第9話

 わたしを抱きしめたまま、南雲部長は動かない。

 わたしも、このまま動きたくはなかった。腕を回して、南雲部長を抱きしめ返したかった。できることならずっと、こうしていたいと思った。

 でも――……。

「……南雲部長」

 離して、ともう一度。

「どうして」

「それは、錯覚です」

 南雲部長にとって、わたしを好きだという気持ちは、ただの気まぐれだ。偶然わたしがそこにいたから、手近だったから。都合が、良かったから。

 さらさんに対していまだに残っている愛を、持て余した結果形作られた、ただの幻に過ぎないんだ。

「だから、離して」

 おねがいだから、と。

 何度目かの懇願に、南雲部長は抵抗するようにわたしを抱きしめる力をさらに強めた。いたい、と素直な声を上げると少し緩んだけど、それでもわたしを離してくれる気配はない。

「言っただろう? さらの代わりになんて、するつもりはないって」

「けど……」

「確かに最初は、たまたまだったな」

 二人で出張に行ったのも、夜に雨が降り出したのも……今思えば、あれは単なるきっかけに過ぎなかったのかもしれない。

「それでも。確かに、さらを失った心の穴を埋めてくれたのは、他の誰でもない。間宮、お前だった」

 けどなぁ、今思えば、それもきっと偶然じゃなかったんだと思うんだ。

「覚えてるか? さらが死んだばっかりの時。部署内だけじゃなくて、社内の誰もが、腫れ物を扱うように俺に接してくる中で……唯一、お前だけがいつもと変わらなかった」

 だからこそ俺は、お前にあぁ言ったんだと思う。

「お前だけは、これまで通りに接してくれて。俺はあの時、本当に救われていたんだよ。お前が、いてくれたからだ」

 そんな風に、わたしを肯定する南雲部長の言葉ひとつひとつが。

 ゆっくりと、じんわりと。わたしの中へと入ってくるのが分かる。

「物静かでおしとやかだった、さらとは全く違う。本当に同じ人種か疑いたくなるほど、正反対のお前だけど……それでも、どうしようもなく惹かれた。錯覚なんかじゃなくって、間違いなく。お前のことを、一人で泣かせておきたくないって思った」

「どうして、泣いてるって……」

「この間、泣いたじゃないか。俺の車の中で」

 南雲部長の前で涙を見せたのは、後にも先にも、あの一度だけ。

 それなのに、南雲部長には全部、お見通しだったらしい。

「あんな風にいつも、一人で我慢してるんじゃないか?」

 甘え上手のくせに、変なところで強がるからな、お前は。

「う、っ……」

 南雲部長の優しすぎる声と語りかけてくるような口調で、また勝手に涙が零れてきて。

 顔を見られたくないので、肩にしがみついて必死に堪えようとしたけど。

 ぽんぽんっ、と頭を優しく叩かれたのをきっかけに、わたしはいつの間にか南雲部長の腕の中で泣きじゃくってしまっていた。


「……落ち着いたか?」

「は、い……」

 これ以上は迷惑がかかるからと、そっと離れる。南雲部長は今度はすんなりと開放してくれて、赤くなっているであろうわたしの目を、覗き込むようにしてじっと見つめてきた。なんだか恥ずかしくなってきて、目を合わせられず視線が彷徨ってしまう。

「なぁ、間宮」

「なんですか」

「お前の気持ちが、知りたい」

 肩をそっと、包み込むようにして掴まれる。

 なおも至近距離で見つめてくる南雲部長の視線から、わたしは逃げるように顔を逸らした。

「……だめ、です」

「どうして」

 聞かせてくれないの、と小さく首を傾げる南雲部長は、こちらの気持ちなどとうに見透かしていそうなのに。

「だ、って」

 いじわるなひと、と心の中で呟いて、わたしはつっかえながらも真意を答えることにした。

「わたしがこのまま、肯定してしまったら。南雲部長が言ってくれたことを鵜呑みにして、全部受け入れなんてしてしまったら」

「俺は、本当のことしか言ってないよ」

「……っ、それでも」

 ぐらりと、揺れる決意。

 ううん、受け入れちゃ駄目だ。南雲部長のためにも、さらさんのためにも……わたしが南雲部長の傍にいるわけには、いかない。

「そこに、わたしの気持ちを乗せてしまえば。さらさんを、裏切ることになってしまう。さらさんとあなたの思い出を、全て無駄にしてしまうなんて……」

 わたしにはそんなこと、できません。

「……そう、だな」

 南雲部長は一瞬動きを止め、目を伏せた。

「これは確かに、さらに対する裏切りなのかもしれない」

 切なげに、やりきれないように、「でも」と唇を噛む。触れたくなってしまうのを、必死に堪えた。

 口を噤んだ南雲部長は、しばらく言葉を発さず、何かを考えているようだった。流れる沈黙の間に、わたしは少し冷静になって。ようやくちゃんと、南雲部長の顔をしっかり見られるようになった。


「……先月、さ」

 ゆっくりと、探るような口調で南雲部長は口を開いた。

「はい」

「先月、さらの命日があったんだ」

 先月半ばの水曜日。基本的に仕事を優先するはずの南雲部長が、珍しく有休を取った日だ。

 彼は詳しいことを何も言わなかったけれど、部署内の人間はみんな分かっていた。南雲部長の最愛の恋人を襲った、不幸な事故――あれからもう、一年が経ったのだと。

「さらの実家にお邪魔して、仏壇に線香立てて。そのあと、さらのご両親に言われたんだ。……新しい、恋をしてくれって」

 あれからもう一年経ったんだから、いつまでもさらの存在に、縛られていてはいけないって。さら自身も、それを望んでいるはずだから……って。

「正直、すぐに受け入れるのなんて無理だって思った。だってあの時、さらのお腹には俺たちの子供までいたんだ。仏壇にはさらの写真と、その横に小さな位牌があった。……さらを諦めるということは、その子の存在まで否定することなんじゃないかって、そう考えると怖かった」

 南雲部長の苦しみは、きっと計り知れない。

 その上でわたしにあぁ言ってくれたんだと、そう思うとどうしようもなく申し訳なくて、けれどどうしようもなく嬉しくなってしまった。

「けど同時に、ご両親の言う通りかもしれないとも、思った。さらは自分のことを差し置いて、他人を何より先に思いやれる女性だったから」

 そんな彼女だからこそ惹かれたのだし、愛したのだから。

「さらのご両親に、本当は気になっている人がいるんじゃないのかと、問われて。……最初に出てきたのは、お前の顔だった」

 とっくに見透かされているような、気がした。

「実を言うと、以前から違和感はあったんだ。お前といると落ち着くし、さっき言ったとおり、お前の存在があって救われたのも事実だったから」

 けどそこで、ちゃんと気づいたんだ。

「俺は、間宮に惹かれてるんだなって。間宮のこと……いつの間にか、そういう目で見始めてるんだなって」

 そう語る南雲部長の、最初は強張っていた表情が、わたしのことを話しながら少しずつ柔和になってきているのが分かって。わたしがそうさせているのだと思うと、なんとも言えない幸福と愛おしさがこみあげてきた。

「さらのこと、完全に吹っ切れたわけじゃない。きっと俺の中には一生、さらと生まれるはずだった子供の存在が残るだろう」

 じわじわと心を占める罪悪感よりも、南雲部長の言葉が嬉しかった。

「それでも……俺の中で、お前の存在も同じくらい大きいのは確かで。何食わぬ顔でお前と同じように過ごしてても、気を抜けば何か言ってしまいそうだった。時折、お前の聞いてないところで零してみたりもした」

 そういえば南雲部長の車の中で、わたしが寝ているとき。

 「あいしてる」と言葉が聞こえるようになったのは、南雲部長が有休を取った日以降だったかもしれない、と。

 今になってようやく思い当たり、かぁっと頬が熱くなった。

「勝手なこと言ってるって、分かってる。お前はこんな俺に幻滅したかもしれない。でももし、お前が許してくれるなら。お前が、俺に気持ちをくれるなら……ずっと傍にいたい。お前と一緒に、いたいんだ」

 柔らかく瞳を細める南雲部長に、涙でぐちゃぐちゃになった顔を向ける。縋るような口調になってしまうのは、許してほしい。

「そばにいても、いいんですか」

「当たり前」

 もう一度ぎゅっと抱きしめられ、あいしてる、と囁かれる。

 すぐに身体を離し、南雲部長は微笑みながら眼鏡を外した。意外と目尻の垂れた瞳が、わたしを優しく射抜く。


 ――唇が、重なる前に。

「わたしも」

 あいしています、と。

 ほとんど声にならない、吐息に混じった涙声で呟いた。

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