうか。

 大人しく川に流されるのか。あるいは、流れの中で佇む一本の木になるのか。


「あなた、ちゃんと考えているの?」


 そうだよ。考えているよ。

 俺だって考えているよ。

 考えて、考えて、とにかく考えて自分なりの答えを得る。そうだろ?


 流れの中で立ち止まるためには考えなきゃいけない。

 近藤はつま先を駐車場に向け、歩き出した。






「ただいま」

「おかえりー」


 妻が玄関でカバンを受け取った。

 リビングに行き、ソファーに腰かけた。体を伸ばすと、関節が殻を破るようにバリバリと音を立てるようだった。


「美波は?」

「とっくに寝ちゃったわよ」

「だよな」

「今日、なにかいいことでもあったの?」

「ん? なんで」

「なんか、にやにやしてるし」

「そうか?」


 顔を触る。確かに、唇の端が吊り上がっていた気がする。


「怪しぃ」

「なにが怪しいんだ」

「残業から帰ってきて、なんでそんなニヤニヤしてるの?」

「まあ、あれかな」


 ネクタイを緩めながら、言葉を探した。


「俺は生きているんだなって、思ったんだ」

「なにそれ」

「いや、人って普通に生きているとさ、生きているって実感がわかないだろ。普通に、何も考えずに生きていればさ」

「何も考えずにね」

「けど、今日はそういう実感を得たっていうか。大げさだけどな。……まあ、そういうこと」

「なにがあったわけ?」


 その質問には答えなかった。


「風呂入るよ」


 そういって、ワイシャツのボタンをはずし始める。妻は訝しみながら、こういった。




「やっぱり、あなた浮気してんじゃないの?」


 


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