鬼姫

武市真広

鬼姫



 やけに時間が長く感じた。少年は、敷かれていた布団に正座して痺れた足を気にしながら、暗がりに沈む襖を見つめていた。既に半時間は待った。置行燈のほのかな灯りが微風で揺らめく。

 遂に少年は膝を立てて窓側の障子を僅かに開けた。庭の松と池は月明りに照らされて昼間とはまた異なる印象を少年に与えた。池の水には白い丸い月が映り込み、水面は微かに波立っている。今日は満月だと少年は思った。

 邸はしんとしている。まるで誰もいないようだ。ついさっきまで多くの客人が宴をしていたはずなのに。少年にはそれが不思議だった。

 この邸に来たのは今日が初めてである。少年は、自分は夢でも見ているのではないかと思った。この一週間の間に起きたあまりにも突然な出来事。そして、今がある。

 自分は冷徹で同時に冷酷な人間だと思い込みたがったこの少年は、『運命』など決して存在しないと考えていた。だが、今自分が置かれている状況、その経緯を頭の中で辿ってみる度に、運命は厳然と存在して自分たち卑小な人間を全て支配しているような気がした。そんな考えは少年にとって耐え難いものだった。

『僕は冷徹で冷酷な人間だ。決して運命など信じない。でも、もし本当に運命というものがあってどう足掻いてもそれから逃れることができないとしたら……、僕は何のために生きているのだろう』

 運命とは違う何かのために自分たち人間は生きているのだと少年は日ごろから考えていた。その何かとは、名誉や誇り、栄光だろうと結論していた。しかし少年にはそのいずれのものもなかった。


 障子を閉めると少年は暫く足を崩して痺れが治まるのを待った。突然暗がりに沈んで動かなかった襖が、ゆっくりと軋んで開いた。少年は驚いてすぐに正座した。その一連の動作にはまだ幼さがあり、初々しかった。襖を開けたこの邸の主は、そんな少年を微笑ましく思った。恥ずかしくて顔が熱くなり主から目を逸らした。

「随分と待たせてしまったね」

 邸の主、鬼姫は僅かに笑って、敷かれていた布団の上に座り、少年と対坐した。

「君も楽にしなさい」

 促されて姿勢を崩した。

 黒い着物から見える彼女の細長い白い手が、少年の目にはさっき見た月の色と同じに映った。

「君にはすまないと思ってる」

 弱い者を労わるような優しい声。恐縮して首を振る少年の手は緊張で震えていた。そっと彼の右手に自分の手を重ねた。ひんやりと冷たい手の感触。少年は、電流が走ったようにびくりとして恥ずかしさでまた顔を赤くして目を伏せた。

『大丈夫』

 彼女は心の中でそう呟いた。それは少年に向けられたものでもあり、自分に向けた言葉でもあった。

 鬼姫は行燈の火を吹き消した。人工の光は消えて明障子から月の光が入り込んだ。その白い光は二人の肌を死人のように青白くした。

 その時になってようやく少年は鬼姫を鬼として意識した。額から突き出た二本の紅い角が、暗い部屋の中でも分かるくらいはっきりとした輪郭を描いていた。

「怖いか? 私が」

 鬼として人間から恐れられてきた彼女は、少年の微妙な変化を敏感に感じ取った。

「いいえ」

 この時初めて少年は声を出して否定した。その声は明瞭で怯えている節はない。事実彼は鬼としての彼女を恐れてはいなかった。人間とは違うという事実を噛みしめていたのだ。

「そうか……。君は私を恐れないのだな」

 感情を込めないでその言葉を口にするのに彼女は少し苦労した。

 鬼姫は少年に布団に入るように促した。解けない緊張に動きがぎこちない少年は、何とか布団に身体を収めた。すぐ隣の鬼姫に目を合わせないようにわざと視線を逸らした。自分は否応なしに彼女の目を覗き込まねばならぬ時が来ると内心では分かっていた。だが彼はそれが怖かった。

「君は私を愛してくれるか?」

 鬼姫はこの言葉の通俗的な響きに自分を恥じてその先が続けられなかった。本当なら念を押すようにこう続けたかった。

『鬼であっても愛してくれるか?』

「はい」

 彼は短く一言返すだけで精一杯だった。人間の、それも卑小な自分にそんなことを訊く鬼姫が素直に愛おしかった。なのに感情は言葉にならず、口から出たのは無機質な返事だけだった。少年はそんな自分に腹が立った。

 感情が渦巻いているのは二人とも同じだった。この渦を破壊する行為が必要だった。元来なら男である少年がその役割を果たすべきであったが、この場でそれをしたのは年長者である鬼姫だった。

 自己に渦巻く感情を打ち倒すように、彼女は少年のまだ幼い唇に自分の唇を重ねた。そのあまりに一瞬の動きに少年は驚き、後頭部が枕に沈んでいくように感じた。唇を引き離した鬼姫の顔から少年は目が離せなかった。二人とも顔が今までにないくらい熱くなって、まるで慣れない酒を飲んだように上気した。溢れかえっていた少年の感情は死んだように黙り込んだ。ただ恍惚とほんのりと残る初めての新鮮な快感だけがあった。鬼姫もまた快感に酔っていた。

 夢心地の少年は着物の擦れる音を聞いた。暗がりの判然としない中で、その音はやけにはっきりと聞こえ、少年の心をかき乱した。死にかけていた感情が蘇った。しかし今や羞恥はなかった。名状しがたい激しい何か。初めての感情だと彼は思った。

 鬼姫の豊満な身体に少年は全身が包まれるように感じた。暖かい体温が全身に纏わり、それから幾度も快楽が身を打った。


 気が付けば二人とも眠っていた。夜が明けて最初に目を覚ましたのは少年であった。鬼姫の双の乳房に顔を押し付けていた自分に驚きつつも、もう少しこのままでいたいと思った。彼は右手の指先で彼女の腹に触れた。小動物のように微かに動くのが伝わってくる。不思議なことに彼はその時、自分たちはちゃんと生きていると確信できた。寝惚け眼を再び閉じて今度は鬼姫の鼓動を聴こうと耳を澄ました。心臓が血液を送り出す音、それは生きている音であった。はっきりとその音を聴いた時、少年はふと自分の鼓動は聞こえるだろうかと一抹の不安を覚えた。


 鬼姫が目を覚ましたのは、朝日が部屋に眩しい光を投げかけ、鳩や雀が庭先に降り立ち、今日という一日の始動を母なる大地が宣言した頃だった。

 朝日の眩しさに物憂げな表情を浮かべる鬼姫は、目を閉じたまま少年の頭をゆっくりと撫でた。その手つきの何と優しく丁寧なことか! まるで母親が自分の子供の頭を撫でるかのようだった。少年もまた無言で甘える子供を演じた。


 使用人の若い女が二人を呼びに来た。

 鬼姫は上半身を起こして布団で体を覆って応対した。女はすぐに引き返していった。

「大丈夫」

 今度ははっきりと口にした。少年は安堵の表情で頷いた。

 意識がはっきりなるに従って彼は思った。

 

『自分は決して冷徹でも冷酷でもない』と。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鬼姫 武市真広 @MiyazawaMahiro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ