12月24日、くもり。

 何時になっても眠らない明るい夜の街を典子は歩いていた。これから帰宅するためだ。


 今日はクリスマスイヴ。

 街は何時にも増して明るく、賑やかだ。至る所で軽快なクリスマスソングが流れ、街は甘く華やいでいた。


 しかし、典子の足取りは重い。時折、典子の横を通り過ぎて行く幸せそうな人並みを横目で眺めては陰鬱な気分になる。

 ふと足を止めて見上げた空には、どんよりとした雲が街の明るすぎる明かりに照らされてうっすらと見えている。昼間の天気からしてもその雲は厚く、星の一つどころか月すら見えない。


 典子にはこれから逢うべき恋人などいない。居なくなってしまった。否、失ってしまった。


(どうして……)


 去年のクリスマスには、確かに典子の隣には誰よりも大切な人の姿があったというのに。なぜ、もういないのだろう。そのことが今でも時々理解できなくなる。


 何処でなにを間違えてしまったのだろう。

 彼は逝ってしまった。ごめんな、という優しい言葉を遺して。


(皓治……)


 典子にはどうしてやることも出来なかった。出来ることならば典子がかわりに死んでしまいたかった。それで彼、皓治が助かるのならば。


 幸せの歌が耳に痛い。喜びの光が眩しい。


 明るく上気した人々の笑顔は去年まで典子が噛み締めていた幸せの形そのものだ。それを思い知らされ、胸が痛いほどにしめつけられる。


(もう……)


 もうわたしは一人なのだろうか。たった一人遺されて、これから先どうすればいいというのだろう。一人で生きていけるほど強くはないのに。


 息が詰まる。冬の冷たい空気が肺の中を刺すように侵す。


『星は人の命なんだ』


 ふとそんな言葉が胸の奥から湧き出てくる。それは、星が好きだった皓治が言った言葉だ。体格のいい外見に似合わずロマンチストだった皓治は、人は死ぬと星になるのだと信じていた。子どもみたいな顔をして。

 それこそ、それを笑うなんてことがはばかられるほどの純粋さで。


『人は死ぬと星になってさ、いつまでも大切な人のことを見守っているんだよ』と。


 そうだ、皓治は星になったのだ。星になって———しかし。


「星、見えない……」


 都会の空に星はない。たとえ、クリスマスでも。

 皓治の命の輝きも見えない。見えない!


「見えないよ……」


 転がり出た声が耳朶に届き、その細い自分の声でさらに現実に襲われる。

 苦しい。

 息が出来なくなるほどに苦しくて、喉の奥からせり上がって来たものをこらえることが出来ない。低く漏れようとした声を抑えたのだけで限界だった。視界が波打ちなにも見えなくなる。


 一度それを許してしまうともう止まらなかった。めまいがしそうなほど苦しくて立っているのがやっとだ。街の人々の好奇の視線を痛いほどに感じるものの、もうどうにもできない。

 皓治の逝ってしまった瞬間のことが嫌でも思い出されてしまう。最期に微かにほほ笑んでくれたあの笑顔が瞼の奥で痛い。

 イタイ……。




「星、見えないとそんなに哀しいの?」


 その唐突に降って来た声が自分に向けられたものだとわかるまでに数秒を要した。

 俯いていた顔を上げると、そこに居たのは少年だった。典子よりだいぶ年下になるだろう。背も典子に若干届かないくらいか。高校生、いや、もしかすると中学生。


(どうして)


 見も知らぬ自分に声をかけてくれた彼に一瞬あっけに取られ、涙を流すのを忘れる。かけてくれた言葉から察するに、星が見えないと言った典子の言葉もしっかりと聞いていたのだろう。

 しかし、次の瞬間に典子が彼に対して感じたのは怒りだった。きっと典子を心配して声をかけてくれたのだろうというのは想像に難くない。だから、理不尽な怒りだということくらい自分でわかっている。それでも、そこには怒りしかなかった。

 そのことに酷く打ちのめされる。


 再び流れた涙を隠すようにそっぽを向き、唇を噛み締めた。

 どうして哀しいのか知りもしないくせに。


「あ、あの……お姉さん……怒らせちゃったのならごめんなさい……」

「……」

「あの、でも、星は今日じゃなくても見れるから。元気出してよ」


 彼は、典子をなぐさめようとしてくれているのだろう。明るい笑顔を作って続ける。


「今日は曇っちゃってるけど。明日か明後日か、晴れたら。そしたら星見れるし。ずっと雲の上にあるんだから。昼も夜も、晴れでも雨でも」


 その少年の言葉に、典子ははっとして少年の顔に視線を合わせる。


「いつでも……星って見えなくてもそこに、あるのよね……?」

「うん。まぁ、季節が変われば見える星も変わるけど」

「でも、あるのよね? あの雲の上にも」


 それはただの確認だった。


「うん、あるよ。理科で習わなかった?」


 ちょっぴり上目づかいで笑った少年に、典子の胸の中から冷たいなにかが抜けていく。


「えぇ、そうね……」


 そうだ。星はいつだってそこにある。それを典子は知っている。

 それならば。


「星も、雲で見えなくっても、わたしが此処に居るってこと、知ってるわよね」

「うん、僕はそう思うよ」


 そう言って頷いた少年は、ちょぴり切ない笑みをこぼした。泣いていたのだ、その理由は知らなくとも、典子の哀しみはわかるだろう。


「お姉さん、笑ったほうが綺麗だね」

「え……?」


 言われて初めて自分がほほ笑んでいることに気がつく。


「よかった。じゃあ、僕もう行かないと」

「もう?」


 典子に彼を引き止める理由など一つもないはずだった。そもそもが何処の誰とも知らない赤の他人である。しかし、気がつけばそんなことを口走っていた。


「僕、ほら、未成年だし。もうそろそろ補導されてもおかしくない時間だし」


 その真面目くさった少年の台詞に、つい典子は吹き出した。今どき見かけない至って真面目な少年のようだ。


「そうね、早く帰った方がいいわね」

「うん。それじゃあ、お姉さん」


 そう言って笑うと、彼は典子の横をすり抜けて歩き出した。その背中を、つい典子は呼び止めた。

 振り返った少年は、不思議そうに首を傾げている。


「本当にありがとう」


 星はいつでもそこにあると教えてくれて。


「わたしは深谷典子よ。もう逢わないかもしれないけど」


 だからこそ。

 最大級の信頼を。感謝を込めて。

 その典子の想いに気づいたのか気づいてないのか、少年は笑った。


「僕は、里谷眞悟」


 そう名乗って、彼———眞悟は笑った。その表情は、典子が名乗った理由がわかっているよという顔だ。典子の主観的な思い込みかもしれないが、それで良かった。そう思いたかった。


「さよなら、典子お姉さん」

「さよなら、眞悟くん」


 二人は軽く手を振って、同時にきびすを返した。

 もう、逢うこともないだろう。

 それでも、典子は思う。逢えて良かった、と。


(皓治……)


 たとえ厚い雲に阻まれていようとも、皓治はそこに居る。そこで見守ってくれている。

 それを教えてくれた。


 まるでサンタさんみたい。そう思って軽くほほ笑む。赤い服を着て白い口ひげのおじいさんではなかったけれど。わたしに、大切なプレゼントをくれた。

 それは、間違いなく典子にとってのサンタクロース。



12月24日、くもり。

サンタクロースに出会った。

わたしに、皓治はいつでも空にいて見守ってくれていると教えてくれた。ありがとう。

わたしは一人じゃない。




the End.



関連作品「The Future Not Continuing」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054893536029/episodes/1177354054894181867

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