【ニッシー:過去編】ニシローの初恋④

 ユズカを塾へ迎えに行く前に、チガヤを駅前まで送っていった。バス乗り場のベンチに並んで腰掛けて、なんとなくチガヤの手を握った。

 今だけでいいから、そうして繋がっていたかった。

 俺たちは、付き合い始めたわけじゃない。付き合おうと言うつもりもない。俺は彼女なんか作れるわけもないクズ男だし、死ぬ気でそれを改めるにしたって、今の状況は弱っている心に付け込んだだけのことだ。チガヤが俺に惚れる要素なんてないけど、俺から付き合おうと言えば、きっとチガヤは断れない。

 ただの言い訳かもしれない。俺がヘタレなだけかもしれない。それでも俺は踏み込めない……これ以上、チガヤを傷付けたくないから。

 いっそチガヤが俺を好きになってくれれば、何も悩まなくていいのにな。ないか。ないな。握った手が解かれないことには、ほのかな期待をしてしまうけど……きっとこれだって、ただ断れないだけなんだろうな。


「ねぇ、ニシくん」

「へい、何でござんしょ」

「また、おうちに行っても……いい?」

「今度はチューだけじゃ済まないかもしれないけど、いいッスか」


 八割ほど本音の返しをすると、チガヤは呆れたように笑った。


「あーあ、次こそは原稿のお手伝いをしようと思ったのに、そういうことを言っちゃうのね?」


 あっ、と思わず口から漏れた。そんな俺を見たチガヤは、さも愉快そうにクスクスと笑いやがった。そういう表情を向けられるのは、今までとは違う関係だからなのかな……なんて言ったら、うぬぼれるなって怒られるヤツだな。

 やっぱり明日、トウマたちに「付き合ってる」って言っちゃおうか。それでチガヤが困るんだったら、俺の片想いだと言ってしまってもいい。それで「ニシロー」の立場が大きく変わるとしても、チガヤを守れる可能性に賭けてみたい。

 待っていたバスが目の前に止まって、チガヤが慌てて立ち上がり、俺たちの手はあっさり離れてしまう。


「私、行くわね」

「あ、ああ。また明日な」

「うん……また、明日」


 別れの言葉を交わした後は、もう振り返ることもなく、まっすぐ俺から離れていく。お願いだ、ちょっと待って――ふと気付いたら、俺の手はチガヤを追いかけていた。その動きに身体は追い付かず、掴み損ねた手が空を切る。


「待って、チガヤ……やっぱさ、明日、付き合ってるって言っちゃわない?」


 振り返ったチガヤは「お任せするわ」とだけ告げて、足早にバスへと乗り込んでいった。その表情は照れているようにも、困っているようにも見えた。

 チガヤを乗せたバスは走り出し、俺はひとりになった。周囲にはたくさんの人がいるけど、今の俺は紛れもなくひとりぼっちだ。

 自分のせいで距離があるのに、何だか寂しいような気がした。


 授業の終了時刻を大幅に過ぎてから学習塾を訪ねると、ユズカは事務所の一角にある自習コーナーにいた。俺の顔を見た瞬間、ぱあっと明るい笑顔になる。


「ケイちゃん! やっと来たぁー!」

「悪い悪い、ちょっと友達が来ててさ。ちゃんと真面目にベンキョーしたかー?」

「ケイちゃんよりも真面目だって、ツッキー先生ほめてくれた!」

「うっわ、マジっすか先生」


 おう、と築島ツキシマ先生が片手をあげた。俺のことも、我が家の家庭事情も知ってる先生たちが、こっちを見ながら笑っている。


「ツッキー先生、ユズカはどーっすか」

「ケイより素直だし、ケイより努力家だし、ケイみたいに受験したくねぇよって面談で暴れたりもしないな」

「あ、もういいですサーセン。帰るよユズカ、先生さよーなら」

「ははは、気をつけて帰れよ」


 はーい、とユズカが元気よく飛び跳ねた。先生たちに会釈しながら事務所を出て、いつものようにユズカの手を握る。ほんのり熱くて、まだ小さな手だ。


「メシの支度なんにもしてないから、弁当買って帰るのでいい?」


 食事の支度どころか、まだ洗濯も風呂掃除も、何もしてない。確か急ぎの洗濯物はなかったよな。とりあえず弁当食わせながら、風呂を掃除して湯を張ろう……段取りを考える俺のことなどお構い無しに、ユズカは「ケイちゃんのごはんがいい」と拗ね始めた。


「ねぇ作ってよ~、ユズカも手伝うからぁ!」

「今から支度してたら、寝るのが遅くなっちゃうでしょ。今日は弁当で我慢して、食ってる間に風呂沸かすからさ」

「あっ、じゃあ一緒にお風呂入ろ? ケイちゃんが髪洗ってぇ!」

「わかったわかった、でも長風呂はダメだぞ」

「やったー! 了解っすお兄様ぁ! できれば寝るのも一緒がいいっす!」

「お前も六時に起きるなら、俺のベッドで寝てもいいよ」


 絶対にできっこない条件を出すと、ユズカはうぐぐと唸り声をあげた。

 うちの妹は時々、年齢よりも随分と幼い言動をする。それがどういう意味を持つのか、全くわからないわけでもない。ずっと何でも話せる関係を維持したいけど、異性である俺との距離感……正直、どうすりゃいいのかわからない。ただ俺は、両親との希薄な関係に気付いた時、絶望だけはしてほしくないと思っている。俺は親にはなれないけれど、それでもきっと、この寂しさは俺しか埋めてやれない。だから全力で甘えてほしい。今日のチガヤのように「誰でもいいから抱いてほしい」なんて、そんな悲しいことを考える子には、絶対になってほしくない。


「ユズカ、寂しくないか?」

「ケイちゃんいるから、ユズカは平気」


 うっかり口にしてしまった、俺の弱気な問い。ユズカの答えに迷いは一切なかった。いつも見ているユズカとは違って、表情も、声も、俺より大人びてるくらいだった。


「ケイちゃんは? 寂しくない?」

「俺も、ユズカがいるから寂しくないよ」

「そっかぁ……ねぇケイちゃん、ユズカがお嫁さんになってあげよっか?」


 その言葉に、心臓がぎゅっと縮んだような気がした。

 もしかしてユズカは知ってるんだろうか、俺たちの血が繋がっていない可能性――いいや、まさか。ユズカは信じているはずだ。コイツは俺と母さんが、実の親子だと思っているはずなんだ。

 しかし、本当にそうだろうか? 誰かに事実を聞かされてはいないのか?

 俺を産んだ女が、あの家から出て行った理由。俺の生物学的な父親が、父さんである保証もないこと。それなのに「男の跡取りが欲しい」というだけの理由で、父さんが俺を引き取ったこと。経緯を後から知った母さんが、俺と父さんの親子関係を勝手に調べようとしたこと。それが両親の仲に修復不能な亀裂を入れてしまったこと――俺さえ存在しなければ、きっと穏やかな家庭だったに違いないこと。

 ユズカが、その全てを理解しているのだとしたら?

 俺にとって、ユズカは可愛い妹だ。血が繋がっていようといまいと、たとえこの先に何があろうと、それは絶対に変わらない。この能天気で破天荒なガキンチョは、永遠に俺の妹なんだ。

 だけど、もしも、ユズカがそれを望まないとしたら。兄貴面して面倒を見ている俺に、いつか嫌悪を向ける日が来たら――その時は、今度こそ、本当に俺はひとりぼっちだ。想像だけで背筋が冷える。


「……あのな、兄妹は結婚できないんだぞ?」


 どうにか平静を保ちつつ、それだけ言うのが精一杯だった。ユズカは唇を尖らせて、知ってるけどぉ、と拗ねるそぶりを見せた。その裏側は読めないけれど、俺の取れる態度はひとつしかない。

 

「俺は事実を言っただけだろ、機嫌なおせって」

「だってぇ、ずっと一緒にいてあげようと思ったのにっ、ケイちゃんは意地悪だっ!」

「そんなに怒るなって。兄妹なら別れることもないんだから、それで十分だろ?」

「……あ、そっかぁ!」


 あっさり笑顔になったユズカは、ご機嫌な様子でぴょんと跳ねた。

 この薄氷の上を歩くような「家族ごっこ」を、俺は死ぬまで止められない――ほんのり熱い小さな手を、解けないように握りなおした。


 翌日、俺は学校で「チガヤと付き合ってる」と告げた。

 その効果はテキメンで、トウマたちは見事におとなしくなった。しかしなぜか俺の発言は他学年にまで広まっていて、チガヤは「ニシローのカノジョ」として学校中の注目を集めるようになっていき、一部の女子からは頻繁に悪意をぶつけられていた。

 最初こそ困った顔をしていたチガヤは、三日もすると「人数が増えただけで、内容は今までとそんなに変わらないわね。もっとひどいことになるかと思ってたのに」と、ケロッとした顔で言ってのけた。かなり意外な反応だった。

 それからは、卒業までずっと一緒だった。毎朝バス停で待ち合わせたし、放課後は自宅へと招いた。なんでもソツなくこなすチガヤを師匠と見込んで、ユズカのために料理や裁縫を教わったりもした。俺の部屋で絵を描いている時間はお互いに「神聖な時間」で、そこによこしまな感情が入り込む余地はなく、ただただ二人の絵描きがいるだけだった。

 俺は「遊び」の誘いを断るようになった。どれだけ求められても食い下がられても、きっぱり「チガヤがいるから」と断り続けた。本当に付き合っているわけじゃないのに、俺はチャラチャラと遊ぶことをやめたのだ。

 その噂を聞きつけた美術部の連中が「それでいいんだよニシロー!」と、なんだか大げさに騒ぎ立てた。


 チガヤとユズカを引き合わせて、休日も一緒に過ごすことが増えていった。チガヤはいいお姉さんだったし、ユズカもよく懐いた。異性の俺では到底わからないような心配事だって、チガヤが何から何まで相談に乗ってくれていた。逆にチガヤの方が、ユズカへ何かを相談することもある様子だった。

 俺に内緒でコソコソと何かを話し、こちらを見ながらクスクスと笑う二人は、まるで本当の姉妹みたいだった。

 このまま三人で家族になれたら……そんなことさえ、考えた。しかし「俺にはそんな資格などない」という、刷り込まれた意識を消し去るまでには至らなかった。



 あの頃の俺は、サイトウチガヤに恋をしていた。

 その恋心が砕けたのは、チガヤが他者へ攻撃的な態度を取り始めたからだった。ずっと憧れていた人に向かって、自分が向けられていたような言葉を吐き始めた。いったい何があったのか、当時は知る由もなかったから、その変貌ぶりが理解できなかった。それでも俺にとって、チガヤは特別な人のままだった。今だってそうだ。彼女は永遠に俺の師匠で、ライバルで、神の手を持つ憧れの人のままなんだよ。


 絶対にありえないことだけど……もしもチガヤが俺を好きになってくれていたら、三人で家族になる未来があったのかもしれない。

 今更言っても仕方がないのに、現実が上手くいかなくなると、つい昔のことを考えてしまう。絶対に表へ出さないと誓いながら、それでも「もしも」の妄想は消えてくれない。本気で欲しいものへ手を伸ばす勇気が出せなかった、ヘタレでドクズな男の後悔というわけだ。

 人生に「もしも」は存在しない。今の幸せを手放す気もない。それでも時々、少しだけ、あの頃のことを思い出すんだ――まだ「ニシロー」と呼ばれていた俺が、初めて人を好きになった時のこと。

 どんなに願っても戻れない、制服を着ていた時代のことを。

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それぞれの恋に祝福のキスを(スピンオフ短編集) 水城しほ @mizukishiho

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