エピローグ

 ジョゼ・ルブランと呼ばれるに至った名無しの少女を「彼」が裏切るということは、悪魔の屁理屈にでも巻き込まれない限り、あり得ないと言えるだろう。


 彼、クロード・デュヴァルは、死を経験したことのある稀有な人間である。

 死ぬような目に遭った、ということではない。目の前にいた小さな子供を庇い、爆風に吹き飛ばされ、瓦礫に身体中を切り刻まれて、頭を強く打ち付けて、実際に死んでしまったのだ。庇った子供が生きているかどうかも確認できず、自身の傷のどれが死因かも分からないような、何もかもが最悪の状況で。

 それでも、彼は最期まで諦めが悪かった。骨が折れ、筋を絶たれ、ほとんど動かない身体で這いずった。せめて、この瓦礫の山となった町の入口へ。首から下げたドッグタグが、いつか訪れるかもしれない「誰か」の手に渡り、己の生きた証となってくれるよう。

 そう、まだ顔立ちにすら幼さを残す少年兵だった彼は、死にたくなどなかった。彼の短い一生を無かったことにされることが、とにかく恐ろしくてたまらなかった。


 けれども現実とは無慈悲なものだ。

 あと一歩というところで、彼は力尽きてしまった。

 あらぬ方向に曲がった脚は、のたうつようにびくりと跳ねたきり動かなくなった。全身から噴き出し、流れ続ける血が、水溜まりになっていく。口の端には血の混じった泡が溜まっていて、灰色の瞳は真っ赤に濁り、もう何も映しはしなかった。


 事切れる直前、彼が脳裏に思い浮かべたのは、郷里に残してきた妹の姿だった。

 幼かった妹たちは、無事でいるのだろうか。死にたくない。そうだ、さっきの子供は。ああ、せめて一目だけでも兄に、母に、妹に。死にたくない。子供の泣き声が聞こえる。幻聴か、妹なのか、それともこの町の、だがきっと誰も生きていやしない、だとしても、ああ、ああ。死にたくなんかなかったのに。


 どうせ死ぬなら、せめて「彼女」を救ってやってくれ。


 どこの誰とも分からぬ娘を、そのすすり泣く声を、「妹」のものと思い込んだ。妹がまだ生きている。どうか妹を救ってやってほしい、あれは何の罪もない少女なのだ。まだ三つで、きっと一人では生きていけない。どうか、僕はもう駄目だけれど、あの子のことは。もうすぐ死んでしまう僕の魂を、からと。

 血の塊を吐き出しながら、うなされているかのように譫言を繰り返した。何かの一色で塗り潰された視界では、目の前を動く影が何者のものかも分からないまま。ただ一瞬、こんな季節に似つかわしくない、春の香りがしたことだけは覚えている。


 あの子を助けて。

 死にかけの少年兵は、死んでしまった子供の躯となっても尚、そう願ったのだ。




 そうして、彼はを聴いた。

 弾むような笑い声は、血と硝煙の臭いに塗れた悲惨な廃墟にまるで似合わぬ軽快さで、クロードに笑いかけてきた。


「ああ、君は面白い。面白いねぇ、とっても『きれい』だ」


 瀕死の子供の馬鹿げた願いを面白がるような者に、ろくなものなどあるはずもない。結果としては、本当の「妹」たちはその後一人残らず死んでしまったし、死に際の彼が救いたかった「誰か」が一体どこの何者なのか、結局どうなったのかすらも分からなかった。

 クロードは、死の直前そこに居たのが鷲鼻の老女であったことも、老女がクロードの冷たい目蓋をそっと下ろしてくれたことも、「それ」が老女についてきたこの世ならざるものだということも、その後に起こったことすらも何一つ覚えていない。

 けれども、魂となって天に召される寸前のクロード少年は、消え去る前にを聞いてしまったのだ。



「君の魂を丸ごとあげれば、そりゃあ、あの子は死なずに済むだろう。死にかけと死にかけじゃ、二つで一つが限界だ。だけど君、それでいいのかい? ……ねえ、生きたいんだろう? それも叶えてあげるよ。君と彼女の魂を繋いでさ。対価は二つ。君の【かたち】と一番美しいものを、僕にくれるなら。さあ、どうする?」



 夜明けまでには、もう少し。

 静かに――そう呼ぶには、あまりに惨い有様だったけれど――息を引き取った少年の亡骸は、果てのない青に照らされて。


 ぼーん、ぼーんと、七つ分。

 ひび割れた音が鳴り響く。そんな、朝のこと。


 柔らかなボーイ・ソプラノ。

 クロードのものだったはずの顔と、とびきり愛らしい笑顔をも奪った「それ」は、こう言った。



「ありがとう。僕、きれいなものが大好きなんだ」



 ジョゼ・ルブランを救った「兄」は、こうして命を取り戻した。

 二つで一つになるはずだった魂を、二人で一つ分かち合って。

 クロード・デュヴァルという男が、ジョゼを裏切ることはない。だって自分自身を裏切れる者など、この世にあるはずもないのだから。


 この奇妙な縁の行きつく先がどこにあるのか、悪魔にだって分からない。けれども、分からないものにこそ、望みはあるというものだ。



「幸福になりたまえよ、調香師殿。我がの片割れよ。制約の中でしか動けはしないが、知恵は惜しむまいと誓おう。……君たちは、幸福であっておくれ。それが私たち、『家族』の願いなのだから」



 生まれることなく死んでしまった、「四人目の妹」、或いは「弟」だったもの――【賢人】と呼ばれる大きな胎児はそう呟き、ひっそりと笑った。

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午前七時の調香師 佐倉真由 @rumrum0830

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