第10話

 気持ちを通じ合わせたからといって、すぐにわたしたちの関係が変わるかといえば、そうではない。

 会社で顔を合わせたって普段通りだし、部署内のみんなに報告をするわけでもなく。

 これまで通りわたしは南雲部長に鬱陶しく話しかけに行くし、部下として仕事の報告もする。南雲部長は南雲部長でわたしを時折からかってくるし、上司として仕事のチェックをしてくれたりする。

 雰囲気だって、きっと今まで通りだ。

 けれどこれまでと変わったことは、やっぱりいくつかあって……。


「間宮、帰るよ」

「はぁい」

 じゃあお疲れ様ですぅ、とほとんど残っていない社員数人に声を掛け、わたしと南雲部長は連れ立ってオフィスを出た。

 廊下を歩いていると、通り道にある自販機で立ち止まって。いつも通り南雲部長は自分の珈琲と、わたしのミルクティーを買う。

「ほれ」

「ちべたっ」

 首筋に冷たい缶を当てられて大げさに肩をびくつかせるわたしに、南雲部長は「ふははっ」と滅多に聞かない無邪気な声を上げて笑った。

「……ありがとうございます」

 へにゃり、と気の抜けた笑みを浮かべるわたしの背に手を添え、「じゃ、行くか」と南雲部長は微笑んだ。


 ――変わったこと、その一。

 雨の日でなくとも、わざわざ時間を合わせてまで、南雲部長がわたしを家まで送ってくれるようになったこと。


「お願いします」

 学生時代、友達の親が車で送ってくれる時からずっとそう言っていたので、車に乗る前に一言付け加えてしまうことはもはや癖になっていた。

 南雲部長はいつも、少し笑って

「律儀だな、間宮は」

 仕事中に、わたしが頑張ってやり遂げた仕事を褒めてくれる時と同じように。

 優しい目で、わたしの頭を撫でてくれるのだ。


 ――変わったこと、その二。

 仕事中でもそうでなくても、南雲部長がわたしに触れる機会が増えたこと。


 オフィスで二人になると、南雲部長の仕事が終わるのを、わたしが自分のデスクでなんとなく待っていることが多い。

 仕事に集中する南雲部長をぼんやりと眺めていると、やがてひと段落着いたのか集中力が切れてきたらしい南雲部長が、ぐるりと首を回した。

 眼鏡を外し、目の凝りを癒すように片手の指で揉んで。

 ゆるりと顔を上げた南雲部長の、レンズ越しではない瞳と目が合った。

「……間宮、」

 ふっ、と南雲部長が気の抜けた声でわたしを呼んで。

「おいで」

 手招きされるがままに、わたしはふらりと立ち上がり、南雲部長のデスクへと向かう。

 そして腕を取られるままに、南雲部長の膝の上へと腰を落ち着けた。


 ――変わったこと、その三。

 二人きりになると、仕事に疲れたらしい南雲部長がわたしを呼び寄せ、膝の上に乗せたり抱きしめてきたりするようになったこと。


 雨の日の南雲部長は、特に甘えたで。

「ん……南雲部長?」

 二人きりになった途端、何の前触れもなくわたしを抱きしめ。時折、戯れのようにキスをしたがる。

 彼が眼鏡を外すのは、わたしに甘えてくれる時のサイン。

 普段の南雲部長はほとんどポーカーフェイスで、感情の起伏に乏しい方だ。わたしと武藤くんが一緒にいても、特に何も言わないし……不安になる人もいるかもしれないと思うほど。

 けれど甘えたい日とか、そういうところは意外とわかりやすかったりする。

 そんな日は特に、誰も知らない南雲部長の意外な一面を見ている気がして、なんだか優越感を覚えてしまったりするのだ。


「最近ご機嫌ですね、間宮さん」

 武藤くんに指摘され、わたしは「ふふん」と緩む頬を抑える気もなく、小さく鼻を鳴らした。

「南雲部長とは、順調で?」

 武藤くんにだけは、南雲部長とのあれこれを伝えている。……というか、バレた。

「まぁねぇ」

 へっへへー、と大げさにピースサインしてみたら、「よかったですね」とどこか優しげに――ちょっと切なげに、微笑まれた。

 ……色々と罪悪感が、ないわけではないんだけれども。

 それでもさらさんのことや、武藤くんのこと、そして南雲部長自身のこと。

 これまでにぐるぐると悩み続けた結果、得ることのできた幸せなんだなと思うと、どうしようもなくこの日々が愛おしくて仕方なかった。


    ◆◆◆


 仕事が休みの日に、南雲部長と一緒にさらさんのお墓参りに行った。

 こういう時にぐずついた天気になるのは、もはやお約束な気がする。

 命日の日に南雲部長は一度お参りしているのだけれど、わたしが行きたいと言ったら連れて行ってくれたのだ。

 最近建て替えたばかりらしい、つやつやとした墓石には、さらさんの戒名ともう一つ『水子すいじ』と最後に付く戒名が彫られていた。

 水子――お腹にいる間に亡くなった胎児は、羊水の中で亡くなったということでそう名付けられるのだそうだ。

 それは紛れもなく、さらさんのお腹にいた新しい命を指していた。


 二人分の命が眠るお墓に、花と心ばかりのお菓子をお供えして。

「……間宮には、まだ話したことがなかったけれど」

 墓石の前で跪き、拝みながら、南雲部長が独り言のように呟いた。

 ぱららっ、と申し訳程度に降った小雨が、足元の砂利道をしっとりと濡らす。

 もしかしたら、ほんの昔話だったのかもしれなかった。

「生前、さらがこう言ったことがあるんだ」


 ――間宮さんって本当に、素直でいい子ね。自然と周りを笑顔にする、愛嬌があって。

 あなたとお話しているのを見てると、お似合いに見えちゃうことがあるのよ。


 まだ、さらさんが生きていた時に。

 わたしも一度だけ、こんなことを言われたことがあった。

『わたし、あなたになら南雲を取られてもいいわ』

 取られても仕方ないと、言った方が正しいかしら。


 その時は南雲部長に対して今ほどまでの気持ちを持ち合わせていなかったし、南雲部長は当然のようにさらさんと結婚するものだと思っていたから、気にも留めなかった。

 けれど、南雲部長の何気ない言葉でふと。

 ウインク混じりに悪戯っぽく笑った、当時のさらさんのお茶目な表情を、何故かありありと思い出した。


「……意外と、さらは分かっていたのかもなぁ」

 さらがもし、あの不幸な事故に見舞われなかったとしても。

「こうやって、俺が間宮に心を奪われる未来が、遅かれ早かれあったかもしれないってこと」

「……そんなの、」

「もちろん、さらと生きた日々を無駄にしたいわけじゃないし、忘れたいわけじゃない。俺は確かにさらを愛していたし、結婚したいと願ってた。その気持ちに偽りはない」

 それでも、な。

 立ち上がった南雲部長は、うつむくわたしの手を取り、ぐっと力強く抱きしめてきた。まるで、墓石に二人の姿を見せつけるように。

「大事なものを失った悲しみを乗り越えて、ようやく一つの幸せの形を手にしたんだ。俺は、さらとお腹にいた子供、そしてお前のことも。全部抱えて、守って、生きていくから」

 だから、間宮。これからもよろしくな。

「あいしてる」

 間近でそう言われて、嬉しさとか、愛おしさとか、寂しさとか、切なさとかで心がぐちゃぐちゃになって。

「わたし、も」

 あいしています、と呟きながら。

 優しく、力強く抱きしめてくれる南雲部長の肩にそっと頭を預ける。

 分厚い雨雲の間から差し込む晴れ間に、思わず細めたわたしの瞳から、また何度目かの涙が溢れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あめのよる @shion1327

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ