最終話[B]
倉垣亜美と連絡をとらないままひと月が経つ。
仕事が忙しくて帰りが遅い日々が続く。
同棲中の牧野千歳ともすれ違いが増えてきていた。一言も会話をしないどころか入れ違いで、彼女の寝顔しか見ることのない日もあるほどだ。
ある日、包丁がまな板を小気味良く叩く音で目を覚ました。
「おはよう。どうしたのこんな早く料理なんかして?」
キッチンでは少し眠そうに寝癖のまま調理を進める千歳がいた。
「あ、おはよー。最近あんま二人でゆっくりできないしなんか疲れてるみたいだから美味しい弁当でも作ってさしあげようかと思ってね。愛妻弁当だぜー。この幸せ者めー。それにしても眠いわー」
あくびをしながら千歳は答えた。
特になんの意図もなかったであろうこの言葉が、疲れはてた体と心を癒した。
目の前の女性をどうしようもなくいとおしく感じた。
今までこんな行動を取ったことはなかったが、彼女に触れていたくて後ろからそっと抱き締めた。
「珍しいね? どうしたの? あと危ないよぉ」
コンロの火を消して彼女は俺の方を向いて手を広げた。
「さぁ、おいで」
抱き合い背中に手を回されると、気持ちが落ち着き、仕事や将来に対する抱えていたすべての不安は取り除かれた。
温かく、柔らかい。寝癖のついた彼女の髪をそっと撫でた。
「なぁ、結婚しようか?」
無意識に口から転がったそれは本心だろう。なんの装飾もない言葉は彼女からすれば味気ないかもしれない。
「早くない? 私たちまだ付き合って半年も経ってないけどそんな簡単に決めちゃっていいの?」
思ってた反応と違った。とても現実的な反応だった。
「あれ? 嬉しくなかった?」
さっき捨て去った不安がブーメランのように戻ってくる。
「超嬉しかった。でもちょびっと安っぽく感じるかなーまだ3ヶ月くらいだしー」
そりゃそうか……なんか1人で盛り上がっちゃったな。
「安心してくれ。安くはないぞ。はじめてのプロポーズだしな。それに非売品だ」
自分でも何を言ってるのか良くわからない。
「え? どゆこと?」
千歳はゲラゲラと笑い出す。
「なんとなく伝わるでしょ!」
なんだか無性に恥ずかしくなってきた。
「えー私わかんなーい」
こいつ……
抜いたなまくらの太刀は収まる鞘を完全に見失ったようだ。
どうしたもんかと考えていると不意に唇が重なる。
「嘘だよ♪ 今週は土日どっちか絶対休み取ってね?」
嘘でよかったぁ……
「え? なんで?」
どっか行きたいのかな?
「うちの親に会わせとこうと思ってね」
「いや、心の準備がまだ……」
この男、急に逃げ腰なのである。いや、だってお義父さんとか絶対恐いじゃん。
「大丈夫大丈夫。うちのお義父さんパンチパーマで指が何本かないけど優しいから」
ヤクザやんけ!
絶句していると彼女が笑い出す。
「嘘嘘! 冗談だって! そんな焦らなくても大丈夫だよ。なんなら先に私が挨拶に行こうか? 息子さんを私に下さい! って言ってあげるよ」
もうこの人嫌い!
「いいよ先に行くよ。土曜は千歳んとこで日曜はうちに挨拶に行くぞ! 俺はもう止まらん」
「かっこいー♪ やったねー♪」
もうどうにでもなれだ!
人生なんてそんなもんだ。
物語がどこでどう転ぶかなんて神様にだってわからないことだ。
勢いに任せた方が好転することだってあるはずだ。きっとそうだ。そうに違いない!
「千歳、お前の実家ってどこなんだ?」
今住んでるのが東京でうちが福岡だからできれば関東か九州がいいなー。これからお金も貯めないといけないし。
千歳は笑顔で答えた。
「北海道だよ」
マジかよ!
「千歳、日程についてはもう一度検討しよう……」
人生の機微 詩章 @ks2142
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