第14話

 翌日の昼近く、幸夜は痛む肋骨を抱えながら、追い出されるようにして丸宮診療所を退院した。

 自力で帰って来いという佐武朗の言葉は完全無視だ。迷うことなく柾紀を呼びつけた。

 サブロ館に着いて地下事務所から地上うえに上がれば、香ばしい匂いとかしましい声がダイレクトアタック。

 キッチンから「お帰りユキちゃん!」とデカい顔を突き出したタマコは、お馴染みがっつり厚化粧にエメラルドグリーンのアフロヘア、薔薇柄ひらひらエプロン姿。今日も安定のゲテモノっぷりだ。

「今日はお祝いだよ! ヒノちゃんの帰館祝いとユキちゃんの退院祝いさ!」

「マーマー、お皿はどれを出せばいいのー?」

 ラフな部屋着のリリコが珍しく手伝っている。幸夜が柾紀を呼び出したので代わりに手伝わされたのだろう。ダイニングの大テーブルは、すでに料理の皿で一杯だ。


「お帰りなさい、幸夜くん」

 リビングのソファには、いつも通り新聞を広げている鴨志田。幸夜がソファ上に散らかった衣類や雑誌を足でぎ払って身を沈めると、鴨志田は難しい表情で口を開いた。

「――昨晩、正式に藤緒貴祐副社長の訃報が発表されましたよ。陽乃子さんのことも、うちの事務所との関わりも、完全に伏せられています。あくまでも、休暇中に身を寄せていた別荘で運悪く被災し死亡した、という筋書きで通すようですね。今のところ警察やマスコミ方面にそれを不審視する気配はありません。二人の運転手についてはまったく触れられていませんがね」

 もともと公にはしたくない素性を持った二人である。穴あきベンツもろとも、その存在ごと滅却したのだろう。

「突然の訃報に不二生薬品はてんやわんやの大騒ぎかと思ったんですが、意外にも本社周辺は静かなものでした。もともとあの会社は上層部と平社員との間に大きな隔たりがありましたからね」

 しんみりと語る鴨志田の言葉を聞きながら、幸夜はローテーブルの脇にあるとう屑籠くずかごを引き寄せる。中には小箱がたくさん……

 ――ウソだろ。ここにもキノコしかない。タケノコは?

 唖然と屑籠の中をかき回していると、リビングドアが勢いよく開いた。

「――ヒノコ! ……ヒノコは?」

 キョロキョロと見回す信孝。昨日とは打って変わってその表情は明るい。

「陽乃子さんは今朝がた、所長と一緒にご隠居のお屋敷へ行かれましたよ。今後のことについて晃平さんと話し合うのでしょう。……おや、それは」

 信孝が持ったものに目を止めて鴨志田が瞬く。信孝は肩を落として幸夜の向かいのソファに腰を下ろした。

「昨日、天宮さんに頼まれたんだ。あの画像をもう一度プリントアウトし直して、ヒノコに渡してあげてほしいって」

 テーブルの上に置いたのは、木製のフレームに入った写真――天宮親子三人が映る写真であった。前のものよりひと回り大きいサイズになっている。

 なになに?と、ダイニングから跳ね飛んできたリリコが、信孝の背後から覗き込んだ。

「あら、写真立てまで用意したの? ノブったら気が利くじゃない。そうよね。あの写真、アイツが破り捨てちゃったのよね……アタシあの時、ブッ飛ばしてやろうかと思ったのよ? 絶対に手も足も声も出すなって言われてたからガマンしたけど」

「ブッ飛ばしたって破かれた写真はもとに戻らないし」

 極めて素っ気なく返す信孝。リリコはムッと唇と突き出す。

「ほんっと、アンタってばかっわいくない!」

 フンッとダイニングへ戻っていくリリコ。鴨志田が何とも言えない顔で写真を手に取った。

「この写真……何だか感慨深いものがありますね。あの男を追い詰めることができたのも、この写真があったからこそですし。……まるで、陽乃子さんのご両親が我々に力を貸して下さったような気がして」

「カモさん……いいコトいうじゃないか」

 感動を露わに、エプロンの裾で目頭を押さえる厚化粧妖怪。その横でリリコが得意げに小鼻を膨らませる。

「そうそう。アタシもあの写真の真梨子さんを参考にして変装ばけたんだもの。時間も限られていたしウマく変装ばけられたかどうか不安だったけど、ヒノちゃんが見間違うくらいだから、真梨子さんが助けてくれたのかも。天宮さんは意外と作りやすかったわ。やっぱり兄弟って骨格が似ているのかしら」

 幸夜はタケノコを諦めて、キノコの箱を開けた。昨日からこのキノコ型チョコ菓子しか食べていない。

 ちなみに、リリコは忘れているようだが、陽乃子に特殊メイクは通用しない。つまり、陽乃子の目には “真梨子” の姿がしっかり “リリコ” として映っていたわけで、あの時陽乃子はリリコに抱きついたのだ。

 そうと知ればまたいろいろうるさいので絶対に教えてやらないが。

 ダイニングでは、手伝い始めたくわえ煙草の柾紀が「お、そーいや」とリリコに向く。

「あの血糊、ずいぶんホンモノっぽかったじゃねぇか。幸夜がホントに大量出血したと思い込んで、嬢ちゃんがえらくショック受けてたらしいぜ?」

 リリコは「え、うそ」と動揺する。

「だ、だって、市販のはだいたいサラッとしていてリアルに見えないのよ。ウソものだってバレたらマズいじゃない」

「じゃあ、リリちゃんお手製の血糊だったのかい?」

「ええそうよ。専門学校の時に仲間と研究したの。ホンモノに近い血液を再現するには、赤に少し緑を入れるとそれっぽくなるわ。あと、血液っぽいコクを出すには片栗粉ね」

「昔は血糊といったらケチャップだったんだけどねぇ……」

 タマコが冷蔵庫からケチャップを出した。

「友だちの中には匂いまでこだわってる人もいたわ。鉄っぽいあの匂いを出すのって難しいのよ」

「へぇ。そのうち血液型まで判定できる血糊ができそうだな」


 ダイニングから聞こえるどうでもいい話を意識の外に追い出して、幸夜は向かいに座る信孝に小さく訊く。

「佐武朗には報告したか」

 顔を上げた信孝は大きく頷いた。

「うん、幸夜さんにメールしたあと、佐武朗さんにもした。……ねぇ、あの “田中” って」

「ああ。 “田中” だろうな」

 低く答える幸夜に、鴨志田が「何のお話ですか」と写真をテーブルの上へ置く。

 信孝が上体を前のめりに説明した。

「昨日、幸夜さんに言われて、藤緒貴祐の携帯の着信履歴を調べたんだ。そうしたら最後に一件、不審な着信があって。着信時間はまさに、ちょうどみんなで山を下りていた頃」

「え……、どういうことですか」

 目を見開く鴨志田に、信孝は強く頷く。

「山を下りている途中、誰かが藤緒貴祐の携帯にかけたんだ。それが原因で、あの男はもと来た道を引き返すことにした――ってことじゃない?」

 自分のせいではないことがわかってホッとしているのだろう。信孝の声音は力強い。

 一方の鴨志田は表情を不可解に染める。

「誰かが貴祐氏に『戻れ』と命じたってことですか……? 何のために」

「どんな話をしたかはわからないけど………でもその着信があったから、あいつは引き返していったんだと思う。ね? 幸夜さん」

「誰なんです? 電話をかけた人物は」

 二人の目が向いて、幸夜はチョコ菓子を噛み砕きながら答えた。

「端末の契約名義人は “田中太郎” 」

 信孝がコクコクと頷き、鴨志田が「田中……?」と繰り返す。

「もしや、天宮さんと朋永弁護士がやり取りしていた携帯の――、」

 と言いかけて、「いや待って下さい」と首を振った。

「たしか天宮さんは、通話不能になった時点でその携帯端末は捨てた、と言っていましたが」

「うん。だから天宮さんに番号を確認したよ。そうしたら一致した。つまり、天宮さんが捨てた携帯を誰かが回収して使ったってことだよね。まぁ、SIMカードを入れ替えたって可能性もあるけど」

 小さく潜めながらも早口に信孝は説明する。

「その端末、履歴はその一件しかなかった。でも、足跡を残さず消すこともできるから。あと発信地は “プエルトリコ” だった。これもアプリで簡単に偽装できるから無視していいと思う」

 幸夜はゆっくりとキノコ型チョコを噛み砕いた。

「まぁ、たしかなのは “田中太郎” が藤緒貴祐に電話した、それと前後してヤツはロッジへ引き返した……それだけだな」

「そんな……でもそれは、つまり……がそうしたと?」

 信じられない、といった顔で鴨志田が目を瞬く。

「証拠はない。たとえそうでも、直接手を下したわけじゃねーだろ。あの弁護士なら手先となって動いてくれる人間はいくらでもいるだろうし。それが弁護士の独断か、藤緒徳馬の指示かどうかもわからねーし」

「徳馬氏の指示……? いやそんな……だって、自分の息子ですよ? しかも徳馬氏にとって、不二生薬品における藤緒本家の実権掌握は絶対なんです。だからこそ、徳馬氏は息子の貴祐氏を副社長の座につけるため心血を注いだんでしょう。たった一人しかいない大事な跡取り息子を危険にさらすような真似、父親がするでしょうか。朋永弁護士とて同様です。あの方は社長の腹心なんですよ?」

「あのさ、あの男が死んだってことが、ウソだったりしないよね」

 信孝がさらに声を潜めて言った。天宮真梨子の死の偽装や、陽乃子の死亡診断書を捏造した前例から思いついたことだろう。

 しかし鴨志田は、眉尻を下げてうーんと唸る。

「考えにくいことです。病院で亡くなったのならそういった可能性も否定できませんが、ご遺体は大勢の消防隊員や警察、地元の消防団員がいる中で発見されているんです。そんな状況下で別の遺体を用意することも無理でしょうし……」

 眉を八の字にして考え込む鴨志田と、唇を引き結んで考え込む信孝。

 気怠くチョコ菓子を頬張る幸夜にしても、証明できることは何一つないのだ。 “田中太郎” 名義の端末はすでに廃棄されているだろうし、これ以上は調べようがない。

 それでも幸夜は、あの老紳士に抱いた印象は忘れないでおこうと肝に銘じている。

 不二生薬品の企業法務全般を担い、藤緒徳馬社長の代理人を務める朋永弁護士。初老の品あるもの柔らかな紳士に見えてどうも胡散臭い。

 うちの応接室でのやり取りを見た時から感じていた。素直に誠実に受け答えしているようで、その実、何も答えていない狡猾さ。老獪な狐のような印象。

 当然、そんな男を片腕として使っている藤緒徳馬もロクな人間ではないはずだ。

 佐武朗も同じことを感じているようだから、警戒は怠らないと思うが。


 キッチンでは、リリコとタマコがピザに乗せるトッピングを巡ってギャイギャイ騒いでいる。何でもかんでも乗せたがるリリコに、バランスが大事と口を出すタマコ。何でもいいから早く焼こうぜと急かす柾紀。

「……ヒノコ……天宮さんと一緒に住むのかな」

 ふと信孝が呟き、鴨志田がほっと表情を緩めた。

「さて、どうですかね。陽乃子さんが決めることですけれど……もしそうなったら、信孝くんは寂しそうですね」

「べ、別に……」

 ――とそこでリビングのドアが開いて、

「――朝っぱらから騒々しいな」

 佐武朗の低声が響いた。その後ろから入ってきたのはキノコ頭のキノコ娘。

「ヒノちゃん! おかえりー!」

 リリコがさっそく陽乃子をハグして出迎え、タマコが恐る恐る佐武朗に訊く。

「サブちゃん、ヒノちゃんは……」

 上座について新聞を広げる佐武朗は、いつもの不機嫌そうな顔で告げた。

「今までと変わらずうちで預かる。未成年のためバイト扱い。基本、調査には関わらせない。タマコの手伝い、および雑用担当だ」

 キャーと歓声を上げて陽乃子を抱きしめるリリコ。信孝がパッと顔を輝かせ、鴨志田がほぅと肩の力を抜いた。

 タマコがまだ心配そうに「いいのかい? 伯父さんとは……」と言いかけると、

「あの男がそうするよう望んだんだ。しばらくは自分の生活を立て直すことに集中したいとな」

 佐武朗は鬱陶しそうに答える。煙草をくわえた柾紀が太い腕を組んだ。

「うちの事務所で働くってぇ話は?」

「うちには来ない。老爺じじいが引き取る。もともと自分のところに欲しくて仕方なかったんだ。思い通りになってほくそ笑んでいるだろう」

 佐武朗の言葉を聞きながら、幸夜は然もありなんとチョコ菓子を口に放り込んだ。

 表舞台から退いて久しい老翁だが、現在もこの街の顔役としてあちこちに足を運ぶことが多く、また管理所有している施設も多いので、手足となって動いてくれる有能な側近はいつでも募集中なのだ。

 そして弥曽介は、晃平のような実直な人間が好きである。忍耐強く根性のある芯の通った人柄、しかも元刑事というハイスキル。老翁にとっては垂涎ものだろう。

 弥曽介から幾度となく「うちに来んか」と誘われていた柾紀は小さく合掌した。

「今度会ったら、お悔やみを言っときますよ……」


「――新しい依頼が入った。食事を済ませたらさっさと仕事に入れ」

 佐武朗がいつものごとくわずらわしそうに下知し、タマコがスパゲティの山盛り大皿をテーブルにドンと置いた。

「だったらほら! さっさとお祝いしようじゃないか! みんな、早く席にお座り!」

 皆がそれぞれダイニングテーブルに集まる中、信孝が陽乃子に駆け寄る。

「ヒノコ! これ」

 天宮さんに頼まれたんだ、と手渡した木製の写真立て。受け取った陽乃子は丸い瞳で写真を見る。

 幸夜はキノコ型チョコ菓子の箱を持ったまま、陽乃子の様子に目を留めた。

 陽乃子は写真を見つめたまま動かない。

「……ヒノコ?」



   * * *



 真っ青な空の下、微笑む父と母、抱かれた小さな幼女。

 どうしてわたしだけ、生きているのだろう――


 今朝早く、佐武朗に連れられて陽乃子は出かけた。海沿いを走り高台に上り、林を抜けた先にある古く大きな情緒ある洋館。権頭弥曽介の本宅である。陽乃子はそこで、弥曽介と天宮晃平も交え、今までのこととこれからのことを聞かされた。

 藤緒貴祐の死は、佐武朗の口から聞かされた。あの馬顔と猪首の男二人も死んだそうだ。

 そして話は十四年前にさかのぼり、なぜ父が殺されたのか、そしてなぜ母が連れ去れたのか、その理由も改めて説明された。

 藤緒貴祐の、真梨子に対する歪んだ愛情が為した犯罪だった、と。

 改めてそう聞かされても、陽乃子の心は麻痺したように動かなかったけれど。

 陽乃子の記憶が曖昧となっている、その後の経緯も説明された。

 放火された天宮家から陽乃子を救ってくれたのは晃平だったそうだ。救出された陽乃子は一命を取り留めたが、藤緒徳馬の独断で死亡診断書が捏造され、陽乃子の存在は抹消されたという。ただそれは、藤緒貴祐の魔の手から陽乃子を守るために為された苦肉の策だったのではないか、ということだ。

 一方で、母の真梨子は、貴祐によってあの場所にあった山荘に監禁拘束されていたが、ひと月も経たないうちに命を落としたそうだ。死因ははっきりとわかっていないが、衰弱か、あるいは何らかの感染症が原因かもしれないと、佐武朗は言っていた。

 真梨子の話になると、晃平の表情が険しく一変した。引き結んだ唇、小刻みに震える拳を、陽乃子はやはり半無感覚といった心地で見ていた。

 そうして事件から十四年、死亡診断書捏造に手を貸した牛久間充雄が、偶然陽乃子の存在に気づき、彼によって陽乃子の存在が藤緒貴祐の知るところとなり、貴祐は、真梨子と瓜二つに育っていた陽乃子を我が物にしようと、牛久間や部下の者を使って陽乃子を追跡した。そしてついには、津和野と手を組み陽乃子を捕獲することに成功し、あのロッジに監禁されてしまった、という経緯となる。その辺りは記憶に鮮明な部分なので、順を追って整理できたと思う。

 一昨日の広範囲にわたる地すべりで、家屋の損壊被害に遭った人や軽傷を負った人は幾人かいたそうだが、亡くなった人は藤緒貴祐とその部下二名、合計三名だけだったらしい。

「天罰が下ったのじゃ」と、弥曽介翁はどこか遠くを眺めて言っていた。

 晃平は険しい表情のまま、何も言わなかった。

 佐武朗はいつも見る不機嫌な顔だったが、一つだけ、陽乃子に奇妙なことを尋ねた。

「この人物と面識はあるか」

 見せられた携帯端末の画像にあった初老の紳士。

 その顔は覚えている。伍番街周辺を彷徨さまよっていた陽乃子に、自分の似顔絵を描いてほしいと最初に声をかけてきた人で、描いた絵と交換にお金をくれた人だ。その人のおかげで、似顔絵を描いて収入を得ることを知った。

 ただ、すでに彼の顔は記憶の引き出しに入っていたので、ずいぶん前にどこかで見かけたことがあるのだろうと思った覚えがある。

「はい」と頷いた陽乃子に、佐武朗は「そうか」と低く言っただけでそれ以上は説明しなかった。


 最後に、これからのことについて説明された。

 陽乃子の身柄は、これまで通りサブロ館が預かることになった。晃平がそうした方がいい、と勧めたのだ。彼は、弥曽介が提供する単身用のマンションに住まうらしい。

「君はこれから、新しい人生を自由に歩むんだ。いいね?」

 優しく細められた目は、少し悲しそうにも見えた。そういえば、初めて見た時はずいぶんすさんだ印象があったのだが、今は別人のような風体になっている。無精ひげは綺麗に剃られ、髪もちゃんと梳かされて、着ている服も新しそうだ。

 このまま会えなくなるのだろうか、と胸内を過った陽乃子の思いが聞こえたかのように、弥曽介がふぉっふぉと白い顎髭をうごめかした。

「晃平はわしのところで働くからの。いつでも会える。いつでも、遊びに来るとよい」

 晃平が笑って頷いて、佐武朗が呆れるように嘆息した。


 いろいろなことがわかったけれど、いろいろなことが混沌と渦を巻いて、逆に不明瞭な感じがした。そして陽乃子は、身体中の感覚神経が抜かれてしまったような心地であった。

 この街に来て事故に遭って、記憶のフラッシュバックを起こし、伯父の天宮晃平と出会って。

 記憶の中の “顔” に会いたい、会って両親のことを訊きたい、という身体の奥に生まれた熱量は、どうしてかすっかり消えてしまった。

 もしかしたら、期待していたのかもしれない。陽乃子の両親は、本当はどこかで生きているのではないかと。血と土にまみれて突っ伏した父の記憶も、炎の中から連れ去られていく母の記憶も、陽乃子が作り上げた幻想だったのではないかと。あの “顔” ――藤緒貴祐がそう教えてくれるのではないか、と。

 けれど、小さく爆ぜる記憶の断片はどれも真実の盤面にピタリとはまり、両親の死はやはり現実のものであった。この空虚は、ショックというより落胆といった方がいいのか。

 だからなのか、父と母を死に追いやった藤緒貴祐が、母の兄――陽乃子にとっては伯父に当たる人物だということも、そこまで重大事に受け止められなかった。

 それでもたった一つ、麻痺したような感覚を鈍くしつこく刺すものがある。

 陽乃子自身がこの世に存在しないことになっている、ということだ。

 佐武朗は、消された戸籍等については今後、藤緒家の方に確認した上で何らかの法的手続きを取ることになるだろう、と言っていたが、陽乃子の心が晴れることはなかった。

 “天宮陽乃子” は、もうこの世に存在しないのだ。


「わたしは……生きていてもいいのでしょうか……」

 帰りの車中、ついポツリと漏らしてしまった。脳内でぐるぐると回る写真の中の父と母。自分だけがここにいる、虚ろな違和感。

 俯いた陽乃子をちらりと見やった佐武朗は「くだらんな」と紫煙交じりに吐き出した。

「誰かに許可されなければ、お前は生きていけないのか」

 見上げた陽乃子にフンと鼻を鳴らして、佐武朗はフロントの吸い殻入れに吸いさしをねじ込む。

「少しはあいつらを見習え。誰に拒否されようとどこで阻害されようと、図太くしぶとく生きている奴らだ。好きなように、あるがままにな」

 新しい煙草に火を点けて紫煙を吐き出し、佐武朗は陽乃子に厳しい目を向けた。

「お前はどう生きたいのか、じっくりと考えてみろ」



「――ヒノコ……?」

 信孝が心配そうに覗いている。

 陽乃子は木製の写真立てを胸に抱きしめ、「あの」と声を上げた。

 皆の目が、陽乃子に集まっている。

「あの……わたしは、みなさんに、嘘をついてしまいました。わたしの名前は……天宮陽乃子ではないそうです。わたしは知らなくて」

 少し声が震えた。思いのほか、ものすごく大きな気力を使っている。

「天宮陽乃子が、本当の名前だと思っていたのですけど、その名前はもう、無いそうです。……ごめんなさい。嘘を、ついてしまって」

 写真を抱いたまま、陽乃子は頭を下げた。

 誰も何も言わない。息詰まるような沈黙。

 何人かが息を吸って――、


「――な、ナニ言ってんだいっ! いいじゃないか、天宮陽乃子で!」

 タマコがキィキィ声で叫んでズビッと鼻を啜った。

 瞳を潤ませたリリコもハスキーな声を張り上げる。

「そ、そうよ! 名乗りたい名前を使えばいいのよ! ママだって本名封印してるし! “駒田元晴” !」

「その名を出すんじゃないよッ! リリちゃんだって “峯岸利彦” だろ!」

「いやぁぁっ! やめてぇぇっ! 呪いがかかるぅぅ!」

 ギャイギャイと喚き散らす二人に苦笑して、くわえ煙草の柾紀が何でもないように言った。

「好きな名を名乗ればいいさ。俺も “柾紀” は帰化した時につけた名だ。本名を使うことはねぇな」

 信孝がポンポンと陽乃子の肩を叩く。

「ヒノコはヒノコでいいじゃん。ヒノコなんだからさ」

 鴨志田がポンポンと逆側の肩を叩いた。

「誰も陽乃子さんを嘘つきだなんて思いませんよ」


 ――と、胸に抱えた写真立てにトンと何かが押しつけられた。幸夜だ。キノコ型チョコ菓子の箱。まだたくさん入っている。

 そっぽを向いてテーブルの末席に座る幸夜。鴨志田がクスクスと笑った。

 陽乃子の胸内から喉元にかけて込み上げる不思議な感覚。

 あの時、込み上げてきた感覚と似ている。地下部屋で拘束されていた陽乃子の耳に、皆の声が入ってきた時。


「ささ! 今度こそお祝いを始めるよ! ほらみんなお座り!」

「鴨さん、濃いやつ頼む」

「喜んで」

 佐武朗がいつものようにコーヒーを頼み、鴨志田がキッチンへ向かう。

 そこへ、バイクのヘルメットを片腕にかけた亮が入ってきた。

「――ただいまー。わーお、すごいね。パーティーみたい」

「リョウちゃん! 良かったよ間に合って。手を洗ってうがいをしておいで!」

「はいはい」

 ニコニコしながら行きかけた亮は、テーブルの末席に座る幸夜の背後から覗き込んだ。

「よかったね、幸夜。陽乃子ちゃんが無事に戻ってこれて」

「は?」

 煩わしそうに目を上げる幸夜。亮は席に着こうとする陽乃子にニッコリ笑った。

「陽乃子ちゃんを助け出す時、『――何が起きても心配するな。絶対にお前をサブロ館へ連れて帰る』って言ったんでしょう? フフ、幸夜ってばオットコ前だねー」

 幸夜がすかさずギッとリリコを睨めば、リリコはすっとぼけた顔で、

「だぁって、言ってたじゃない。すっごいイケボで。ねぇ、マサキ?」

 振られた柾紀はひょいと肩をすくめる。

「俺ぁそん時、意識がなかったからなぁ。そうなのか? ノブ」

「う、うん、ええと、たぶん……あ、いや、どうだったかな……」

 振られた信孝は、幸夜の睨みを当てられしどろもどろだ。

 するとそこで、佐武朗が新聞に目を落としたまま、

「言っていたな」

 と断言し、佐武朗の前に湯気の立つコーヒーカップを置いた鴨志田も、

「所長がそう言うなら、言っていたのでしょうね」

 シレッと言う。

「そうよ、言ってたわよ」

「じゃあ、言ってたな」

 皆のニヤニヤに、さすがの幸夜もグッと詰まった。

 タマコが焼き上がったピザの皿を持ってキッチンから出てくる。

「いいじゃないか。ユキちゃんだってヒノちゃんにカッコいいところ見せたかっ――ったぁっ……!」

 タマコの額にヒットした小箱――陽乃子が持っていたキノコ型チョコ菓子だ。

「うるせーよ。今すぐタケノコ買って来い」

 ボソッと吐き出してやっぱりそっぽを向いてしまう幸夜。亮がアハハと笑った。

「出た、幸夜のわがまーま。陽乃子ちゃんはこんな子になっちゃダメだよ」

「ならないわよねー。ヒノちゃんはイイ子だもの」

 リリコが陽乃子の頭を撫でてくれる。

 笑い声と突っ込む声と、文句を言う声となだめる声、そしてまた笑う声。

 賑やかなダイニングテーブルを見渡して、陽乃子は佐武朗の言葉を思い出した。


『――お前はどう生きたいのか』

 まだわからない。生き方なんて、まだ考えられない。

 でも――

 もし、叶うなら――

 ここにいる皆のように、自由に強く――


「なりたい、です……」

 小さく呟いた声は、なぜか一同の動きを止めた。

「え」

「あ」

「お」

「あら」

 そこにいる全員が陽乃子を見ている。皆がそろってちょっと驚いた顔で。

 片肘をついたまま視線を向けた幸夜のシンメトリーな両眼がフッと細まった。


「ナンだお前、笑えんじゃん」






          ~第1部 完~

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