The Future Not Continuing

 ダウンバースト。訳すと下降噴流となるその現象は、局地的・短時間に上空の積乱雲から吹く猛烈な下降気流のことである。

 積乱雲の上昇気流の中では、雨・あられ・ひょうなどが形成される。それらの粒が重く大きくなると、上昇気流に打ち勝って落下を始める。その時、周りの空気も一緒に引きずり下ろす。あられやひょうはそのうち溶けてしまうが、その時に周りから熱を奪い空気を冷やすため、ますます重く激しい下降気流となる。

 こうして発生するダウンバーストが原因の飛行機墜落事故が多発したため、現在多くの空港に気象ドップラーレーダーが設置されているのはもう当たり前の話である。




 典子が気がつくと、そこは病院のベッドの上だった。骨折したのだろう、左足をギブスで固められ吊られていた。

 幸いにも、記憶の混乱はなく、すぐになにが自分の身に起きたのかを思い出した。


 いつもの仕事帰りだった。上空から真っ白な空気塊が降りてくるのが見え、突然街を猛烈な突風が襲い吹き飛ばされてしまったのだ。

 理科の教師をしている典子の視点から見て、あれはほぼ間違いなくダウンバーストだっただろう。そう思いすぐにニュースを確認すると、その通りの報道が一斉に流れていた。

 重軽傷者100名以上の大惨事であったらしい。そして、典子もその中の一人だった。


 隣のベッドには、まだ若い女の子が寝かされている。彼女もダウンバーストの被害にあって担ぎ込まれてきた一人だ。頭を打ったのだろう、額を覆うように包帯が巻かれている。そして、一晩明けた今も目を覚ます気配がない。


 大丈夫だろうか。


 そして、その彼女に青年が付いている。恋人だろうか? 夜中にうとうとしていた典子と違い、寝ている様子はない。ベッドサイドの椅子に座り、自分に背を向けてじっと彼女を見守っている。

背後から微かに伺えるその表情は真剣で、なにかを思い詰めたような色すらある。


「あなた、少し、休んだら?」


 青年の顔が上がった。自分にかけられた声だということはわかったらしい。しかし、こちらを向く様子はない。


「あなたまで身体壊すわよ」


 軽く首が横に振れる。休まない、その意思表示だ。


「ご家族は?」

「親父さんが。東京に出張に行ってて、早くても到着は昼過ぎやから、それまでは俺がついててやらんと」


 やっと答えたその声は、深く沈んでいる。


「そっか」


 お昼までなら大丈夫だろう。外見もまだ若そうだし、体力もあるだろう。

 それよりも。


「彼女、恋人?」


 少し元気を出させようと、からかい口調で言ったその台詞は不発に終わった。彼の首が横に振れたからだ。

 力の入っていない振れ方だった。ゆらゆらと草が揺れるように振れて彼は俯く。彼女がこうして怪我をしたことで、相当落ち込んでいるのだろう。見てわかるほどに弱々しい。


「あ、そうなの……ごめんなさい。てっきり……」

「俺のせいなんや、冴子が怪我したんは」


 青年——鬼窪と名乗った——は、そう言って両の拳を握る。


「え? どうして? 彼女、ダウンバーストで怪我して運ばれて来たんでしょ?」

「でも、俺が冴子の手を放さんかったら、吹き飛ばされんと済んだはずや。怪我もこんなに大きくなってなかったはずや」


 絞り出すようなその声に、なんとなくだが事情が飲み込めてくる。

 ダウンバーストで怪我をした。しかし、それを自分のせいだと彼は思っているのだ。彼のその思いはおそらく、彼女への複雑な感情がそう思わせているのだということも。

 若い証拠といえばそれまでなのだろうが、何となく放っておけない。


「大事なのね」


 彼女が、という部分は言わずに飲み込む。言わなくてもわかってくれるだろうし、あんまり無粋な突っ込みはしたくない。


「これは、独り言なんだけどね」


 独り言だから返事はいらない。その典子の意思が伝わったのか、鬼窪は返事を返さなかった。

典子も彼の背を見ず、本当に独り言のように微かな声を出す。それくらいでちょうど良かった。


「わたしにも大切な人がいたの。でもね、事故に遭って死んじゃったわ。わたしの目の前でね」


 微かに鬼窪の背が揺れたのが目の端に映る。それと同時に、典子の目の前にあの瞬間が瞬時に再生される。

 今でも鮮明に覚えているその瞬間を、典子は生涯忘れることがないだろう。痛みは薄れても、なくなりはしないだろう。


「わたしは、大切なことは伝えてきたつもり。それでも、自分の腕の中でその人を失った時、それはもういろんなことを後悔したわ。あの時どうしてあんなこと言ったんだろう。あの時もっと優しく出来たのに。あの時もっと、あの時、あの時、あの時……」


 些細なこと全てを後悔して苦しんだ。もっとこうしていれば良かったのにと。


「もしあの時こうしてたらって。そればかり考えた。もし今日、行き先を変えようってわたしが言ってたなら、彼は事故に遭わずに済んだのにとか」


 それは、考えても仕方のないことだとわかっていた。それでも、そう考えることを止められなかった。可能性などとうにないのに、可能性を探したがっていた。そうしないと、とても正気でいられそうになかったのだ。


「彼との未来はずっと続いてると思っていたの。でも、続いてなかった。それを知らなかったと言えばそれまでだけれど、どうしてずっと続いているなんて思ってたんだろう。次の瞬間どうなるかなんて、誰にもわからないのに」


 もう、鬼窪のことは目に入ってなかった。本当に独り言のようにつぶやく典子が見ているのは、過去の記憶。

 同じように訪れると信じて疑いもしなかった明日は、典子にしか訪れなかった。


「明日、なんて本当はないのかもしれない。今のこの一瞬が続いてるように錯覚してるだけで」


 同じ明日は来なかった。明日が来た典子には、明日がないということが理解できない。

 しかし、もし、明日なんてなかったとしたら。この瞬間だけなのだとしたら。

 今しかない。なにをするにもこの瞬間だけ。その後の時間があるかなんて誰にもわからないのだから。


 明日が来ないかもしれない。そう思い始めた時から、典子は少しずつ前を向けるようになった。


 もう後悔なんてしない。明日がないかもしれないのだから、後悔しないように全部今やろう。そう思えた。

 明日が訪れなかったあの人が、教えてくれたことだ。


 そっと瞳を閉じる。

 どうか、この若さゆえに弱々しい背中をしている青年が後悔しませんように。

 瞼越しに見える光が温かい。とても。




 鬼窪に冴子と呼ばれていた彼女は、お昼近くになってからやっと目覚めた。

 その頃には、鬼窪の背筋もずいぶんと伸びたように感じられた。

 余計なお世話だったかもしれない。彼を後悔させたくないという理由を付けた典子の勝手なエゴだったのかもしれない。後悔したくなかったのは典子の方だったから。

 それでも、伝えたかった。明日はこないかもしれないのだと。

 きっと、彼はそのことに薄々気がついていたはずだ。一歩間違えば大切な人を失っていたかもしれない大惨事に巻き込まれていたのだから。

 だから、きっと……。




END





関連作品

「人間の翼」

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「12月24日、くもり。」

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