【ニッシー:過去編】ニシローの初恋③
玄関には鍵がかかっていて、家には誰もいなかった。親がいないのはいつものことだし、ユズカは塾に行ってる時間だ。誰もいないのね、とチガヤが呟いた。
「気になる?」
「ううん……だってニシくんは、私なんかじゃ……」
チガヤはそこで言葉を止めたけど、何が続くのかは伝わった。襲う気にもならないわよね――そう言いかけて、止めたんだ。
「なんか、って言うのやめろよ」
「じゃあ聞くけど、ニシくんは、私を相手に欲情するの?」
「するよ。知ってるだろ、俺は誘われたらヤッちゃうんだって」
「あれって、本当なんだ……いいな、少し、羨ましい。私なんて、誰も相手にしてくれないから……」
脱いだ靴を綺麗に揃えながら、自虐的な言葉を続けるチガヤ。自分の価値を下げて話すのはいつものことなのに、我慢できないくらいに腹が立った。いいなって何なんだよ。羨ましいってどういうことだよ。まさかお前、相手してくれるなら誰でもいいとか思ってるのかよ――湧き上がる苛立ちにまかせて、俺はチガヤの右手を握った。
「俺の部屋、行こう」
「え、ちょっと待って……」
「待たない」
半ば引きずるように、強引に自室へ連れて行った。責めるような声で何度も「ちょっと待って」と言われたけど、気遣うような余裕はない。ドタドタと音を立てて階段を上がり、壊れそうな勢いで部屋のドアを開け、無理矢理チガヤを引っ張り込んだ。
「ねぇ、さっきのって、誰でもいいからヤリたいってこと?」
俺から視線を逸らしたまま、それでもはっきりと、チガヤは「そうよ」と返事をした。
「私、みんなからバカにされてるじゃない……たくさんの人に嫌われてるって思うと、どうしようもなく寂しくなるの。誰でもいいから愛してよって、そう思うことも、あるの……」
「俺に言われたくないだろーけど、そんな理由でヤッちゃダメでしょ」
「……ニシくんみたいに、求められてる側の人には、わからないのよ」
チガヤは、ひどく悲しいことを言った。気持ちは痛いほどわかる、俺だってとやかく言えるような人間じゃない。だけどチガヤの口からそれが出てくるのは、どうしても受け入れ難いことだった。
俺なんかじゃ到底描けない、美しく清純な世界を生み出す女の子。心の中に巣食った自己否定も、大きく歪んだ渇望も、今すぐ消し飛ばしてやりたい。
それなのに、どんな言葉を伝えても、今のチガヤには届かない。
同類の俺に、何ができる?
握っていた手を、そっと撫でた。できることなら誰より近くで、この手が描くものを見届けたかったけれど――今日を限りに縁が切れるとしても、チガヤの描く世界を守りたかった。
「本当に誰でもいいんだったら、いっそトウマに頼んでみれば? あいつ本当はチガヤとヤリたいから、いっつも胸とか尻とか気になってんだぜ?」
腹を括って、何よりもひどいセリフを言い放った。「誰でもいい」なんて考えを打ち砕きたかった。賭けに負ければ
チガヤは顔を歪めて俺を睨み、短く「嫌よ」と嫌悪に満ちた一言を吐き捨てた。
「あの人だけは、絶対に無理よ! 想像するのもゴメンだわ!」
「ですよねー。じゃあ俺ならどうなの、ちょっと想像してみてよ」
「あ、あんなのとニシくんを一緒にしないで! ニシくんを、嫌だと思ったことなんて、一度だってありませんから!」
「それって……想像は、何度もしてたってこと?」
「え? えっと、だって、ずっとそばにいてくれたから……だから、いつも、ニシくんのことばっかり考えちゃって……って、あっ、わ、私なに言ってるんだろ……?」
怒りで興奮したチガヤが口を滑らせて、あっと言う間に耳まで真っ赤になった。俺は「相手が俺でもやっぱり嫌だろ」と言ってやるつもりだったのに……なんか、とんでもないことになってしまった。
これはもしかして、俺のことが好きなんだろうか。まさかな。チガヤみたいに真面目な子が、俺みたいなチャラい男に恋なんて、天地がひっくり返ろうとありえない話だ。別に俺自身への好意じゃなくて、手近な存在で済ませただけだろうけど……それでも、すごく、そそる。
「チガヤが可愛いこと言うから、俺、勃っちゃったんですけど」
「う、嘘っ」
「嘘じゃないって、ほら」
俺はチガヤの右手を引っ張って、下腹部で硬くなりつつあるものに押し付けた。制服のズボン越しではあるけれど、ちゃんと欲情しているという事実を、次第に膨らんでいく感情の熱さを、チガヤに伝えてやりたかった。
「チガヤのせいでこうなったんだよ」
「こ……こんなに、なっちゃうの……?」
「なっちゃったね。俺にそういう目で見られて、嬉しい?」
「嬉しいのとは、ちょっと、違うけど……でも……」
チガヤは意味ありげに呟いて、俺の形を確かめるように指を這わせた。
気が済むまで触ったらいい。何度だって確かめればいい。その代わり、二度と「誰にも相手をされない」なんて言わせない。
誰でもいいなら、俺がいる。いくらだって相手をしてやる。だけどその先の俺たちは、今までとは全く違う関係になる。ずっと抱いていた憧れも、交わした小さな約束も、全てが腐り落ちていくような……そんな未来にしか、辿り着けない。
チガヤはきっと気付いてくれる。今まで築いてきたものに、俺は賭けたい。
「ねぇチガヤ、先にシャワー使う?」
「……えっ?」
「あれ、誘ってくれてたんじゃないの? てっきり俺とヤリたいのかと思っちゃった」
心にもない言葉で、チガヤを煽った。胸の奥がチクチクと痛くて、気を抜くと真顔になってしまう。大丈夫だ、
「自分の言葉の意味、わかってなかった? お前は誰でもいいからセックスしたいって言ったし、いつも俺とセックスする想像をしてたって言ったんだぜ? これで誘ってませんって、ちょっとひどくないッスかね?」
「そうね、ご、ごめんなさい」
「いやいや、謝らせたいわけじゃないのよ。誰でもいいなら俺でいいっしょ、お願いヤラせてチガヤちゃん」
「えぇ……に、ニシくん……?」
混乱している様子のチガヤを、そっと抱き寄せた。いつも俯いてるチガヤの背は、思っていたよりも更に高くて、今までに触れた誰よりも「対等」な感じがする。だけど今の俺たちの関係は、そんな言葉からは程遠かった。慌てて右手を引っ込めたチガヤは、肩を震わせながら黙ったままだ。
ごめんなと言ってしまいたい気持ちをこらえて、どうするの、と返事を急かした。
「ほら、嫌なら嫌ってちゃんと言わなきゃ、わかんないよ?」
「嫌じゃないの……でも、私なんかが相手じゃ、ニシくんに迷惑が――」
「ダメ、俺のせいにして逃げないで。俺はチガヤとヤリたいんだから」
「……だ、だったら、私……」
「ああ、わかってるとは思うけど、別に惚れてるわけじゃないから。誰とでもヤッちゃう女なんて、俺は絶対惚れたりしない。そういう女は結婚しようが子供を産もうが、他の男とヤッちゃうんだからさ……俺の母親みたいに、ね」
「えっ……!」
「俺の生物学上の父親、本当にうちの父親なのかも怪しいんだよ。ちなみに母親はチェンジ済み、俺と妹は腹違いなの」
ずっと、胸の奥にしまい続けてきた秘密を、俺は初めて吐き出した。
ユズカの母親が家族になる前、幼い頃の俺が抱えた毒は、今も俺を
チガヤにこの記憶を打ち明けたのは、同じになって欲しくないから。
お前はこっちに来るんじゃねえよ、そう言ってやりたかったから。
「きっと俺も、母親だった女と、同じ生き方をするんだろうなって思ってる。今ここで俺とヤッちゃったら、チガヤも同類だってこと。俺と一緒に堕ちるのか、ちゃんと自分で腹括ってね」
「待って……考えが、まとまらないの」
「いくらでも待つよ。後から俺のせいにされても、正直言って困るからさ」
チガヤは完全に黙り込んだ。胸の奥がギリギリと締め上げられるようで、思わず視線を床に向けると、ゴミ箱の回りに丸まった没原稿が大量に落ちていて、チガヤを連れてきた理由を思い出す。
こんなはずじゃ、なかったのに。
俺はチガヤと一緒に、きらめく夢を見ていたかったのに。
絶望に近い感情を抱えた俺の腕の中で、チガヤは軽く嗚咽を漏らした。俺が泣かせてしまったのに、一緒に泣きたい気分になった。
「……私、好きな人としか、したくない」
「それが、チガヤの答え?」
「うん……でも、もう少し、このまま……」
涙の色は消えないままの声だったけど、甘えているのが伝わってきて、俺はそれを可愛いと思った。
チガヤは今、セックスという行為は拒否したけれど、俺そのものを拒絶しているわけじゃない。たくさん傷付いたはずなのに、まだ俺を信頼してくれている。俺の願っていた未来は、その可能性は、今も手の届く場所にあるのか――目頭が、熱くなった。眼鏡が意味をなさないくらいに視界が歪み、こらえきれずに鼻をすすると、つられるようにチガヤも鼻を鳴らした。抱き合って、お互いに泣いちゃったりして、俺たちは何をしてるんだろうな。
しばらくそうしていると、チガヤが俺の頭を撫でた。指先で髪を梳きながら、何度も「泣かないで」と繰り返す。その声も、指も、ただひたすらに優しかった。ひどい言葉をぶつけてしまった俺にも、チガヤは当然のようにこういうことをする……いい子なんだ、本当に。俺はそれを知ってるんだよ。
ようやく俺は、ごめんな、と口にすることができた。
「大丈夫よ、ニシくん……言いたいこと、ちゃんと伝わったから」
「こんなの理屈じゃどうにもならないって、俺もわかってる。だからもし、本気でどうしようもなくなったら……その時は、俺を選んで。誰でもいいなんて寂しいこと、二度と思わないでくれよ」
「ニシくんは、私を好きなわけじゃないのに……いいの?」
「いいの、他の子よりは好きだから。俺は誰とも付き合えないけど、チガヤだけは守りたいんだよ」
「ふふっ、ニシくんらしい……絵のせい、よね?」
「そうだよ。俺たちにとって、それ以上のものが何かある?」
「そうね、何もないわね。私もきっと、ニシくんの世界を守るためなら……同じことを、するわ」
クスクスと笑いながら、チガヤがそっと身体を預けてくる。大きい胸の感触が伝わってきて、素数を数えるべきか般若心経を唱えるべきかというところで、チガヤが「苦しかったの」と呟いた。
「私、父親と二人暮らしなんだけど、あまり仲良くできてなくって……それで、学校でもああでしょう? 世界中から嫌われてるみたいな、そんな気持ちになっちゃってた……」
「世界中って。俺はずっと、チガヤのそばにいただろ?」
「そうだけど……クラスの雰囲気、悪くしたくないだけなのかなって」
ああ、そんな風に思われていたのか。仕方がないのかもしれない、俺は正攻法でチガヤを庇っていたわけじゃない。それでもわかってもらいたかった。俺が守りたかったのは、雰囲気なんてくだらないものじゃない。憧れのひとの心を守りたかった。本当に、たったそれだけだったんだ。
「ヘタレすぎて、あんな方法しか取れなかったけど、俺はチガヤを守ってるつもりだったよ」
「うん……ニシくんがいなかったら、私、たぶん退学してたと思う」
「だよな。俺、それだけは絶対に嫌だったんだ」
俺のしてきたことは、無駄じゃなかった。そう認めてもらえただけで、今までの全てが報われたような気がして……完全に、舞い上がった。
「俺、マトモな恋なんてできないクズだけどさ……チガヤの描く世界に、焦がれてるんだよ。 俺の中では、恋愛よりも大事な感情なんだけど……そういうのは、ダメ?」
まるで告白している気分だった。
ダメじゃない、と答えたチガヤの耳が赤くて、腕の中にある身体が熱い。俺はその熱に惹かれてしまって、可愛い耳へと唇を寄せた。
「ごめん、キスしたい……嫌なら、ちゃんと、嫌だと言って」
チガヤは真っ赤になった顔をあげ、切れ長の目をまんまるにして、それから素直に目を閉じた。その顔が、思ってたよりもはるかに綺麗で……初めてみたいに緊張しながら、チガヤの唇にキスをした。
チガヤは初めてなんだから、これは一生残る記憶になるんだ――そう思ったら、とても雑には扱えなかった。とびきり甘くしてあげよう、とびきり幸せにしてあげよう、そんなことばかり考えてた。
こんなにも優しい気持ちになるなんて、なんだか自分じゃないみたいだった。
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