第13話

「……よぉ、ママさん。幸夜はどうだ?」

「マサちゃん」

 ブーツの重い足音と衣擦れと、パイプ椅子を開く音がした。

「今は眠ってるよ。リョウちゃんの話だと、血圧も脈もほぼ正常に戻ってるってさ。……マサちゃんは? 手の傷、まだ痛むかい?」

「いや、そうでもねぇよ。軽い火傷みたいなもんだ。頭の方は念のためMRIを撮りに行けって、ハゲ先生から大学病院の紹介状をもらったんだけどよ」

「行っておきなよ。強く打ったんだろ? あとでナニかあってからじゃ遅いんだからさ……こらマサちゃん! ここは禁煙だよ!」

「他に吸えるところがねぇんだよ……」

 ぼやく柾紀の声に被せて戸口のドアがスライドする音。

「――ただーいまぁ! ユキヤの具合、どう?」

 遠慮のない声量でリリコ登場。

「しぃっ! 静かにおしよ! 眠っているんだからね。……ヒノちゃんは?」

「さっき下でリョウと会って、診察室に連れて行かれちゃった。もう熱はないのに、外に出たことがバレて叱られたわ」

「言わんこっちゃない……熱が下がったからって、まだ本調子じゃないに決まってるじゃないか。あの子はずっと囚われの身だったんだよ。精神的なダメージが癒えるまでしばらくは安静にしてなきゃならないってのに、リリちゃんときたら勝手に連れ出して……」

「ちょっと買い物に出ただけじゃない。それに、ヒノちゃんが行きたいって言ったのー。あの子、生まれたての仔猫みたいに、ぴったりアタシにくっついてくるのよ? よっぽど怖い思いをしたのね……てゆーか、アタシ相当懐かれてるわよね」

 ウフフと得意げなリリコの声。「あ、あたしだって!」というタマコの声が負けじと響く。

「ここでみんなを出迎えた時、ヒノちゃんから抱きついてきたじゃないか! しばらくくっついたままだったろ? きっと、あたしと離れたことが寂しくてしょうがなかったんだよ」

「フーン。あの時はまだ熱が高かったんだもの、ママのこと、森に棲む巨大生物にでも見えたんじゃない? 『タマコ? あなたタマコっていうのね!』って、アレよ」

「誰がドングリお化けだってッ?」

「おらおら、静かにしてやれよ……」

 たしなめる柾紀の声と重なりライターの音。一方で忍び近づくヒールの音。ベッドを囲うカーテンがそろそろと開く音。ふわりと舞い込む煙草の匂い。

「こら、リリちゃん」

 タマコの叱責に構わず「あら、ホントに寝てるわ」と、覗き込まれる気配。

「……そーいえば、ユキヤがホントに眠ってるのって初めて見るかも……いっつもトコロかまわず寝てるけど、あれってホントに眠ってるわけじゃないじゃない? うっふふ……ユキヤってば、眠てる時も不機嫌そうよね。眉間にシワ寄せちゃって」

「まだ傷が痛むんだろうさ。ヒノちゃんに続いてユキちゃんまで肋骨をやっちまうとはね……こーら、そんなに覗き込むんじゃないよ……けどこうして見ると、ユキちゃんはホントにキレイな顔をしてるねぇ」

「ちょっとムカつくわよね……ねぇ、寝ているうちにメイクしてやろうかしら。きっと超絶美人に変装ばけるわよ?」

「いくらナンでも起きちまうだろ。それよりあたしにメイクをしておくれよ」

「えー、メイク道具をムダづかいしたくなーい」

「無駄ってどういうことだいッ?」

「ギャーギャー騒ぐなよ……幸夜がせっかく寝てるのに――、」

「――寝てねーよっ!」

 堪らず幸夜は身を起こして叫んだ。途端に傷が痛んでベッドに沈む。

「ヤダ、起きてたの? いつから?」

「それならそうお言いよ。水臭いね」

 呆れたようにベッド脇から見下ろすリリコとタマコ。その向こうでパイプ椅子に座って紫煙をくゆらす柾紀。

 ――三人まとめて殺意が湧く。

 いつから起きていたのか、だと? その答えは、昨晩から一睡もしていない、だ。

 幸夜とともに、ひと晩入院となった陽乃子が隣のベッドに寝ていたのだが、彼女を心配したタマコがひと晩中つき添うと言い張った。ただでさえ他人の気配があると眠れない幸夜なのに、つき添ったタマコは早々に陽乃子のベッドの裾に突っ伏し、夜が明けるまで轟々といびきをかき鳴らしていたのだから眠れるわけがない。むしろ、穏やかな寝息を立てていた陽乃子が信じられなかった。

 おまけに朝早くからリリコや亮が忙しなく病室へ出入りし始めたので結局眠れずじまい。いい加減呪い殺しても許されるだろう。


「マジでお前らうるっさい……出てけ……つーか、ここで吸ってんじゃねーよっ! ヤニくせーんだよっ!」

 喚き散らせば、柾紀はやれやれといった顔で足元に置いた空き缶に吸殻をねじ込む。

「仕方ねぇだろ? 他に吸うトコねぇんだからよ」

「ナンだいユキちゃん、やけに機嫌が悪いね」

「やーねー、イライラしちゃって。カルシウムが足りな……あ、そう言えばアタシ――、」

 リリコが言いかけた時、病室のドアが小さくノックされた。

「――失礼します……陽乃子さんと幸夜くんの具合は……おや、みなさんお揃いで。信孝くんも連れてきましたよ」

 入ってきたのは、相変わらずよれたジャケット姿の鴨志田と、シャツにチノパンを履いた信孝。珍しく、マスクもサングラスもしておらず素の顔をさらけ出している。

「おぅノブ。ちゃんと寝たか?」

 柾紀が声をかけるも、信孝は強張った顔で曖昧に頷くだけだ。

「ヒノちゃんは診察中だよ」

「そうですか。幸夜くんもだいぶ良さそうですね」

 よくねーよ、と内心ぼやく幸夜をよそに皆がベッドの周りに集まると、鴨志田は神妙な顔で革の手帳を開いた。

「新しい情報が入りましたよ」

 信孝の表情がさらに硬くなったのを、幸夜は横目に見る。

「――本日未明、山裾に近い土砂の中から、四輪駆動車とともに埋まっていた男性二名の遺体が発見され、その二時間後、山の中腹付近で崩れた家屋に埋もれていた男性一名の遺体が発見されたそうです。おそらく、藤緒貴祐氏とその部下の方たちだろうと思われます」

 唸るような吐息がどこからともなく吐き出された。

「今朝がた、帰国したばかりの藤緒徳馬社長が現地入りしたという情報も入りました。朋永弁護士も一緒でしょう。遺体が貴祐氏であると確認されれば、不二生薬品から早々に公式発表があると思います」

「そうか……」


 ――集中豪雨による地盤の緩みから広範囲に発生した土砂崩れ。

 あのあと幸夜の予感は的中し、藤緒貴祐が所有するロッジとその周囲一帯は土砂崩れに巻き込まれた。それより前に、そこから数百メートル離れた箇所で斜面崩壊が起きており、その振動による連鎖的な地すべりだろうということだ。

 幸夜たちの乗ったミニバンが山裾の県道から町中に滑り込んだ時、何台もの緊急車両とすれ違った。まさにその頃、あの私道から上方にかけての一帯が崩れたのである。幸夜たちとてギリギリだったのだ。どういうわけか引き返していった藤緒貴祐および二名の部下は、あえなく巻き込まれてしまった、ということか。

 思い詰めた顔で俯く信孝が、蚊の鳴くような声を上げる。

「ね、ねぇ……あの時、どうしてあの人は引き返し――、」

「――鴨さん、佐武朗は?」

 幸夜はわざと遮った。口を噤んだ信孝はしゅんと項垂れる。

「所長ですか? 何も連絡をもらってはいませんよ? 昨日の夜、ここで別れたあとから会っていませんし。今日はまだいらしてないんですか?」

「サブロ館でも見かけなかったわよ? まさか、依頼を受けてたりしてー」

「こんな時にかい?」


 山から撤退した幸夜たちは、そのまま高速に乗って帰ってきた。幸夜、陽乃子ともにのっぴきならない状態だったため、藤緒貴祐たちの安否を確かめる余裕がなかったのだ。

 柾紀たちは最寄りの病院へ駆けこもうかと考えたようだが、幸夜は何度も飛びそうになる意識の中、断固として拒否した。拳銃で撃たれた傷だと露見すれば医者は警察へ通報せざるを得ない。そうなれば非常に厄介なことになる。

 とはいえ、朦朧とする幸夜に意識のない陽乃子を抱えた皆は途方にくれただろう。切羽詰まったリリコが亮に連絡を取ったところ、亮はすぐさま応急処置をするべくこちらに向かってバイクで出立してくれた。途中のパーキングエリアで合流するため、わざわざ最寄りのインターチェンジでいったん降りてから上り線に乗り直すという手間をかけたらしい。

 亮が幸夜の消毒と止血を施し、陽乃子の状態を確認したあと、ミニバンと亮のバイクは連れだって高速を走り、そのまま真っ直ぐ丸宮診療所へ直行した。診療所には、連絡を受けていた佐武朗と鴨志田、タマコまでが待機しており、幸夜は運び込まれる際、佐武朗の苦々しい顔を目にしている。が、会話はまだ交わしていない。

 昨日の経緯は柾紀が佐武朗に報告してあるのだろう。加えて、陽乃子に持たせていた盗聴機能内蔵の防犯ブザーから得た音声も記録してあるので、佐武朗はすでに事態を把握済みのはずだ。

 つまるところ、あとでどれだけの叱責を喰わされるか……考えただけでもうんざりだ。

 とはいえ、信孝が渡しているはずの “ディスク” を、佐武朗がどう取り扱ったか、気になるところではあるのだが……


 ――とそこでまた、部屋のドアがノックされた。

「――失礼。うわ、みんな揃ってお見舞い? 幸夜はまだ寝て……って、起きてるね」

 濃紺色の医療着を着た亮と、その後ろから入ってきたオカッパ頭の少女。

「よぉ、嬢ちゃん。調子はどうだ? もう熱はないのか?」

 声をかけた柾紀に「はい」と見上げる陽乃子は、リリコが持ってきたのか、替えの新しい服に着替えている。

「あ、柾紀くん、煙草吸ったでしょう? ダメだよここは禁煙なんだから。――それからリリちゃん、忘れ物。あれ、幸夜に買ってきたんでしょう?」

 亮が、ベッドに面した窓ガラスを大きく開けながら陽乃子の方を指さすと、リリコはぴょこんと飛び上がった。

「そうなの。忘れてたわ。ヒノちゃんありがと」

 陽乃子が手に下げた白いビニール袋。受け取ったリリコがどさりと幸夜の目の前に置く。

「はい、ユキヤ。カルシウムよりこっちの方がいいんでしょ? アタシとヒノちゃんから、お見舞い」

 ビニール袋の中はチョコ菓子の箱が山のように入っていた。二十箱くらい。なぜか全部同じもの。

「マジか……キノコしかねー……」

「あら、それが一番好きなんじゃないの? いつもよく食べてるから。スーパーに並んでたやつ、ぜーんぶ買い占めてきたのよ? ……って、言ってるそばから食べてるじゃない」

 引きちぎる勢いで箱を開けて、キノコ型チョコレートをいくつかまとめて口に入れると、甘いチョコレートと香ばしいビスケットが絡み合い口の中で溶けていく。

 久しぶりだ。染み入る。美味うまい。まさに値千薬。イライラも傷の痛みも寝不足も和らいでいく。

 亮が溜息交じりに釘を刺した。

「言っておくけど、それ一気に全部食べちゃダメだよ。仮にもなんだからを食べてもらわないと」

「ここのメシ、クソまずいし」

「幸夜くん……失礼ですよ」

 鴨志田が小さく突っ込んだ。

 皆が好き勝手に喋り出す中、キノコ娘と視線がかち合う。ジーッとこちらを見つめる丸い大きな目。口が少し開いている。

 ――ナンだ欲しいのかやらねーよ? 幸夜の腕が無意識にチョコ菓子の詰まったビニール袋を引き寄せる。


「――騒がしいな」

 不機嫌そうな低声が響いて、新たな訪問者が入ってきた。ビシッと三つ揃えスーツを着た佐武朗だ。

「噂をすれば、ですね。……おや、ご隠居と天宮さんもご一緒でしたか」

 その後ろから続くのは、樺茶色の羽織を着た権頭弥曽介と小ざっぱりとしたワイシャツにスラックス姿の天宮晃平。ベッドの周りに集まっていた皆が自然と大きく割れて三名を迎え入れる。佐武朗の懐から家紋入りの印籠が出てもおかしくない。

「どうじゃ幸夜は……おお、そなたが」

 ベッドの裾に佇む陽乃子を認めて、弥曽介が目を細めた。

「ああ、ご隠居は初めてでしたね。天宮陽乃子さんです。陽乃子さん、こちらは権頭弥曽介さんです」

 所長のお父様ですよ、と鴨志田が紹介すると、陽乃子は丸い目を二度瞬いてひたすら弥曽介を凝視した。おそらく二人の間に血のつながりがないとわかり、困惑しているのだろう。

 少女の不躾な視線を、弥曽介は嬉しそうに受け止め「無事で良かった。良かった」と笑っている。

 一方、眉間に深いしわを寄せた佐武朗は、ベッドの上でチョコ菓子をむさぼる幸夜を見下ろした。

 何か言いたげに口を開きかけた時――、


「――ナンじゃあ、この人だかりは……煙草吸っとるのは誰だっ! 関係ないヤツはとっとと出て行け!」

 怒号が聞こえて、診療所の院長、禿頭の丸宮医師がずかずかと入ってきた。ベッドの周りに群がっていた数名が慌ててその場から離れる。

「――ノブ」

 鴨志田に促されて出て行こうとする信孝を呼び止め、寄ってきた信孝の耳もとに顔を寄せた。

「藤緒貴祐の携帯、着信履歴を調べろ。――昨日の全部だ」

「う、うん、わかった」

 大きく頷いた信孝は、皆のあとを追って病室を出て行った。残ったのは丸宮医師と亮の他、佐武朗と弥曽介に天宮晃平である。

 病室のドアが閉まったのを苦々しい顔で見送りつつ丸宮医師は、

「あの娘は連れて帰っていいぞ。バイタルは正常、血液検査も問題なし。ついでに言うと肋骨の接合も良好だ。問題なのは――」 

 と荒々しく鼻を鳴らして、二箱目のキノコ型チョコ菓子を頬張る幸夜を見下ろした。

「射創箇所は左脇下約五センチ、弾丸が掠る擦過射創だが、撃たれた時の状況がいまいち解せん。手を挙げろ、と脅された上で撃たれたのか? それにしては急所から大きく外れとる。あるいは撃たれる瞬間に大きく万歳でもしたか。人間は普通、身の危険を感じた時、無意識に脇を閉めるもんだがな」

 ぎろりと睨み上げられて、佐武朗は、俺に訊くなと言わんばかりに眉根を寄せる。

「創傷の具合は、弾丸による裂創と第二肋骨損傷――亀裂骨折だな。通常とは異なり亀裂部位は広範囲に及ぶ。弾丸の軌道に沿って肋骨に強い衝撃を受けたためだろう。直接骨に触れてはおらんが、それほど弾丸の威力が膨大だったということだ。裂創は十二センチの縫合。亮の応急処置のおかげで特に化膿は見られんかったが、一応化膿止めは出してある」

「昨日、迎えに行った時点では頻脈と血圧の低下が見られましたが、今は安定しています。出血したあと強い雨に長く打たれたと言っていましたから、そのせいかもしれませんね。外傷以外は問題ないでしょう。……ちょっと、寝不足みたいですけれど」

 窓際に立つ亮が苦笑交じりに補足説明。チョコ菓子にりつかれた幸夜を、弥曽介翁が呆れたように見下ろした。

「こやつ、甘いものばかり食うておるが、糖尿の傾向はないのかえ?」

「ええ。本当に不思議なんですが、血糖値の他、中性脂肪やコレステロール値なども標準値でした。もともと低血圧の傾向があるくらいで、おおむね健康体です」

「まっこと摩訶不思議な身体じゃの。羨ましいかぎりじゃて」

「うるせーよ」

 言い返しながら、幸夜は二箱目のキノコを空にした。

「まったく……この歳になって射創を治療させられるとはな。拳銃で撃たれたと突然押しかけてきて細かい事情は訊くなと言う……警察にも知らせてはいかんのだろう?」

「すまんの。すべてはわしが責任を取るのでな。そうじゃ、あとで迷惑料も支払おうかの」

 白いヤギ髭をうごめかす弥曽介に、丸宮医師は「結構ですよ。明日には退院させますからな」と面倒そうに手を振って幸夜へ向いた。

「――傷の消毒は毎日、抜糸は二週間後、コルセット装着は最低でも三か月。わかったな。――亮、わしは帰るぞ。あとはやっとけ」

「はいはい」

 ブツブツと文句を垂れながら出て行った丸宮医師に続き、幸夜が散らかしたチョコ菓子の空き箱を片付けた亮が退室すると、待っていましたとばかりに佐武朗が幸夜を睥睨した。

「避けきれると高をくくっているからこうなるんだ。これに懲りて、己の能力を過信しないことだな」

 高圧的な声音に、幸夜はついムッとしつつ三箱目を開ける。

 もともと、相手が拳銃を所持していることは明白であり、対峙すれば発砲してくることは佐武朗も想定していたはずだ。そうならぬ前に陽乃子を連れ出せ、というのが佐武朗の策であったが、藤緒貴祐が戻ってきてしまったのだから仕方がない。

 万が一を想定して、出発前リリコに頼んで特殊メイクで使うフェイクの血糊を用意させていた。もしも発砲してきた場合、撃たれたと見せかけ相手を油断させて、凶器を封じる隙を作るためだ。

 それゆえ、幸夜としてはあまり大きなアクションで避けたくなく、身体をわずかによじり腕を少し上げて弾丸を逸らすつもりだったのだが……

「あと三メートル離れていたら避けきれた」

 屋内は狭すぎた。天気が悪く室内が薄暗かったのも目測を誤った原因の一つだ。

 ふて腐れる幸夜に、弥曽介が「これ」とたしなめる。老翁は天宮晃平が持ってきたパイプ椅子に腰かけながら、

「そういう問題ではない。これ以上心配をかけるなと、言うておる」

「余計な厄介事を増やしてくれるな、と言っているんですよ」

 容赦なく訂正する佐武朗は、あくまでも幸夜を責めたいらしい。

「俺は、あの娘を連れ戻せと言ったのであって、一戦交えろとは言っていない。そうなるように仕向けたのは愚行だったとしか言いようがない」

「不可抗力に臨機応変ってやつだよ。なぁ、天宮さん」

 幸夜が振ると、天宮晃平は苦笑して頷く。

「ああ。君は本当に頭も勘もいいな。刑事に向いているかもしれない」

「ほほぅ、まことか」

 愉快そうに瞳を輝かせた老翁。幸夜は「じょーだん」と吐き捨てて、キノコを口に放り込んだ。

「不可抗力といえども、最初からそのつもりだったのじゃろう?」

 弥曽介は真鍮の杖に両手を置いて目を細める。

「たとえ首尾よく藤緒貴祐の目を欺き、あの子を連れて帰ってくることに成功したとしても、貴祐の妄執を止めることはできぬ。あの子は母君にそっくりじゃ。それゆえに、またさらわれることになるじゃろう。なれど、十四年前の犯罪に関する何らかの証拠が得られれば、それは不二生薬品現社長である藤緒徳馬に対して、実に有効な切り札となり得る。藤緒家による不二生薬品の実権掌握を第一に考える藤緒徳馬なら、事が公になるのは何としても避けようとするはずじゃからの。貴祐の暴挙を止められる唯一は、父である徳馬しかおらん。……もとより幸夜は、藤緒徳馬と取引できる切り札を手に入れるつもりだったのじゃろう」


 幸夜は何も言わず、キノコ型チョコ菓子を噛み砕いた。

 弥曽介の言う通り、たしかに藤緒貴祐の自白の一つでも得られれば、いくらかの防御壁になるだろうとは考えていた。この先陽乃子が狙われさらわれるリスクを背負うなら、ある程度の抑止力は必要だろうと。だから佐武朗には内緒で、リリコや柾紀にそれ相応の準備させたのだ。

 けれど今思うと、実際にあのロッジへ乗り込んでから、幸夜の重点が少し変わったような気がする。

 

『――どうしても、訊きたいことが、あったんです……』


 それが陽乃子の精一杯――そう思うと、やりきれなかった。

 狭く囲われた世界で生きてきた陽乃子の精神領域には復讐という概念がなく、憎悪や怨恨の発動システム自体が存在しないのかもしれない。

 それでも、知りたいと願ったのは陽乃子の意志だ。だったら知った方がいい。どんなに酷な真実でも。訳のわからないまま壊され奪われ、挙句に母親と同じ末路を辿るなど、アンフェアにもほどがあるだろう。

 そうして実行された撹乱工作。あれはもともと練っていた策である。上手くいく確率は半々といったところだったが、結果としてそれは藤緒貴祐を追い詰めることに成功した。

 あらかじめ閉じたカーテンの中に身を潜めていたのは、“真梨子” に変装ばけたリリコと “淳平” に変装ばけた天宮晃平である。幸夜の合図で彼らが姿を現した時、居間のソファの陰に隠れていた信孝が、二人に向かってハンディサイズのプロジェクターを通した例の写真画像を当てた。簡易的なプロジェクションマッピング、というやつだ。陽乃子が間に入ることは予期していなかったが、それも結果的にはいい演出となった。

 薄暗い室内、事前に突きつけられた写真、追い詰められた心情……それらが上手く相乗効果となって、藤緒貴祐の目には現実と虚構がごちゃ混ぜとなった幻像が映っていたに違いない。あの時点ですでに、陽乃子と真梨子の区別もついていなかったように思える。

 果たして彼は、むしろ誇らしげに罪を自白した。すべて記録してあるそれは、法律的に有効な証拠にはならないかもしれないが、藤緒徳馬とは十分取引できるはずだ。

 ただし、陽乃子が納得したかどうか……それはわからない。


「薮蛇だな。あの娘を連れ戻すだけなら、朋永弁護士と成した取引で十分だったんだ。余計な銃撃戦を繰り広げた上に余計な工作で追い詰め、挙句にあの場にいたお前たちだけが助かったという現状がある。うちの事務所もろとも、お前たち全員叩き潰されてもおかしくない」

「オレたちが死んでればよかったっつーのかよ」

 剣呑と言い返す幸夜に、弥曽介がふぉっふぉと肩を揺らした。

「今のは佐武朗が悪い。幸夜はようやった。他の皆もじゃ。狂った鬼の手からひとりの少女を救い出し、皆が無事に帰ってきた。立派な所業じゃ。何ひとつ恥じることはない」

「人道で渡り合える相手じゃないんですよ」

 忌々しそうに言い捨てた佐武朗はベッドを回って開け放った窓際に移動した。胸内から取り出したのは当然、煙草の箱。

「藤緒徳馬社長と朋永弁護士が現地でどう説明をするのかわからんが、遺体が発見されたということは、宇辺野が所持していたグロック、発砲した大量の弾丸に薬莢……それらも一緒に掘り起こされていると見て間違いない」

「穴だらけのベンツもな」

 つけ足してやれば、佐武朗は苦い顔で煙草に火を点けた。

「藤緒徳馬の気分次第で、うちに捜査の手が及ぶ可能性もある。そうなれば由々しき事態だ」

「そーならないように、あのディスクを使ったんだろ? 中身は確認したのか?」

 それまで黙って話を聞いていた天宮晃平の表情が苦悶に歪んだ。窓の外に向かって煙を吐き出した佐武朗がちらりと幸夜を見る。

「お前は見たのか?」

「まさか。そんな余裕ねーよ。信孝にも開かせていない」


 あのロッジから脱出する間際、居間の暖炉とソファの間に屈みこんで何かをしていた信孝。幸夜に呼ばれて身を起こした信孝は、慌てて自分のリュックに何かを突っ込んだ。

 その一瞬に幸夜の眼が捉えたのは、透明の薄いプラスティックケースに入った白いディスク。盤面に “MARIKO” という手書きの文字があった。

 おそらく信孝は退却する寸前、置きっぱなしになっていた藤緒貴祐の鞄に目が留まり、停電になる直前に盗聴器から聞こえてきた彼の言葉を思い出したのだろう。


『――元気になったら君にいいものを見せてあげよう。私が記録した真梨子の最後の一枚なんだが……』

『――そうか、鞄は上に置きっぱなしだったな。誰にも盗られないよう、常に持ち歩いているんだよ。それを見せてあげよう。きっと君も喜ぶはずだ。真梨子の――、』


 ――写真のような画像とも考えられるが、信孝ならまず、記録用ディスクと考えるだろう。事実、鞄の中には “MARIKO” と書かれたデータディスクがあったのだ。

 単なる好奇心か、あるいはある種の義侠心か、どさくさに紛れる形でつい衝動的に持ってきてしまった信孝だが、藤緒貴祐が私道を引き返していったことで、罪の意識にさいなまれたようだ。

 ――まさかあの人は、ディスクを取りに戻ったのでは……

 幸夜に言わせれば、信孝が気に病む要素は一つもない。

 信孝がディスクを持ってこなくても、どのみち藤緒貴祐は引き返していった……幸夜はそう考えている。


「見なくて正解だよ……あれは、人間のすることじゃない」

 天宮晃平が絞り出すように吐き出し、弥曽介は痛ましそうに目を伏せた。幸夜の視線を受けて佐武朗が説明する。

「昨日、信孝に託されたあと俺が最初に確認して、そのあと彼と一緒に確認した。見せる前に『酷い内容だがそれでもいいか』と断ったうえでだ」 

 携帯用灰皿に煙草を弾き、紫煙を吐き出した佐武朗は淡々と語った。

「データにあったのはいくつかの動画だった。家庭用のハンディか何かで撮ったのだろうな。画面下の日付からして、天宮真梨子が山荘へ連れ込まれてから三週間ほど経った頃の記録だ。ベッドに拘束された彼女に意識はなく、痩せ細った身体には複数の痣が見えた。専門家に見せなければ確かなことは言えんが……暴力による痣というより、

 晃平はますますギリと歯を食いしばり、白い眉をしかめた弥曽介はゆるゆると首を振り続ける。

「動画の中の藤緒貴祐を見る限り、奴が彼女の死を認識していたかどうかは疑わしい。一貫して常軌を逸した言動が見受けられた」

「あの男は地獄に落ちるべきだ。あんなむごい……真梨ちゃんは死んでからもなお……」

 爪が食い込むほど拳に憤りを込める晃平。聞かずともその先は想像がつく。

「狂った男の所業がいつ誰に発見されたかはわからんが、少なくとも藤緒貴祐が自分一人で天宮真梨子の遺体を始末したとは考えにくい。すなわち、誰か他の人間があと始末をしたと考えるべきだろう」

「父親の藤緒徳馬か……」 

 呟いた弥曽介に、佐武朗は重く頷いた。

「藤緒貴祐が不二生薬品の副社長に就任する以前、体調が思わしくない時期が続いたと言っていましたよね。それで父の徳馬が息子の治療に苦心していたと。ちょうど時期は重なります」

「陰でそのような蛮行をしでかしておったとはのぉ……」


 知らずうち、チョコ菓子を食べる手が止まっていた。

 夫をき殺され、失意のうちに娘とも引き離され、山奥に監禁拘束された天宮真梨子。彼女がその後どうなったのか……予想はしていたが、その想像が具体的になるのはかなり気分が悪い。

 二本目に火を点けて、佐武朗は続けた。

「朋永弁護士には通達済みだ。あの娘の無事を報告し、ディスクの発見をほのめかすと『まだ残っていましたか』と返された。『すべて処分したと思っていましたが』とな。平然としたもんだ。俺が思うに、朋永弁護士も諸々のあと始末に奔走したとみて間違いない」

 幸夜はキノコを三個、口に入れた。

「で? どうやって脅した?」

「 “交渉” と言え。ひとまず、うちとの関わりを明かせばディスクにあるデータも明るみに出さざるを得ない、とは言っておいた。これで銃撃戦の残骸は上手く取り繕ってくれるだろう」

 キノコを咀嚼しながら、だったらオレを責めるなよ、と思う。

「不当にかけられた容疑についてはどうじゃ?」

 弥曽介が、負のオーラを漂わせる晃平を見て言えば、佐武朗は冷めた目で「それも交渉済みですよ」と紫煙を吐き出した。

「それについてまだ返答はないが、じきにそうなるだろう。もともとろくに捜査されていなかったんだからな。そのまま迷宮入りになる可能性が高い。ただ、冤罪を公表するとは思えんが」

「それは、いいんだ」

 晃平はぎらつく双眸を宙に据えて、低く言う。

「俺はただ、逃げも隠れもしない普通の生活が送りたいだけだ。指名手配犯のリストから名前を消してくれれば、それでいい。でも――藤緒の人間を許すことはできない」

 抑えきれない憤りが籠もる声音。弥曽介が息を吐いて白いヤギ髭を撫でつける。

「難しいところじゃの。冤罪を立証し真犯人を挙げれば、間違いなくあの子に累が及ぶじゃろう……死んだはずの少女が生きていたと騒がれ、好奇の目にさらされるやもしれん。すべてを明るみにすれば、あの子が母の最期を知りさらに胸を痛めることとなる……難しいところよのぉ」

 老翁の言うことは百も承知なのだろう、葛藤が黒炎となって晃平の身を焦がしているように思えた。

 しばらく誰も口を開かない中、幸夜は三箱目を空にして、四箱目を開けながら晃平を見上げる。

「で、これから天宮さんはどーすんの? 働くところとか」

 晃平は夢から覚めたように何度か瞬いた。

「さてどうするか……まだ何も決めていないんだ。突然暗闇から抜け出てしまって眼がくらんでいる……ってところかな」

「刑事に戻りたいとか、思わねーんだ」

「戻れることになったとしても……戻らないよ」

 削げた頬、深く刻まれたしわ……たとえその身が自由となっても、十四年にわたる逃亡生活で負った重苦はそう簡単に払拭できるものではないだろう。

「捨てる神あれば拾う神あり、じゃぞ? サブロ探偵事務所はどうじゃな? 刑事時代の経験値は重宝すると思うがの」

 楽し気に口を挟んだ老翁。佐武朗が「言うと思いましたよ」と低い声で呟く。

 晃平はだいぶ小奇麗になった頭髪を掻いて、弥曽介を見下ろした。

「それも含めて、陽乃子を引き取る気はないか、と権頭さんから話をいただいたんですよ。陽乃子の近親者は藤緒徳馬以外に俺だけですからね。陽乃子と一緒に暮らしたいのなら、藤緒の方に話をつけるつもりだ、就職先もいくつか紹介できるだろう、と」

「ほぅ。で? どうする」

「働き先は選り好みできる立場じゃないんで、働かせていただけるならどこでも。陽乃子のことは……あの子の意志を尊重しようと思います」

 生来の生真面目さを滲ませて晃平は答える。佐武朗は携帯灰皿に吸殻を押しつけた。

「あとで話をしてみるんだな。二人きりでの話し合いをお勧めする」

 同感、と幸夜は声に出さず呟いた。少なくとも、タマコとリリコがいないところで話した方がいい。

 携帯灰皿を胸内にしまった佐武朗は、顔をしかめたまま窓から離れた。

「明日は自力で帰って来い。退院の手続きも自分でしろ」

 素っ気なく言い捨てて佐武朗が背を向ける。弥曽介翁もよっこらせと立ち上がり、晃平がパイプ椅子を折り畳む中、幸夜は「佐武朗」と引き止めた。

「あの弁護士……気をつけとけよ」

 振り返った偉丈夫が見せる、不敵な冷笑。

「お前に言われなくてもわかっている」


 誰もいなくなった病室。開け放った窓から煙草の残り香が舞い込み、見える空は昨日と打って変わり、目に痛いほど青い。

 チョコ菓子の箱とビニール袋を押しやり、幸夜はベッドの上に横たわった。ようやく眠れるチャンスなのに、すっかり眼は冴えている。

 結局、藤緒貴祐は犯した罪を何ひとつ償うことなく死んでしまった。 “死に逃げ” というやつだ。だが、もしかしたらこれでよかったのかもしれない、と片隅で思う自分がいた。

 どのみち、どんな結末を迎えても被害者が救われることはないのだ。

 もし仮に、藤緒貴祐が正しい段階を踏んで正しく裁かれたとしても、壊されたものや奪われたものは帰ってこない。あの男が土下座して謝ったとしても一生をかけて罪を償ったとしても、たとえこちらがあの男を同じ目に遭わせてやったとしても、何ひとつ、もとには戻らない。

 残された者はずっと、失って開いた虚ろな穴に流れ込んだ果てのない重苦を抱えながら生きていくしかないのだ。それならいっそのこと、憎悪と怨恨の対象がこの世から消えて無くなってしまえば、多少は踏ん切りがつくのじゃないだろうか。

 のうのうと生きている仇をふとした瞬間に思い出し、どうしてアイツは生きているのか、なぜアイツは生かされているのだと、無意味な自問自答を繰り返さなくていいのではないか。


 あのキノコ娘ならどう考えるのだろう……と、幸夜はぼんやり思った。

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