12
〝寝坊してない? 大丈夫?〟
〝今起きてたら、寝坊決定してるからね
時計のアラーム役、失格〟
〝起こしてなんて言われてない!〟
〝そっちこそお弁当大丈夫なの?
お昼なしとかほんとに嫌だからね〟
〝任せて!
絶対びっくりするから〟
〝ちなみにハルの仕事は何割?〟
〝3割
ごめんなさい2割です
だって、だって失敗出来ないし〟
〝まぁ楽しみにはしてるから
色々準備あるから、先に行ってる〟
〝わかった
がんばってね!〟
〝何度も言ってるけど合同練習みたいなもんだからね
そんな意気込んで応援されても困るんだけど〟
〝わかってるけど、応援したいじゃない〟
〝あっちでは気持ちだけにしといてね
体育の時みたいに声上げられたりしたら、恥ずか死ぬから〟
〝それは困るから、我慢します〟
貸し切りの競技場へ向かう快速の窓からは色んな景色が流れていく。ちょっと薄汚れたビニールハウス、大きいなにかの工場、踏切で立ち止まった赤い軽自動車。衣服が干してある生活感に溢れたベランダ、歩道を走る子供たち。走るよりも速く、あっという間に遠ざかっていく。
隣の車両には陸上部のみんなが座っていた。同じ時間に集合なんだから、当たり前か。
〝ねえ、ハル〟
〝なぁに?〟
〝勇気をちょうだい〟
〝勇気?〟
〝うん、敵を倒すための勇気が欲しい〟
目を瞑って、両手でスマートフォンを握り締めた。稼働し続けたことで纏ったその温かみを感じる。大人たちが眠るように座りこけている中で、じっと手の震えを待っている。
きた。
〝よくわかんないけど、がんばれ!!〟
いつもとは違う更衣室。白を基調にした清潔感のある部屋の中は合同練習という肩書きのせいか緊張の欠片もなく、はしゃぐような声と汚れた気怠さが満ちていた。着替えている部員たちはもう終わった後にどこで打ち上げをするかの相談を始めている。
「ねえ、あの噂ほんとなの? いい加減教えてよ」
長距離の時本さんがからかうような声で、いつもと同じ質問を投げかけてくる。お喋り好きで、噂好きの彼女は私と顔を合わせる度に気安く笑みを向けてくる。いつもはその特徴的な高い声でキンキンするから、ろくに聞かずに耳を塞いでしまっていた。改めて聞くと、思ったより悪意がないことに驚く。周りのくすくす笑いも、一番は興味で、嘲りは三番くらいだった。もしかすると、私の悪口も同じだったのかもしれない。みんな退屈すぎて、悪ぶっているだけ。トイレで水をかけられたりもしてないしね。
「椎葉さん来てたよね。やっぱり、」
「うん。付き合ってるよ」
ぴたっと、音が止まった。あんまりに静かになりすぎて、音が出るスピーカーに繋がるコードかなにかを引っこ抜いてしまったのかと思った。でも私の投げた言葉はそのまま転がり落ちて、意外と無機質に響いた。
「私がキスして、付き合うことになった。ずっと好きだった。寝たよ。抱いたし、抱かれた。二人で、イった。他に質問ある?」
一気に捲し立てた私を捉える視線からは怯えが見て取れた。信じられないものを見るような目。それはちょっと癖になりそうなくらい小気味が良かった。
なんだ、と思った。
こんなものに私は怯えていたのか。
黙りこくる群れには目もくれず、半裸のまま、構わずシャツを引っ掴んで部屋を出た。男子に見られたって良いと思った。扉を乱暴に閉めすぎて、多分私が一番驚いた。
シャツに頭を通しながら競技場までの通路を歩く。幸いだったのか、人には出会わずに袖を通し終えたところで辿り着いた。がらんとした観客席に囲まれた赤茶色っぽい合成ゴムのトラックは、見慣れなくてなんだかふわふわした。いつもと違うスパイクのピンが自らの居場所に着いた途端、偉そうに主張を始めた。足取りもちょっと浮つくから、屈伸しながら感覚を確かめる。すると後ろから足音が迫るように響いてきた。
「サキ」
道具の準備やらなにやらでさっき部室にはいなかった、河合さん。
今日のアイラインの出来はなかなか。ちょっと派手だけれど、小さめの瞳を上手くカバーしていた。もしかするとマネージャーの彼女だけは今日の合同練習に気合いを入れていたのかもしれない。
そんな真面目な瞳にじっと見つめられたものだから、不真面目な戦いを終えたばかりの私はちょっと困ってしまった。真面目さを装った会話を投げ、伺う。
「始まるまであとどれくらい?」
「……ひとつ言っときたいんだけどさ」
「うん」
「私、治んなかったら良かったとか思ってないからね。あれは、その、流れで中にいただけでさ」
思わず、笑ってしまった。声を上げて、お腹を押さえて。その声に反応してか、奥の方にいた別の学校の誰かの顔が上がる。河合さんはそれをちらちらと気にしつつも、瞳から怪訝そうな視線をこちらへ向けていた。
「え、なに? そんな笑うとこ?」
「ごめんごめん、いや、河合さん、いい子だなーって」
「それ、良い子のラインすごい低くない?」
「ほんとほんと。ハルがいなかったら好きになってたかも」
「……は。なに私、謎にふられた?」
「のろけだから、気にしないで」
「それもどうなの? というか、さらっと言ったけど、やっぱ噂通りだったんだ。私の心配、返して欲しいんだけど」
「心配って?」
私が聞き返すと、ぐ、と目の前の喉が唸った。
一瞬だけ私のことを心配してくれたのかとも思ったけれど、そこまでの好感度はなかったはずだ。苦そうな表情をどうにか飲み込んだ河合さんは一度目を閉じて息を吸い込むと、そうして私にだけ聴こえる音量で囁いた。
「……瀬戸くん」
「ん?」
「紹介、してよ」
弱気な羞恥に満ちた意外な言葉に、私は発する言葉を探し直す羽目になった。
耳まで真っ赤にして、でも口元だけは手の甲で隠して、私の反応を待っている。肩が落ち着きなく揺れる。その瞬間だけは化粧の下の、彼女の素顔が見えた気がした。優しげな眉に、端の尖っていないつぶらな瞳。そして、素朴に赤らむ頬。
「え、なに、ほんとにそういうやつ?」
「なに、そういうやつって。悪い?!」
「いや、」
「よく挨拶してるし、この前キャッチボールの約束してるの見たし! 仲良いんでしょ!」
気が付けば声量はどんどん上がって、普通に喋っているのとほとんど変わらなくなっていた。一気に言葉を吐き出した河合さんはずっと余裕なく指先を遊ばせている。ジャージの裾を巻き取ったり、顔周りの髪を摘んだり。
教室で私に向けられた視線は正しく敵意だった。それに安心する。無理もない。むしろ私も感じたことのあるあの激情をあそこまで丸く収めた河合さんはすごいと思った。
それに。同時にみんな冷静じゃいられなくなるのが分かって、なんだか嬉しかった。
「良いって言えるのかな?」
「少なくとも、ずっと見てるだけの私よりは良いって。それとなくでいいからさ、取り持ってよ。こちとら中学からずっと好きなんだから」
「うわ、純愛」
「うるさい。せっかく、せっかく同じクラスになったのに全然近づけんくてさ……けっこう必死なんだから」
野球部のマネージャーになれば良かったのに、とか、同じクラスなんだから私を利用しなくても、なんていう文句はいくらでも出て来るけれど、あまり人のことは言えないから黙っておくことにした。そういう最短ルートで辿り着けるなら、誰も恋なんて面倒くさい過程を取らないだろうから。
「一言、言っていい?」
「ひとこと?」
「あいつ多分、性欲すごいよ」
無言で、叩かれた。背中を、それも結構な力で。その力があればいつも用意しているハードルを一つくらい多く持てそうなのに。そう思いながら、堪えきれない笑い声を上げる私の背中にもう一度、声がかかる。
「サキ」
「今度はなに?」
「……あんた、変わったね」
初めて言われた。
でも、咄嗟に答えられた。
「ちょっとだけ!」
髪の色も、輪に入れない生き方も、幼稚さだって変わってない。私自身の根本はなにも変わってないのだ。
変わったとしたらそれは、少し甘え方を知っただけ。私の一歩の成果は、それだけ。後は全部、彼女が私に与えてくれたから。
ずっと、あなたに燃えるような恋をしていた。
その裏で育った愛が疲れた心と一緒に救いを求めて、くっついて。そうして、ひとつのカタチになる。その歪にも思えるカタチに寄り添ってくれる優しさに、撫でてくれる温かさに、私はどうしようもなく魅了された。
私はあなたの青春の中で、『愛』を知った。
身体の熱を冷ますように、バックスタンド下の陰に逃げ込んだ。こんな日に限って、また夏を思い出したような天気が戻ってきている。本当に、地球が心配。でも今日は日差しだけじゃなかった。陽の光を浴びたゴムのトラックはお好み焼きの鉄板のようで、その上を駆け転がされた私はすっかり蒸し上がってしまっていた。
「負けちゃったね」
野球のベンチのようになっている空間の一番奥にだらしなく寝そべる私に澄んだ声が降りかかる。目に乗せたタオルで顔は見えないけれど、気配ですぐに分かった。
「ハルが相手のこと呪ってくれないから」
「えー」
そう、負けた。
テスト後すぐの、勘が戻らない日程。病み上がり。そんなありきたりな言い訳のしようもないくらい、完膚なきまでに負けた。
間延びした呆れの後、近付く音。タオルを外すとハルが隣に座り込んでいた。私はそのまま黙って、窮屈な天井を仰ぐ。コンクリートが剥き出しの天井は重苦しく、優しさの欠片もない。
「でもかっこ良かったよ。いつもより速く見えた」
「そんなの、ゴムのトラックだと速くなるからでしょ」
「そうなの?」
「そう、短距離だと明らかに差が出るよ」
前に五つ背中があった、13.88秒。
それが、今の私のすべて。
「へー。あ、飲み物いる?」
自慢の相槌はどうした。そう思ったけれど、まだ熱は冷めてくれそうになくて脱力したまま届ける気のないような声で答える。
「ものによる、かな」
「ポカリか、緑茶、あとお水」
「ポカリで。というか、持ちすぎ」
「お茶は冷たいのと、あったかいのがありますけど」
メインスタンドからは離れてわざわざ人のいない反対側まで歩いたから、余計な雑音もない。いるのは隣で段差に腰掛けているハルだけ。タオルを外すと緩く細まった黒の瞳がじっと、私を覗いていた。
「ねえ、」
「……なに」
「また、応援来ても良い?」
「またって、次は大会だよ」
「うん」
「絶対、負けるよ」
「うん」
「きっと、ぼろぼろ」
きっとそういうことを考えてしまう時点でもう、私は陸上に向いてない。色んなものから逃げるために、幼稚な私が用意した逃げ道が陸上だった。
「……やだ」
「どうして?」
だから、もういいんだ。
「今日終わったら、やめようと思ってたし」
「そうなの?」
「そうだよ。……ハルと、一緒にいたいから」
勉強もしなきゃ。
そんな、私の決意が半分くらいは混じった台詞も分かった上で、ハルは私をまっすぐ捉えてくる。羞恥と、なかなか折れてくれないハルへの対応に困ってしまう。
「やめないで」
「なんで、もう走る理由なんて」
「じゃあ、私のために走って。もっと走るとこ見せて」
「……なに、それ」
私はハルにやめてしまえと言ったのに、やめないで、なんて。
可笑しい。
ハルは誤魔化す私を逃さないと言う風に、投げ出した手にそっと指を絡めてきた。どうしようもなく嬉しくて、泣きそうになるから止めて欲しい。止めないで欲しい。
「私ね、ひどい子かもしれない。サクちゃんの負けてるとこでもいいから見たいの」
遠くから誰かの笑い声が微かに届いて、それが逆に私たちの近さを感じさせる。身体は少し冷えて、でも心だけは早打っていて、そのバランスの悪さは居心地が悪い。どちらかに寄りたい。冷え切るか、熱く、燃え上がりたい。
「ねぇ、ハル。名前、呼んで」
「……サクちゃん」
「もっかい。そしたら、頑張れる気がするから」
人目のない、椅子の影。色香を混ぜた吐息を吐き合う。そしてちょっとかさついた、私の指先。その宛先は自らのシャツの端に伸びて、わざとらしく肌をちらつかせる。案の定、熱い視線を飛ばしてくれる、ハルの瞳。こくり、と息を飲む音が聴こえた。
「……サク」
「いいの? 呼んじゃって」
「え、」
「散々に負けちゃった後だし、我慢出来そうにないなって。多分次呼ばれたら襲っちゃうと思う。少なくとも、キスはする」
「呼んだあとに聞くのは、ずるいよ」
河合さんに、ちょっとだけと私は答えた。
ほら、変わってない。目の前の愛が失くなってしまえば、そう考えるのは怖いし、もしそうなればきっと虚無感で倒れ込む。困ったハルだって大好物。
「いいの?」
「……いいよ。だって、私は貴女に恋しちゃってるもん」
「なに、その言い方」
「だって、サクって呼んだら襲われちゃうし」
「あ、呼んだ」
「え、ぁっ、待って! 今のなし!!」
この青春を続けたい。先へ進んで左の薬指に枷を嵌め合うような関係にもなりたい。それでもきっと、何処までいっても私は変わらないまま狭間にいて、面倒くさいまま。
でも、ひとつだけ分かることがある。それは船にとっての羅針盤だったり、百メートルのゴールテープのような、自信を持って叫べる、ある種の指針。
それはココナツの匂い。それは少し跳ねた黒髪。それは私の視線を受け止める、極細アイライン。手のひらが感じる体温。脈打つ鼓動。誘う唇。目が覚めた時に感じる生命の息吹。私を鳴らしてくれる、指先。辞書の、赤色の付箋が示す言の葉。
愛。
それは、相手を愛しいと思う心。お互いに相手を慕い、大切に思う気持ち。
だから私の愛は、ハルへ。漏れ出した一粒ですら、私たちを繋げていた感情を余さず形にする。いつでも言葉を交わせるデジタル文字すら用いて、彼女へ届ける。そうすれば、私も満たしてもらえるから。そうして与えてもらった愛で、生まれた不安さえ端から消えていくに違いないから。
「ハル」
「……サク」
私たちはお互いを馴染ませるように呼び合って、そうして。
深く、触れ合った。
13.88秒の春 つぶら杏 @tubura_kyou01
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