世の中の人は自己愛性人格障碍について、どれほどの知識を持っているのだろう。
事故に遭ってはじめて、「本当に事故に巻き込まれることがあるのだ」と愕然とするように、すぐ隣りにある「それ」を、多くの人たちは知らないまま過ごしている。
殺人的パワーで、寄生したターゲットの人生をズタズタにせずにはいられないこの障碍。
行く先々に「あの人についての注意喚起があります」と割り込んできては、自分だけに都合よく組み立てた話を耳打ちしていく悪評流し。
彼らの脳は爬虫類に近いのだそうだ。
その脳の構造の違いを考察する時、被害者はそれぞれ、個別におなじ回答に辿り着く。
・他人との境界がない
・ターゲットの価値を下げ、自分を上げる
・噂話と自慢話ばかりしている
・【正義・正論】を【防衛・攻撃】の武器にする
・人に恥をかかせること・人が不幸になることが大好物
・自己評価が現実離れして高く、『指導者的な立ち位置』に固執する。
・汚点や欠点をターゲットのものとして吹聴する
これらは被害者が口を揃えて証言するところだ。
第十七章【分離不全】の項を読んだ。
「分離不全」とは、乳児から幼児期の母子密着状態から自立し損ねた感覚として筆者は説明する。
自己愛の持つこの、「分離不全」。
被害者が、不適切行為を繰り返す自己愛を拒否した途端、自己愛は途方もない恐怖に襲われるのだそうだ。
嫌われて辛い、とかではない。
根底から世界が揺れ動くほどの恐怖らしい。
潜在意識が必要とする母親から拒否されるような激震なのだろう。
すると自己愛はその恐怖を逆転するために、大慌てになり、
「ターゲットがいかに極悪人で身勝手な危険分子か、いかにわたしが誤解を受けたか、わたしは問題児のターゲットに正しい人の道を教えようとしていた善良で高次元の救済者である」
そんな自分爆上げの三文芝居を必死で演じはじめるのだ。
自己愛はターゲットの周囲の人をリスト化し、まったく関係のない人たちのところに出向いてターゲットの悪口を云い触らす。
あの奇妙な行動原理は、「世界中の意見が自己愛と完全に一致していなければならない」分離不全が原因だとすると、説明がつく。
「視野の狭いターゲットに広い世界を教え、感謝する気持ちを与え、まともな人間に教育しようとしていただけだ」
こんなことを恥ずかしげもなく自己愛は実に堂々と云う。
あまりにも堂々と云うので、かえって人は騙されてしまう。
これは自己愛性人格障碍者のテンプレで、被害者はみな同じ方法で、当人とはかけ離れた悪人像を云い触らされている。
『劣ったターゲットを指導する功労者として注目を浴びたくなった』自己愛性人格障碍者のなせるわざなのだ。
【挨拶も感謝もできない人間。自分ひとりの力だけで生きてると想ってる】
地域一帯にこんな話を吹聴拡散されたら、被害者はどうしたらよいのだろう。
パーソナリティー障碍の人は、「ありのままの自分を受け止めるだけの自我」がないのだそうだ。
そこで彼らは、目先の言葉に飛びついて、『指導者・救済者』のようにふるまい、用意した自分の身代わりを責め立てることになる。
「ターゲットは認知が歪んでいるから注意して!」
その「認知のゆがみ」の中身といえば、自己愛本人の自画像なのだから、本当に意味が分からない。
本来は自分のものであるところの汚点・欠点を、洗脳した手下を総動員して猛烈な勢いで罵倒してくるのだから、被害者はたまったものではない。
毒親被害者が、「毒親から云われたことはすべて毒親の自己紹介だった」、DVシェルターに逃げ込む被害者が、「転職しても転居してもパーソナリティー障碍者が乗り込んできて、根こそぎ自己愛サイドに洗脳していく」と云うのは、この状況を指す。
>『じゃないですか』『ですよね』を多用する。
文中のこの箇所だが、自己愛が使う時においては、相互の共感に基づいて同項のことを話しているのではない。
有無を云わせぬというのとも違う。
他者という概念を想像したことがない(できない)という感じだ。
自己愛はその高い自己評価に沿って、『救済者』のような演技を展開することもある。
「してあげた」と宣伝して歩く。
代理ミュンヒハウゼン症候群に似ているかもしれない。
「劣ったターゲットを見守り救済しようとしている自己愛さんは偉人ですね」と注目を浴びている状態こそが自己愛を安心させる。
ターゲットにした人間の頭を踏んで晴れ舞台を作る。そうでないと、居ても立ってもいられないのだそうだ。
私もこの話にある成見さんのような(もっと正確に言うなら「中学教師」のような)上司によって心身を壊した事のある被害者です。
彼らの無自覚な暴挙によって、最後には命まで取られかけました。
その観点からレビューさせて頂きます。
貴方の周りにも、何となく「妙にめんどくさい人」「おかしいのでは無いか?」「何をそこまで」と言う人間はいないでしょうか?
そして貴方に対する「モラハラ」「パワハラ」と言う形で実害が出ていると言う事は無いでしょうか?
一度、こちらの作者様が言われている「自己愛性パーソナリティ障害」を疑ってみる事をお勧めします。
もし違うのであれば、それはそれで良い。
しかし、この耳慣れない自己愛性パーソナリティ障害は決して珍しいものではありません。一説によると、一般人口の実に0.5%もの比率で当該病質を持っているとさえ言われています。
「普通に生きているだけ」で周囲に致命的な害を及ぼす病質の人間が、病気の認知度の低さから当たり前のようにスルーされ、社会に溶け込んでしまっている。
そして、何の病気も持たない人が安易に彼らを模倣する事によって、人の命まで奪う「ブラック職場」がより強固に作り上げられてしまうのです。
全ては、一般レベルに啓蒙が及んでいない事が原因です。
かく言う私も、小説執筆の為にたまたま自己愛性パーソナリティ障害を調べていた事がありました。
そうであるにも関わらず、最後まで、私を潰した上司が自己愛性パーソナリティ障害では無いかと、欠片も思いつく事が出来なかった。
全く知識の無い、大半の経営者や上司達が、彼らの存在に気付くことはまずありえないのです。
本作品は、そうした「違和感」の正体に名前を付けてくれます。
これがあると無いとでは、自衛の意識にも大きな違いが出てきます。
私は今でも、自己愛性パーソナリティ障害とおぼしき知人や親戚に振り回され、戦いを余儀なくされています。
それでも本作品をきっかけとして、自己愛性パーソナリティ障害をより真剣に調べるようになった事で、今までよりは的確に、ゆとりを持って彼ら彼女らと相対出来ているのではないかと思います。
10年後、彼らとの関係がどうなっているのか。そこまでプランを考える事が出来ています。
冒頭で挙げたブラック職場に居た時から、本作品に出合っていたなら……辞めると言う結末こそ変わらなかったでしょうけど、何かが確実に違っていたと思います。
このような人たちの被害に遭っている方は「自分がおかしいのでは無いか」と自分を責めてはなりません。
彼らは「正論」を巧みに扱い、虚実を使い分ける能力……言い換えれば詐術と洗脳の手腕に長けています。
そのメカニズムも、本作品は徹底して論理的に解析してくれていますので、ブラック職場のみならず、あらゆる場面での防衛のためにも、ぜひ一読をお勧めします。
事は本当に、人命や人生に関わる事なのです。
《ブラック企業化》する社会と、それに迎合していく一部の人々を《自己愛性パーソナリティ障害》という症状を切り口に描かれた意欲作です。
プロレタリア文学(労働者文学)と言えば有名な『蟹工船』(著・小林多喜二)が有名ですが、小林多喜二自身はタコ部屋などの苛烈な環境に置かれた労働者と接点はあったが、自身は苛烈な環境での労働経験は殆どなかったため(確か)、ところどころでリアリティに解れを感じる点があります。
また、もはや古典に近い作品の為、現代の労働者が感じる過酷な状況とは違った次元のお話に感じてしまうところがあります。
さて、作者様の本作は僕が古典的プロレタリア文学に感じていた窮屈さを見事に取り除いた作品になっています。
作中にて描かれた出来事が作者様の経験に基づいたものという事でリアリティに狂いは無し。
そして本書最大のテーマともいえるのが、《自己愛性パーソナリティ障害》というフィルターを通して分析された作者様が出会ってきたヤバい人々。
【成見】に代表される《自己愛性ブラック》な登場人たちのような、一見するとカリスマ性溢れ、ウェーイ!!な人々たちの裏側にある、他者を巻き込み、他人の人生を犠牲にする事すらも厭わない仄暗い闇が分析され、描かれていきます。
本書を読んでから思い返してみると、ボクも今までの人生で出会ってきた人々の中に多くの《自己愛性ブラック》が居たなぁ……と気付かされました。
せめて自分が、そのような人間にならないよう気を付けようと思います。