最終話[A]
倉垣亜美と連絡をとらないままひと月が経つ。
魔が差してしまったのだ。
その日、出勤前に些細なことから牧野千歳と口論になり朝食の途中で家を出た。
仕事が忙しくなり毎晩帰宅が遅い俺に対し、少し懐疑的な態度を取ったことが何故か許せなかった。
家を出てすぐ[さっきはごめん]とラインが来たが既読をつけずに無視をした。
更に通知音が響き今度は何だよとディスプレイを見ると、倉垣亜美という表示に心がざわついた。スタンプを送られたようで、どういったものが送られたかは開かなければわからなかった。俺は迷わず既読をつけた。
泣き顔のスタンプが送られていた。
出勤の電車移動中にいくつかのやり取りをして仕事が終わったら会う約束をした。
その日、少しトラブルがあり定時で帰る予定が19時を過ぎてしまった。
急いでラインを送る。
[ごめん! 今仕事終わった! 今どこ?]
直ぐに電話が来た。
「お久しぶりです」
透き通った懐かしい声が耳をくすぐる。それだけで心音が早くなるのを感じた。
「久しぶり。ホントにごめんね……ちょっと仕事のトラブルがあって。今どこ?」
この電話から牧野千歳のことなど完全に頭から消えてしまった。
「駅の近くのマックです。走ってきてください。私は待ちくたびれました」
そりゃそうだ。二時間近くの遅刻になる。
「了解です。直ぐ行きます」
短く答え、電話を切った。
店の外でスマホをいじる彼女を見つける。
かつてないほどの全力疾走のおかげて彼女の予想よりも遥かに早くついたようだった。
「早ッ!」
彼女は俺を見つけると驚いていた。
「ちゃんと走ってきたからね。お腹すいたでしょ? なに食べたい?」
額に滲む汗を拭い問う。
「なんかすいません……ゆっくりできるところがいいなー。そこの鍋屋なんてどうですか? 今日寒いし暖まりますよ」
鍋なんて久しぶりだな。女子高生も鍋を食べるんだな。メモメモ。
「じゃあそうしようか」
個室の二人席に案内される。鍋屋なのにこんな店あったんだな。最近の飲食店はプライベートな空間を提供することに重きを置く店も増えているのかもしれない。なかなかの好印象だった。
彼女は辛いのが好きらしくチゲ鍋をチョイスした。
鍋をつまみながしばらく談笑を交わしていると、「そういえば!」と彼女は急に真面目な顔をした。
「なんで連絡くれなかったんですか?」
一人の女性の顔が脳裏をよぎる。
数秒の沈黙。
「もしかして、お付き合いされてる方いるんですか?」
「いや、いない。ちょっと仕事が忙しくてさ」
嘘をついた。無意識に、反射的に、躊躇いなく。
そのことにひどく驚く自分と、妙に悟った自分が同時に存在していた。
それが、ある決心を胸に抱かせた。
単純な話だ。天秤が掲げた方は手放すしかない。
その天秤は、繊細で、単純で、時に壊れてしまうこともある。
たったそれだけの、取るに足らない当然のこと。
感情は、揺れ動き、移り行く。
時にそれは美しくて、時にそれは酷く醜い。
それは誰もが理解していながら、誰もが忘れてしまうことだ。
物語がどこでどう転ぶかなんて神様にだってわからないことだ。
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