ペットシッターは見た

おこげ

第1話

 家庭というのはそれぞれ独自の生活スタイルや外部に知られたくない事情があったりするものだ。見せかけの幸福、傾く現実、見当違いの真実――私が訪ねる家々はどこも新鮮味に溢れている。だからこそ、どれだけ繰り返してもこの仕事に飽きは来ない。




 「改めまして、紹介所から参りました西原にしはらです」


 そう言って私は桜色の名刺を差し出した。デフォルメされた犬の絵が描かれている。ペットシッター用の名刺なので堅苦しいイメージはない。



 その名刺を眼の前の男性が受け取る。


 「はい。それでは西原さん、今日から五日間よろしくお願いします」


 男性の名前は豊幡聡とよばたさとし。この家のご主人で、今回ペットシッターを依頼した雇い主だ。


 日本の大手自動車メーカーに勤める豊幡さん。監査役員だそうで、戸建ての豊幡家は外観はもちろんのこと、中も大変に素晴らしい。アパート一室分の広さはある玄関では素人目では到底理解できない謎のモニュメントたちが客人を出迎え、全面床暖房の廊下を渡るだけでも六つの扉を横切る必要がある。現在、私たちがいるリビングは三階まで吹き抜けになっており、天井窓から降り注ぐ陽光は私に活力を与えてくれる。


 豊幡さんは明日から海外出張で家を留守にするらしい。奥さんも先日から友人とドイツへ旅行に出掛けているそうで、子どものいない豊幡家にはペットだけが残されることになる。そこでペットシッターの出番ということだ。家の概況を把握させたいからと、出張前日からの依頼となった。



 「我が家のペットはなかなかのじゃじゃ馬でね。僕以外に懐いたためしがないんですよ」


 苦笑交じりにそんな事を言う豊幡さん。


 「僕がいる間に少しでも警戒心が解けてくれると嬉しいんですがね」

 「私もお仕事で訪問させて頂いてるので。責任をもってお世話致します」


 そう、仕事を完遂するにはそれだけ真摯に向き合う必要がある。

 犬猫とは充分に触れ合ってきた。家族以外には懐かないなどと言う家主はこれまでにも何度か会ったが、そのどれも大した苦労はしなかった。今回も親バカ精神からきた思い込みだろう。


 「それで、その子は今どちらに?」

 「こちらです」


 豊幡さんの指差す先は常磐色のカーテン。リビングの壁に長々と引かれている。


 確かこの家、裏手に馬鹿でかい庭があったな。通りからは塀でほとんど見えなかったけど。


 豊幡さんはカーテンに手を掛け開く。窓の外には均等に切りそろえられた芝生の絨毯が続いていた。

 カラカラと窓を開ける。すると何かがこっちに向かってくる音が外から聞こえてきて――。


 「おぉ……」


 感嘆の声が漏れる。

 眼の前に現れたのは全身真っ黒の馬だった。鼻を鳴らし、尻尾を激しく振っている。


 まさか文字通りのじゃじゃ馬だったとは。振り返ったところにホールトマトをぶちまけられた時くらいの不意打ちだ。


 「馬のラブリーです。先月に二歳を迎えたばかりのおてんば娘です」


 馬にその名前は如何なものなのか。


 馬の二歳は人で言うところの十五歳前後に当たるそうだ。


 「親が元競走馬なんです。だから本当はこの子も、その優秀な遺伝子から同じ人生を歩むはずだったんですが、あいにく右眼の視力が生まれつき低くて。競走馬としては使い物にならず、買い手を探しているときにたまたま僕の耳に入ったんですよ」


 いななくラブリー。豊幡さんが振り向き、首の辺りを撫でつけてあげると頭を上下に振っていた。


 「馬の世話をした経験は?」

 「調教経験くらいなら」

 「なら問題ないでしょう」


 そこで豊幡さんは馬の一日のスケジュールが記載された紙を私に手渡した。



 「食事とは別におやつもあげてやってください。リンゴと角砂糖が馬小屋横の物置に保管してあるので。あと期間中、家にあるものは自由に使って頂いて構いません。ラブリーに手が掛かるようでしたら、掃除や洗濯も不要ですから」


 「承知しました」


 大まかな説明も受け、頷く私。


 「よろしくね、ラブリーちゃん」


 正直口にするのが恥ずかしい名前を呼び掛けて、馬を撫でようと手を伸ばした。


 「ヴィヒヒンっ!」


 だが馬は私の手を鼻で払いのけ、頭を激しく揺らした。身体を持ち上げ、前脚で芝生を踏み鳴らすラブリー。彼女の荒々しい息が私の髪に吹き掛かる。


 「こらっ、ラブリー!駄目じゃないかこんなことしちゃ」


 豊幡さんが叱るも、さして反省する様子もなく。ラブリーは豊幡さんの胸に顔を寄せていた。


 「大丈夫ですか西原さん」

 「えぇ、平気です。よくある事ですから」


 べとべとになった顔にハンカチを当てやんわり答える。手洗い場所を聞いて、私はせかせかとリビングを後にした。




 プロという誇りを胸に事に当たらなければ。

 そう自分に言い聞かせる私。

 ワガママな馬が相手だからと、振り回されているようではまだまだ未熟というもの。


 軽く化粧を直してリビングへ戻る。


 「あー、西原さん。もうよろしいんですか?」

 「はい、お手数掛けました。ありがとうございます……それで豊幡さん、どうしました?」


 豊幡さんはリビングの脇にいた。キャビネットを物色していたようだが、私が声を掛けると何やら慌てた様子で引き出しを閉めてこちらに向き直った。


 「何か探しものですか?よければお手伝いしますけど」

 「ああ、ううん。いいっ、いいですから。別に大した物じゃないんです。だから、ね?西原さんはラブリーの世話をお願いします。何かあったらその都度、相談してくれれば――」


 「ただいまー」


 その時、玄関から女性の声が聞こえてきた。


 言葉を呑み込む豊幡さん。私は振り返り玄関の方を見る。ゴトゴトという音が廊下を転がり、声が近付いてくる。


 「任せっぱなしでごめんなさいね。不在の間、何も問題は――」


 リビングに入ってきたのは四十前後の女性だった。派手な身なりに少しふくよかな体格。

 彼女は私を見るや、眼を丸くして「誰ですか、あなた……」と言葉を続けた。



 「ペットシッターの西原です。ご主人様からの依頼で、本日よりこちらのラブリーちゃんのお世話のためお伺いさせて頂いております。奥様、ですよね?」


 これだけ堂々とした態度で家に上がってこられるのなら、間違いなくこの人が豊幡さんの奥さんなのだろう。察した私は手をお腹の前で組んで丁寧にお辞儀をした。



 「ペットシッター?」首を傾げる婦人。「だけどシッターさんは――」


 「あー、それはですね紗英さえさん、少し事情があって」


 婦人の言葉を遮って豊幡さんがぱたぱたと彼女の元へ駆け寄る。何やら耳打ちをされると、彼女は得心したように二度大きく頷いた。


 「まあまあ、研修生の方だったんですね。お仕事に熱心なのは大変感心します」


 私の顔を見てそんな事を言う婦人。

 研修生?私のことだろうか?


 「確かに馬を飼っている家はそうありはしませんものね。どうぞ、しっかりお勉強なさっていってください」

 「あの、何をおっしゃっているのかよく分からないのですが……」



 そこで豊幡さんがまたぱたぱたと駆ける。今度は私の所にだ。私にだけ聞こえるように耳元で囁く。


 「ちょっと事情があるんです。すみませんが今は口裏を合わせてくれませんか」


 豊幡さんが必死な視線を向けてくる。

 特にメリットもなさそうなので断っても良かったのだが、首を縦に振って了解した。


 だってなんだか面白そうだったし。


 私の合意に豊幡さんは“ありがとう”と口だけ動かして私の肩を軽く叩く。随分と安堵した表情を浮かべていた。



 「それで紗英さん、どうしたんですか?旅行は明後日までじゃ?」

 「そうだったんだけど、お友だちの自宅に強盗が入ったとかで、ホテルに連絡があったのよ」


 ホテルへの連絡は日本警察からの国際電話だった。旅行に出掛けた当日、住人の出払った隙に何者かが侵入。室内を物色した後、そのまま居座っていた疑いがあったそうだ。その際にご主人も被害に遭われたらしく、状況説明のために至急帰国するようにとの内容だったらしい。


 「それは恐いですね」と言ったのは私。


 「そうでしょう。盗むだけでは飽き足らず、住民に危害を加えるだなんて、本当に許せない」


 婦人も険しい顔つきで同意する。


 「まったくですね。」豊幡さんは苦虫を噛み潰したように表情を渋くさせていた。


 「まあ、あちらから連絡があるまではそっとしておこうと思うわ。かなり落ち込んでいたし。余計なことに時間を割かせるのも忍びないから」


 婦人は脇のカートを持ち直して、


 「じゃあ私、着替えてくるわね」

 「なら荷物は僕が――」

 「いいのいいの、あなたはラブリーちゃんを見てあげて。西原さんもよろしくお願いします」


 そう言って婦人はリビングを後にした。





 「嘘、ですか?」


 馬小屋で干し草を分ける豊幡さんに、私は聞き返した。


 「そう、嘘。全部嘘さ。僕はここの家の主人じゃなければ豊幡って名前でもない。西原さんと同じペットシッターだよ。この家専属のね」


 そこで彼は本名を本郷ほんごうと名乗った。


 「紗英さん――ここの奥さんなんだけどね。彼女と僕……実は不倫してるんだよ」


 溜めがちに口にする。

 まあ、そんな気はしましたけどね。


 「それで、それとさっきの嘘がどう関係するんですか?」

 「そりゃ留守中に浮気相手が自分の家で、知らない女と一緒にいたらびっくりするだろ?だから勘違いしないように」

 「だったら依頼なんてしなければ良かったんじゃ?ペットシッターなんですよね?」


 シッターがシッター雇うとか意味が分からない。


 「え?あー、えっと……実は僕、今回の依頼が終わったらシッターを辞めるんだよね。うちの会社で馬の世話できるの、僕だけだから。それでこの馬の引き継ぎが欲しくて、つい」

 「はぁ……なるほど……」


 一緒に居たラブリーを見る。

 別れが迫っているのを知ってか知らずか、ラブリーは相変わらず豊幡さん改め、本郷さんに身体を擦り寄せている。

 私が一歩近付くと、馬は私に視線を向け、鼻息を荒くして傍に寄るなとアピールしてくる。専属とはいえ、随分と気に入られたものだ。


 「だから、ね?僕と君はペットシッターの先輩と後輩、そういうことにしておいてくれないかな。頼むよ」


 懇願する本郷さん。


 「事情は分かりました。私も仕事で来ているので、余計な問題は抱えたくありません。そちらの都合に合わせて、そういうことにしておきます」



 今は――。




 家に戻ると、リビングから婦人の話し声が聞こえてきた。

 来客?そう思って覗いてみると、婦人と歳の近そうな男性がいた。


 「夫のさとしです」


 婦人に紹介された男性は「はじめまして」と握手を求めてきた。私もそれを受けて手を握る。


 遅れてリビングにやって来た本郷さんをちら、と見る。眼が右に左に泳いでいる。明らかに動揺していた。


 「だ、旦那さんも早いお帰りだったんですね」

 「ああ。査察先で特に異常もなかったからね」


 「ほら、そんなとこに突っ立っていないで、少しは席に着いて休みなさい」と本物の豊幡氏が言葉を続けた。

 本郷さんは「で、では……」と軽く頷き、彼に従ってソファに腰掛ける。私もその隣にしれっと座る。


 「お茶を淹れてきますね」と婦人。


 「あ、それなら僕が」

 「いい、いい。家の者がいるうちはわざわざ気を使う必要もない。あくまで君たちはペットシッターなんだからね」


 一度腰を上げた本郷さんだったが豊幡氏の制止を受けて、渋々とソファに戻った。


 「それでどうだった、うちのラブリーは。留守の間、元気にしてたか?」

 「え?あ、はい。普段と変わらずのおてんばでしたけど、ちゃんと良い子にしてましたよ」

 「あれが甘えるのは君くらいにだがね。私たち夫婦にすらあそこまで懐かないよ。君が馬なら是非とも見合いに出したいところだった」

 「あー。ははは、それはどうも……」


 若干顔が引きつり気味の本郷さん。

 そこで今度は私が話を振られる。


 「西原さんと言ったね。君はシッターになってどれくらいになるんだ?」

 「えーと、一ヶ月と少しってところです。それとまだ研修の身なので」


 一応、本郷さんの頼み通りに話を合わせる。


 「馬の勉強をしに、ということだったね。どうだい、馬の世話は?」

 「やることが思った以上に多くて驚きました。仕事量もそうですが、馬そのものがまず大変ですね。警戒心が強いから打ち解け合うのは難しいですし、何より身体が大きいので、移動させたくても言うことを聞いてくれないとビクともしません」

 「一方的な押し付けは快いものではないからね。自分の行動にとやかく言う相手には不信感しか生まれない。どんな動物にも当てはまることだが、信頼関係が結べないことには何も始まらないのさ」

 「人同士でも言えることですね。互いを信頼してるから夫婦になるし、信頼してるからシッターを雇う。双方の間でしか見えていない関係だけを理由に、何の疑いもなく全面的に相手を信じる。逆に見えなければ何をしたっていいし、何をされたって気付かない。結んだ信頼がほどけることはない」

 「なるほど、確かに……はは、面白いことを言うね西原さんは」


 大胆に笑う豊幡氏。

 隣の本郷さんの顔はとても楽しそうには見えなかったけども。



 そこで紗英婦人がティーカップを持って戻ってきた。金彩装飾の表面と蔓のようにねじれた独特な形状の持ち手をしている。ソファ前のガラステーブルに洋菓子も添えられていく。

 そこで私はテーブルが妙にキラキラしているのに気付いた。注意深く見てみると、縁回りには細かくカットされたダイヤモンドの粒が散りばめられている。今腰掛けている革張りのソファもそうだが、眼に付く至るところに贅を注いでいる様子で、金の使い処に隙が見えない。


 「宝石に興味があるのかな?」


 私の視線が熱かったのだろう、豊幡氏がカップを手に訊ねる。


 「いち女性として、嫌いではないです。好きというとそれはそれで卑しい感じに聞こえて嫌ですけどね」

 「謙虚な方なんだね、西原さんは。それともシッターというのは皆、欲とは縁遠いのかな」


 豊幡氏が視線をずらし「君もあまり高価な物には興味がなさそうだしね」と本郷さんに言った。本郷さんも「あっ、え、ええ。まあ……」と返事をして紅茶を飲んでいた。


 「そうだ!試しに何か身に着けてみましょうよ」


 婦人が私にそんな提案をする。


 「いいんですか?」

 「もちろん。見習いさんの今後を願って派手に着飾りましょう」


 どう今後に繋がるのか意味はよく分からないが、婦人は「ちょっと待ってて」と言って躍るような足取りで離れていく。



 向かった場所はリビングの端。

 キャビネットだ。




 「え?」


 キャビネットを開けた婦人が間の抜けた声を漏らした。


 豊幡氏が声を掛ける。


 「どうした?」

 「……中身が、空っぽなの」


 ぽかんとした表情を浮かべ、婦人はそう呟いた。


 何事かと豊幡氏が席を立ち駆け寄る。私も後に続いた。


 「ここには指輪やネックレスを入れていたの。だけど、ないのよ」


 それを聞いて私たちはキャビネットを覗いてみる。出された棚の中は何も入っておらず、装飾品などどこにも見当たらない。



 「まさか、泥棒!?」豊幡氏が叫ぶ。


 「そういえばお友だちの家も狙われたのよ」


 私たちに語った話を婦人が再度説明した。


 「お友だちの家も近辺だし、きっとまだ潜んでいたのよ」

 「人殺しまでするような輩とは悍ましい……すぐに警察に連絡しなさい」


 豊幡氏の言葉を受けて、婦人は怯えて頷き電話の元へ走りだす。



 「待ってください」


 そう言ったのは私。

 婦人は脚を止めて振り返る。



 「なんだね西原さん。今は悠長なことをしている場合では――」

 「私、盗んだ犯人知ってます」


 私がそう言うと、二人は固まったみたいに一瞬息が止まった。驚き見開いた眼で私を捉える。


 「ほ、本当かね!?」

 「はい」

 「いったい、誰が……」

 「あの人です」


 腕を伸ばして私は指差す。

 指先にいるのは本郷さんである。

 彼は微動だにせず、ソファに背中を預けていた。


 「本郷くんが?まさか?」

 「こんな時に冗談はよしてください」


 まあ、当然の反応だろうけど。


 「お二人が帰ってこられるまでに私、お手洗いを借りるため一度リビングを離れたんです。そのあと戻ってみたら、あの人キャビネットで何かしてたんです。探し物をしているのかと思ってましたが、あれは盗みを終えて片付けをしているところだったんですね、きっと」

 「だがそれだけでは証拠には」

 「彼、リュックを持ってるみたいです。リビングにあったのを、さっき馬小屋まで持っていったのを私見てます。おそらく消えたアクセサリーはその中に隠してあるのかと」


 重苦しい気配が部屋を包む。豊幡氏は信じられないという様子で首を左右にゆっくりと動かしている。


 「し、しかし、どうして今頃になってこんなことを……仕事熱心で疾しい様子なんてまったくなかったというのに」

 「たぶんお二人が気付いていないだけで、これまでにも盗みを働いていたんじゃないでしょうか。バレないように最小限に抑えて。彼、今日限りでシッターを辞めるらしいですね?」

 「なんだって?そんな話、初耳だぞ……」

 「あーやっぱり、そこも嘘だったんですね……実はですね。私とあの人、まったくの赤の他人なんですよ。勤務先は別の会社ですし、会ったのも今日が初めて。彼がこの家のご主人のフリをして依頼してきたんです。奥さんとの不倫にも飽きて、そろそろ撤退するつもりだったんでしょうね」

 「なっ!?ふ、不倫だと!?」


 驚き声を上げる豊幡氏。婦人を見るも、彼女はひょいと視線をかわした。



 「まあ、それは後にしておきませんか?今はまず、眼の前のこそ泥をどうにかしないと」


 本郷さんの方へ詰め寄る。

 するとバッとソファから立ち上がり、


 「裏切りやがったな!黙ってるって言ったくせにっ!」


 吠え立てる本郷さん。


 「人聞きの悪い言い方はやめてくれませんか。私が内緒にするよう言われたのは浮気についてだけです。それに私、こうも言いましたよね?仕事で来てるので余計な問題は抱えたくない、と。警察なんて呼ばれたら、面倒でしかありません」

 「こ、この……」


 本郷さんは怒りを露わに歯を剥き出しにする。


 「美味しい思いをしてる奴からちょいとつまみ食いしただけだろうが!そいつらだって今の今まで気付きもしなかったんだ。誰も不幸になってないのに、何を責められることがある!」


 まさか開き直るときたか……。


 「貴様っ、それが本性だったか!せっかく買ってやってたというのに。私の信頼を返せ!この碌でなしがっ!」

 「そういう上から目線が気に喰わないんだよっ。金持ちがなんだ!あんな紙束に必死に群がりやがって。金も愛も全部まやかしなんだよ!騙す騙される、それが人の全てだ!」

 「私の妻まで愚弄する気かっ!」



 その言葉に豊幡氏の理性は限界を越えた。傍にあったゴルフバッグから一本取りだして、床を力いっぱい叩きつける。打ちつけられた箇所は深く凹み、それを確認してから彼は、クラブを握る腕に力を込め直して本郷さんの方へと向かっていく。



 だがその時。

 突如、リビングの窓が割れた。

 そして、その凄まじい音に紛れて窓から大きな物体が侵入してきた。



 ラブリーだった。


 ラブリーは豊幡氏と本郷さんの間に割り込むようにして中へやって来た。


 皆が呆気に取られる。


 そんな事はお構いなし、とラブリーは本郷さんの方に振り向き頭を振った。

 咥えているのは本郷さんのリュック、それと水撒きに使用するホース。


 ラブリーはその場で身を屈め、また頭を振った。



 本郷さんがはっとする。


 「僕に乗れと?」


 言葉を理解しているかのようにラブリーが頷く。


 そこには一人と一匹の男女にしか分かり得ない心が通っていたようだった。


 全てを察した本郷さんはリュックを背負うと、ラブリーに跨がり、ホースを手綱のようにして掴んだ。


 直後にラブリーは上体を起こし、向きを変えた。


 「じゃあなクソジジイ。あんたの娘はもらってくぜ」


 そんな捨て台詞を残して、ラブリーは走り出した。窓を越えて、緑薫る芝生を駆け抜ける。


 「ああっ、そんな!」頭を抱える豊幡氏。

 婦人もその場でへなへなと座り込んでしまう。


 「大丈夫ですよ」


 そんな中、私は気楽な調子で歩きだし、持参していたバッグからロープを取り出して割れた窓から庭へと出た。




 疾走するラブリー。

 どこまでも走り続け、遠く遠く去って行く。


 だが、その背に本郷さんの姿はない。


 私が庭に出た直後、『ビヨーン』という効果音がお似合いの状態で本郷さんは落馬した。手綱として握っていたホースは、末端が庭の水場にがっちりと固定されていたのだ。

 落下の拍子に彼は後頭部を打ったらしく、大の字でうんうんと唸っていた。


 失踪するラブリー。

 どこまでも走り続け、遠く遠く去って行く。




 取りあえず、本郷さんはロープで手脚を縛ってリビングまで連れてきた。


 「この野郎、ふざけた真似をしおって。警察に突き出して、人生後悔させてやる」

 「まさかあんな人だったなんて……」


 様々な想いを吐露する豊幡夫妻。

 不倫についても口喧しく騒いでいる。



 「いやぁ、それにしても西原さん、本当に助かったよ。」


 少し頭が冷えたところで、豊幡氏がそう口にする。


 「いえ、大したことはしてませんよ」

 「君がいなかったらもっと大変なことになっていたに違いない。今度、改めてお礼をさせてもらうよ」


 豊幡氏は婦人を見て、警察はいつ頃来るかを訊ねた。


 「あ、ごめんなさい。まだ連絡してなかった」

 「何をやってるんだ……もういい、私が掛け――」

 「その必要はありません」


 内ポケットからスマホを取り出す豊幡氏を私は制止する。


 「どういう意味だい、西原さん?」

 「だって――」



 首を捻る彼に私はこう答えた。


 「警察が来たら、仕事の邪魔になるじゃないですか」





 ――本日午前八時ごろ、田淵たぶち市の住宅で刺殺体が発見されました。事件発覚は周辺住民の通報によるもので、異臭に気付いた住民が玄関まで様子を見に行くと鍵が開いており、そのまま中を確認した際に発見したとのことです。

 遺体はその家に住んでいた豊幡聡とよばたさとしさん四十一歳、妻の紗英さえさん三十八歳、そして豊幡さん宅でペットシッターをしていた本郷秀記ほんごうひでのりさん三十二歳であると判明しました。

 尚、遺体は離れた場所にあったらしく、豊幡夫婦はリビングに、本郷さんは庭にある馬小屋の中に、それぞれロープのようなもので手脚を縛られた状態だったとのことです。

 警察によると室内は荒らされた形跡があるらしく、犯行の手口から先日隣の端塚はしつか市で発生した強盗殺人との関連性も視野に入れて捜査を進めるということです。

 また、同日午前正午過ぎ、田淵市内を流れる河川の高架下において、ドラム缶に女性が遺棄されているのを警邏に当たっていた警官が発見しました。

 所持品から亡くなったのは西原奈子にしはらなこさん二十五歳だと分かり、殺害方法は先の二件と同様の手口で、こちらも同一犯の可能性があるとのことです――。



 テレビからニュースが流れてくる。

 膝を上げてソファに座る私はその音を心半分でながら、豊幡家から頂戴した赤ワインを味わう。ワインを持つのとは逆の手の人差し指で、膝の辺りを何度も叩く。他人で言うところの貧乏揺すりのようなものだ。仕事の依頼が来るのを待つのが最も苦痛で、いつもこうしている。


 まだか、まだか。早く仕事がしたい。

 想いは募るばかり。


 テーブルに置いてあった、スマホが点滅した。遅れてブルブルと震動を始める。


 私はスマホを掴み、発信先を確認する……自然と笑みがこぼれて電話に出た。

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