6月は雨だけの月
「やあ、綺ちゃん。久しぶりだね」
学校帰りに寄った本屋で声をかけて来たのはパパだった。ずっと前の。
名前は……忘れてしまった。でも、割とわたしのことを可愛がってくれていたと思う。うちに来る時には、いつもアイスを買って来るのがお決まり。
ああ、ということは暑い間だけだったのかな。
「パパ。久しぶりね」
「ははっ、まだそう呼んでくれるなんて嬉しいね」
本当は名前を忘れただけだけれど、とりあえずにっこりしておく。
パパたちの名前をいちいち覚えていたらきりがない。昔の人ならなおさら。
全員、パパと呼んでれば当たり障りがなくていい。
「元気だった? 幾つになったの?」
「17歳よ」
「そうかそうか」
パパは人の良さそうな顔で笑った。
「博子も元気かい?」
「元気よ」
「それなら良かった。その、博子は仕事が仕事だからさ、身体を壊しているんじゃないかと気になっててね」
なぜだかたどたどしくそう言った口調は、言い訳じみている。パパは、お母さんにまだ未練があるのだろうか。
パパたちは、どうしてそんなにお母さんが好きなんだろう。夜の街であなたたちに向ける笑顔は、仕事なんだってわかってるはずなのに。
ううん、確かにそうだけど、お母さんの恋はその時は本物。今のパパだって、本当に好きなんだと思う。
惚れっぽくて、いつまでも少女のように愛らしくて、わたしとは随分ちがう。
それが時々羨ましい。
「大丈夫よ。ところで、パパはなにを買いに来たの?」
「あぁ、そうそう。これなんだ」
パパが手に持っていた雑誌を見せて来る。それは隔月発行の釣り専門雑誌だった。
「僕が釣りにハマってるって話したの覚えてる?」
「ええ、もちろん」
それは嘘だったけれど、きっと問題はない。このパパとは今後、会うこともないのだろうから。
再会したとしても、また当たり障りのないことを言って別れるだけだ。
「今も釣りは続けててね、そしたら父の日に子供達が釣竿をくれたんだよ」
「良かったわね」
「そうなんだ。だからさ、ちゃんと勉強して行こうと思ってね」
無邪気に笑うパパは、父親の顔だ。
わたしの知らない、お父さんの顔。
「じゃあ、もう行くよ。綺ちゃん、身体には気をつけてね」
「ええ、ありがとう。パパも元気でね」
「ありがとう」
笑顔で別れた。
なんとなく本を選ぶ気もなくなって、外へ出る。
見上げた空は、今にも雨がふり出しそうな曇天だ。
父の日に、プレゼントをもらえる人。
それはやっぱり、パパと呼びはしてもわたしのお父さんじゃない。
そういえば、わたしにお父さんはいないんだった。父の日にプレゼントをあげることなんて、この先もきっとない。
だから6月は、雨だけの月。
END
桜ヶ丘綺譚(現代ドラマ短編集) はな @rei-syaoron
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