第3話

 咲良が教室の扉を開けた時、クラスメートはまだ誰も来ていなかった。

 時計を見る。七時四十分。確かに少し早めである。

 咲良はスクールバックを開け、筆箱と英語のノートを取り出し、机に広げた。今日提出の宿題がまだ終わっていないので、さっさと片付けてしまいたかったのだ。


「さてと……」


 教科書の指定のページを開いて目を通す。前日の授業で少しやっていたので宿題になったのはかなり少量である。


「おはよう。咲良ちゃん早いね!」


 ガラガラと扉を開けて次にやってきたのは吹奏楽部の水野真那みずのまなだ。スタイルよし顔よし性格よしの完全なる美人である。


「おはよう、真那ちゃん。真那ちゃんっていつもこの時間なの?」


 とりあえず八時五分までに校門を通っていればいいというルールなので、大体の人は八時ギリギリに来る。それに比べて真那はだいぶ早い。彼女のことだから宿題も終わっているだろうし、意味もなくこの時間に来ているなんて考えられない。


「まぁね。楽器の朝練したいからさー」


「え、でも上田来てないじゃん」


 上田というのは同じクラスの二人目の吹奏楽部員で、「フルートが彼女だ」と公言している男子だ。


「上田は練習しなくても上手だからいいんだけど私はパートの足引っ張っちゃうから」


「へぇ……偉いね」


「そう?ありがとう」


 真那は照れたように笑って「じゃね」と教室を出ていった。

 再び英語に取り組む。苦手ではないが、得意でもない。分かる時と分からない時があるなんとも不安定な教科だ。そして今回はその分からない時である。


「んー……?」


 手元の課題に若干飽きてきて、時計を見上げる。七時五十分。そろそろ誰か来てもいい頃だなと咲良は扉を見つめる。と、階段を登る足音が聞こえた。


「……」


 扉を見つめていた咲良とバッチリ目が合ったのは、作間隼人さくまはやとだった。なんとなく気まずい空気が二人を包む。

 咲良は慌ててノートに目線を移した。


「おはよ」


「お、おはよ……」


 隼人が控えめに挨拶してきたので、咲良も控えめに返す。

 隼人は、中学三年生になった時に咲良の入っているディベート部に途中入部した部活仲間である。もとは吹奏楽部でドラムをしていた隼人だったが、キッパリ辞めて入部届けを提出してきたらしい。

 それからは一緒に仲良くディベートをする、はずだったのだが、中学三年生の秋の日の夜、咲良の携帯に電話をかけてきた。


『もしもし、田辺?』


「うん」


『あのさ、今日言いたいことあって電話したんだけど』


「え……何?」


『俺、田辺が好きなんだ』


「……は?」


 隼人が言うには、咲良に一目惚れして部活に入り、一緒に活動するうちに気持ちが大きくなっていったらしい。

 思い返せば、咲良に心当たりがなかったというと嘘になった。

 授業中目が合いがちだし、いつも何かと近くにいた気がする。


「ありがとう、でも、ごめん、私、」


 中学生の保険の授業で、LGBTsについて勉強した。先生の話を聞きながら、小学校でのこと、人生で初めて受けた告白の時のこと、自分の恋愛観、全てを思い出した。そうして咲良は、「自分がレズビアンである」ということを初めて理解したのだ。なんとなく「みんなと違うな」とは思っていたものの、こうしてちゃんと名前がついていることを知り、嬉しくもあり、不安にもなった。


 ___私って将来幸せになれるのかな……


 人間は大多数の中の一人になることを好む。咲良もまた、その例外ではなかった。

 少数派にいる、ということが咲良の中で形になり、改めて姿を現した時、咲良はこのことを黙っていよう、と心に誓った。


「でも私、誰かと付き合いたいって思ったことないから、ごめん」


『……他に好きなやつ、いる?』


「え……いや、いない」


『好きな男のタイプは?』


「た、タイプ……そういうの、ないかな」


『……そっか分かった。ありがと』


「……うん」


 電話が切れた後、咲良はしばらく画面を見つめた。

 これでよかったんだろうか、と思い返す。隼人には申し訳ないが、これがあの時咲良に出来た最前の策だった。



「次の部活、いつだっけ?」


「えっと……土曜日、かな」


「そっか。ありがと」


 隼人に話しかけられて、急いで手帳を開きながら答える。同じページの右下にある「奈緒ハッピーバースデー」のオレンジ色の文字が一際目立って見える。


「今年……何にしよう」


「ん?」


「あ、や、何でもない」


「何でもなくはないでしょ。心の声漏れてたし?」


「え?」


「今月末になんかあるの?」


 改めて隼人の方を見ると、ニヤニヤしながら咲良を見ていた。


「今月末、奈緒の誕生日なの」


「あー、で、プレゼントに困ってんの?」


「そう」


「でもめちゃくちゃ仲良いんだから好きな物とか知ってるでしょ?」


「知ってるけど……でもなんか、他の人と同じようなのあげたくないっていうか、私だからこそあげられるものって何かないかな……って、思って」


「ふぅん……なんか、好きな人の誕生日みたいな悩みだな。友達の誕生日というよりは」


「……は?」


「だってそうじゃん。どんだけ仲良くてもさ、友達同士だったらそんな悩まないって。ましてや自分にだけあげられるものなんて」


“好きな人の誕生日みたいな悩みだな”

 咲良の頭の中で隼人の言葉がすごいスピードで目まぐるしいほど駆け回る。


 ___好きな人、か……


「ナベちゃん!」と自分を呼ぶ声が聞こえる気がする。ずっと見てきた眩しい笑顔も、ふとした時に見せる真剣な顔も、三年間近くで見てきたいろんな表情が見える気がする。


 ___あれ……?


「もし、さ」


「ん?」


「私が本当に」


「おはよー!」


 私が本当に奈緒のことを好きだとしたら、作間はどう思う?

 思い切って聞こうとした言葉に、扉が開く音でストップがかかる。

 奈緒は親友、好きになるわけがない。

 不思議なほど心に残ってしまった甘い感情を、無理やりかき消しながら奈緒に笑いかける。


「奈緒、おはよ」


「ナベちゃんおはよー!」


 奈緒は自分の机に鞄を置いてすぐ、咲良のもとへ駆け寄ってきた。


「ナベちゃんナベちゃん、あのね聞いて」


「ん?」


「ハルが事務所移動するんだって」


「え?」


「だから、ハルがね、もともといた事務所からスパークに移るの!!」


「す、スパーク……」


 何だか聞いたことがある事務所だな、と思っていると、奈緒は自分の携帯を素早く操り、咲良に画面を見せてきた。


「ほら、これ、読んで」


“長井春樹、所属事務所を移動”


「まぁ、確かに、そう書いてあるね」


「なぁ、スパーク事務所ってさぁ」


 隼人が咲良たちのところへ来て奈緒の携帯を覗く。


「ここって一番盛んなの女性アイドルだよな?長井春樹はなんでこんなところにわざわざ移動したの?」


 女性アイドルが盛んな事務所、とぼんやり考える。

 まさか、と咲良は奈緒の方を向いた。


「あ、ナベちゃん気づいた?」


「まさかまさかの……」







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「叶わなくてもいいから」 葵ふたば @aoi_daradara

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