11
〝おはよ〟
〝サクちゃんのが先に起きるなんて、珍しいね〟
〝別に私朝苦手なわけじゃないし〟
〝でも起きるのいつもぎりぎりじゃない?〟
〝できる限り直前まで寝てたくない?〟
〝分かるけど、色々準備とかあるじゃない〟
〝しなくていいよ〟
〝しなかったら私、頭が爆発したまま学校に行くことになっちゃうんだけど〟
〝なにそれ。見てみたい〟
〝恥ずかしいから、やだ〟
〝小学生の時そこまでじゃなかったと思うんだけど〟
〝中学でちょっと長くしたせいなのかな
すごい癖っ毛になっちゃったんだよね〟
〝短くしたら?〟
〝サクちゃんみたいに似合えばいいんだけどね。サクちゃんはそういうのないの?〟
〝ないかな
伸びたらもそもそはするけど、それは癖っ毛?〟
〝それは、伸びて髪が増えてるだけじゃない?
ちゃんと伸ばすならちょっとずつ整えないと〟
〝めんどくさそー〟
〝でもサクちゃんが伸ばしたの見てみたいかも〟
〝絶対似合わないって
邪魔だし〟
〝そんなことないって! すらっとしてるし〟
〝その手には乗らない〟
〝ざんねん。可愛いと思うんだけどな―
あ、どうする? 早く起きたならちょっと会って、話さない?〟
〝いいよ。あと10分したら出るから〟
〝うん、待ってるね〟
〝ハル、かえろ〟
〝ごめん! 今日はちょっと文化祭の話し合いがあるから遅くなるかも〟
〝サボってよ〟
〝もう、すぐそうやって〟
〝どれくらいかかりそう?〟
〝1時間はかかんないと思うけど〟
〝じゃあ、待ってる〟
〝いいの?〟
〝別に、することもないし〟
〝ありがと!
というか隣のクラスなんだし、直接言ってくれてもいいのに〟
〝噂長引いて欲しいの?〟
〝あ、そっか〟
〝教室で待ってるから〟
〝りょーかい!〟
〝みてみてー手袋、朝出かけてて買っちゃった! 可愛くない?〟
〝その報告いる?〟
〝えー軽率に自慢できる子サクちゃんしかいないし〟
〝クラスの子にすればいいじゃん〟
〝浮いちゃってる時にそんなこと言う?〟
〝ずっと浮いてるからわからないや〟
〝もう
もししてもさ、どこで買ったとか、値段とか言わなきゃじゃない?
相崎さんってわかる?〟
〝吊り目の子?〟
〝そうそう! その子良いって思ったものすぐ真似っこするから
それでどうってことはないけど、やっぱり特別感はなくなるから〟
〝着けて行ったらばれない?〟
〝だから、休日用!
ちなみにちょっと早いけどマフラーも合わせて買ったの!
そっちは次遊びに行く時、見せるね〟
〝巻いてくるつもりなの?
そういえばハルってさ〟
〝なに?〟
〝ああいうの使わないの? 変な略した言葉とか〟
〝すごい使うわけじゃないけど、もちろん相手に合わせるよ
いただきますと同じ!
というか突然だね〟
〝ふと思ってさ
あ、ごめんお風呂呼ばれた〟
〝いってらっしゃい〟
〝ねぇ、サクちゃん?〟
〝なに?〟
〝テスト一週間前になったし、一緒に勉強しない?
約束してたでしょ
図書室もうすぐ混んじゃうし〟
〝えー〟
〝や、ろ!!!!
なにがいい?
前ひどかった数Bとか、英語?〟
〝どっちも頭痛くなるから、やだ〟
〝それ言ったらサクちゃんなにもできなくない?〟
〝それはさすがにバカにしすぎ〟
〝じゃあ、教えなくていい教科ある?〟
〝ない〟
〝素直でよろしい
サクちゃんやらないだけだから、すぐ出来るよ
暗記科目はいつも出来てるし。人の名前は覚えないのにね〟
〝親バカみたいなこと言ってる〟
〝はーいお母さんだよー
あ、
待って
放置しないで
もう、明日! 明日放課後数Ⅱやるからね!〟
〝ハル〟
〝あ、やっと返してくれた
ひどいよ〟
〝明日はお昼、一緒に食べよう〟
〝もちろん。なにか食べたいものある?〟
〝え、お弁当って自分で作ってたの?〟
〝違うよ。お母さんにお願いしようかなって
あ、別に作れないわけじゃないからね!〟
〝じゃあ、今度作ってよ
ハルの作ったお弁当、見てみたい〟
〝ごめん、見栄張っちゃったかも〟
〝めっちゃ期待してる〟
〝ちょっと!〟
文句で頬を風船みたいに膨らませたパンダに、ハルと同じパンダで、でも鼻で笑ったようなスタンプで返す。そのやり取りが縦に並ぶのがなんだか可笑しくて、彼女が送ってきたパンダの頬袋を親指でなぞった。スクロールするのが指にくっ着いてくるみたいでいじらしくて、愛しい。
本当に、自分の中にこんな感情が咲くなんて。
関係だけは奪った結果だろうけれど、生命の繁栄には大きく背いているだろうけれど、このプランターに咲いた花は間違いなく私の中にあった種だ。ずっとお菓子の小箱にしまって置いていたアサガオの種。もうきっとダメになっていると思って、でもそれを適当に撒いたら咲いたような、そんな驚きが触れ合う度に嬉しさに変わっていく。あんまりに咲きすぎて逆に手入れが大変。プランターからはみ出して、後ろの柵へ蔦を伸ばしている。次から次にくる思い出に、観察日記をつける暇がない。
今なら分かる。この種は咲こうと、ずっと燻っていた。
幼稚な独占欲や嗜虐的な感情は小学生が好きな子にするような、そういう裏返しの行動だったんだ。
でもこの気持ちは一体なんなんだろう。いやなにかは今感じているこの気持ちが全てだ。大事なのは、その名前。
ハルの温かみに触れたくて、手を伸ばしてしまう行為に、なんと名前を付ければいい?
友情の延長?
寂しさを満たす自慰行為?
……それとも、恋?
どれもそれっぽくて、それっぽくない。
そもそも散々裏返しになっていた感情を額面通りに受け取っていいものなんだろうか。もしかしたらこの気持ちが刻まれた心はサイコロのような四角い形をしていて、側面には違うことが書かれているかもしれない。
中学生の頃に買わされた辞書で『恋』を引いてみた。
――――異性に愛情を寄せること、その心。恋愛。
『異性』が目に入って、慌てて閉じた。他でもない心が悲鳴を上げた。じゃあ、この感情はなんと言い訳すればいいのだ。足場が削られた気がした。でも、選択式の答えからひとつ答えが消えたならそれは喜ばしいはずで。私はどうして、こんなにも動揺しているんだろう。
今度は『心』を引こうとする。でも止めた。もし『心』にも今の私を否定する言葉が載っていたら、私は心すらないことになってしまう。そうなれば人間ではない、なにかだ。
せっかく青春を奪ったというのに、胸の内は爬虫類の肌みたいにカサついたまま。彼女を抱き締めてキスをしていた時は、秋の肌寒さを超えて汗ばむほどの熱が支配してくれていたというのに。手のひらの中にあったのに。少し離れただけで遠く思える。
恋しい。
恋の近くにあったから見えてしまった。その意味は、離れている人や場所、また事物などに強く心を引かれるさま。
私はもう、ハルが恋しい。
〝ハル〟
〝どうしたの? お風呂上がった?〟
〝うん、まだ起きてるかなって〟
〝起きてるよ〟
また話す?
〝うん
かけるね〟
〝いいよ〟
「もしもし」
「サクちゃん? また寂しくなったの?」
「……うっさい」
「私は寂しいなーって思ってたよ」
「なら、感謝して」
「ふふっ、ありがとうございます」
やっぱり通話は良い。ハルの笑い声が鼓膜をくすぐってくれるから。それに間が、感情が、好意が分かりやすい。付き合い始めてからの調子の良い感じは、ちょっとあれだけれど。
「ハルはなにしてたの?」
「音楽聴きながら勉強してたよ」
「私が送ったのよく気付いたね」
「サクちゃんからそろそろ連絡かかってくるかなーって。だからちらちら見てたの。ぴかって光ったから、あっ! って」
「勉強してないじゃん」
「そうかも。あ、ちょっと待ってね。ベッド行くから」
なにかにぶつかるような空気の音。いけないものを聴いている気がして、どきどきする。聴き分けられるはずがないのに耳に届くのはベッドと服が擦れる音。近くにいないのが悔しい。いれば、いれば。
「サクちゃんは終わったの?」
「なにが?」
「『だから』、しゅくだいー」
「もしかして私の真似?」
返事はほどけるような笑みの音。私は「もう」なんてつい口を尖らせて、彼女の癖が映っていることに気付く。もしかしたら彼女も……なんて、バカな妄想。
「サクちゃん」
「なに?」
「よんだだけー」
「……うざ」
もし、そうならこんなからかうような色をしてない。今の私みたいに気恥ずかしさを表に出してくれるはずだ。
そうなら、良かったのに。
「明日、ちゃんと教科書と参考書持ってきてね」
「わかったわかった。何回も言わないでよ」
「ごめん、でも約束してたのに乗り気じゃないサクちゃんだってひどいと思うの」
あの時は、こんな毎日電話や連絡を取り合うような太い繋がりはなかったから。だから、頷いたんだ。
今なら、簡単には頷かないかもしれない。少なくともちょっと甘えてみせて、別の予定を強請ってみるくらいはする。勉強は一緒にいる理由にはなっても、触れ合える理由にはならないから。なにより、あまり好きじゃなかった。冷静に考えれば陸上なんかより確実により良い未来に繋がる努力の選択肢だというのに。結局好き嫌いで行動していた自分の幼稚さが浮き彫りになった気がした。
「約束って言えばさ、前言ってた男の子は良かったの?」
「いいの。もう、許可出しといたから」
「許可って?」
「ハルの絵描きたいって言っててさ」
「そういうことね……って、いいって言っちゃったの?」
「うん」
「もう。また勝手に。でもどんな絵? ……まさか、裸だったりしないよね?」
「油絵って言ってたけど、良くわかんない。でも上手かったよ」
「裸じゃないよね?!」
「さぁ、どうなってるでしょう」
「もー」
この「もう」のイントネーションは呆れじゃなく、話が終着に向かう時のサイン。うやむやに出来て、安心する。カレに会わせる気はなかった。
「……えへへ」
「なにが、可笑しいの」
「なんででしょう」
「ろくでもないこと考えてるでしょ」
「どちらかというとおめでたいことを考えてるよ」
もちろん彼女の思う通り、独占欲もある。でも一番は、そもそも私とハルの歩く道にカレはいないから。
「完成したら、見せてもらおう」
「それもそれで、なんか恥ずかしいね」
緩く笑い合う。
長い人生の中でカレとは交わっても、本当に瞬くほどの一瞬。その一瞬が、あの時。きっと放課後のなんとも言えない不思議な空間が、別の世界と一瞬繋がっていただけ。今思えば、風邪を引いた時に見る夢に似ている。苛めてくるような熱で浮いた頭の中に広がる、色んな感情を闇鍋にしたような、そんな夢に感覚だけ似ていた。
もうお腹いっぱいだ。あんな、脂っこい出会いは。
「ねぇ幽霊に会いやすい時間のこと、なんて言ったっけ。ほら、現世とあの世が繋がる、みたいなの」
「……丑三つ時?」
「そう、それ。ありがと」
「よく分からないけど、良かったね」
スマートフォンに耳を押し付け直して、電波で届く苦笑いの息遣いで耳の奥を満たす。
分かってる。半分以上負け惜しみだ。ああなれないのはやっぱり悔しい。
結局のところ、私は降って湧いたような気持ちに縋っているだけなのかもしれない。走って疲れた時にたまたま差し伸ばされた手を取ってしまっただけ。その手が他のところにいかないように、握りしめてしまって、放したくないだけ。離れるのが怖くて、ずっと繋がっていたいだけ。
だから、会話の隙が生まれた時、口が動いた。
「明後日さ、土曜日でしょ」
「……うん」
一足す一は二を確認するみたいな、変てこなやり取り。でも電話越しの声には少し期待が見えた気がした。その可能性に賭けるように急ぎ足に、でも向こうの機嫌を伺うように喉から言葉が出ていく。
「空いてる?」
「おかげさまで、なんだかクラス内での扱いが腫れ物に触る感じになってしまいまして。ぽっかりと空いております」
「その文句は、噂広めた人に言ってよね」
「そだね、ごめん」
この感情は、切り分けられたケーキの上に乗るイチゴとチョコプレートに似ている。もしくはタイミング良くつまみ食い出来た、できたて肉じゃがの人参。一番に切るゴールテープ。野球の大会前、男子を押しのけ一桁のゼッケン番号で呼ばれたあの、特別を手に入れられた優越感。
「で、明後日どうする? どこかご飯とか、」
「家」
「……それは」
「家、きてよ。そんで勉強、教えて」
下手くそな嘘の中に、色気のない私の微かな色香を感じとってくれたのかもしれない。ハルの息を飲む音が、私を嬉しさで震わせた。彼女の私で困る一挙手一投足が私に価値を与えてくれる。それで今の私は生き長らえている。
「それ本当に、勉強する気ある?」
「テスト期間になったら、ちゃんとするから」
「隠そうとも、しないんだ」
「わかる、でしょ?」
「サクちゃんは、正直すぎだよ」
恋。漫画ならもちろん、モノクロの虹色シャボン玉。理想は、ほのかに灯る優しい蛍火。
けれど私のは、生々しい心の傷痕。刺激的で、忘れられない。撫でると熱を感じる。強張る。心臓が埋まっていそうなほどに脈打っている。爪を立てると痛みが走る。分かっている。でも、止められない。かさぶたになる前に血の塊を剥がして、赤々しい肉の存在を、生を確認する。
私とハルの関係は、白河サキと陸上の関係に似ている。
違うのは、行き着く先が見えないこと。触れ合っていると、満たされた気がすること。
「なんか、久しぶりだね。こういうの」
呼び鈴からドアを開けると、ハルが立っていた。
実のところ、五分前から玄関で待っていた。「もうすぐ着く」の文字にどぎまぎして、身体を左右に揺らして、待っていた。呼び鈴が鳴って、でもすぐに出るのは変なことに気付いてリビングに戻ってカメラで彼女を観察する。ちょっと落ち着きのない、前髪を触っちゃったりしているハルを画面越しに見つめる。
そして、ドアを開けて。存在を確かめた。
私の部屋に入ると、ハルはいつもの一割増しくらいの速度で明るく話しかけてくる。買ってきたケーキの話。そんなに説明しなくても開けてしまえばすぐに誰のか分かるのに。モンブランが私で、チーズケーキがハル。お皿に分ける時になってようやく、上着を着っぱなしだと笑ってデニム生地の上着を脱いだ。脱いで姿をはっきりと見せた白いシャツとフェミニンなスカートは、ショートケーキを連想させた。あとは、赤い帽子があれば完璧だった。なくても、万年ジャージの私とは大違い。
緊張で会話を広げようとしない私が原因で、やがて向かい合ったまま気まずい沈黙が生まれる。この後の知識はいっぱい仕入れたけれどなにせ初めてだから、これくらい許して欲しい。ハルは手持ち無沙汰にチーズケーキのフィルムを綺麗に畳み直していた。私は張り付いたままの欠片が押し花みたいにされていくのを、一緒になって眺めていた。
今キスをすれば、チーズケーキの味がするんだろうか。モンブランの甘さを伝えられるだろうか。
「あの、京子さんは」
のそりとハルに近付くと紡がれた、最後の抵抗はそれだった。私の母をそう呼ぶのはハルくらいだろう。私はハルが母を呼ぶのが好きだったことを思い出した。自分の『子』をあんなに嫌うのに、簡単に口に出せるのがなんだか可笑しかったのだ。
「今日は、仕事遅くなるって。夜まで帰ってこないよ」
食べ終えたケーキの小皿をテーブルの真ん中に追いやりながらそう答えると慌てるように彼女の赤みが増す。ショートケーキ感が増えた。
どうしてそんなに慌てるのだろうと思ったけれど、案の定それは自分にも刺さった。
ハルは今もスカートの皺をしきりに気にして、指でつまんでは引っ張っていた。目を合わせようしないくせに髪をかぎ上げる時だけ、こっそりと上目遣いをしてくる。見ているともどかしくて、でも不快じゃない苛立ちが生まれる。緊張の下で、気が逸っているのを感じる。
「……他に気になることある?」
「ぁ、その……そ、ぇと」
ハルとの間に投げたクッションを膝で踏みつけるように身を乗り出して、距離をゼロまで詰めていく。後になって思えば、訊ねたのは恋しさから生まれた行動だったんだと思う。彼女の体温が、恋しかった。だから全部吐き出して、空っぽにした中に私を入れて欲しい。
「言いたいこと、あるの?」
「……言いたくないことが、いっぱい出てきそうになるから、」
歯切れ悪くそんなことを言う。言いたくないこととはなんだろう。私への罵倒だろうか。もしそうなら、今の、恋しさに襲われている私には投げないで欲しい。それなら、多少狭くても我慢してあげるから。
支えるようにカーペットに広げられたハルの手のひらに、手を重ねる。香るのは制服の時と同じココナツミルクの香り。甘い、常夏の匂い。
「じゃあ、言わないで」
「……サキ、ちゃん」
「サク」
反射的に冷たく吐くとびくりと跳ねて、上から覆うような膝立ちの私をゆっくりと見上げてくる。そうしておろおろと視線を右往左往させて、でも意を決したようにきゅっと目を瞑って、首を上に上げた。
「サ、ク……っ、」
『ちゃん』と紡ぎかけた口を慌てて、戻して『ク』の形。分かる。彼女は、待っている。あのキスを待っている。忘れられない傷を付けることが出来ていたことに、狂喜する。あの思い出で、彼女は自分を慰めることをしたのだろうか。今も私を押し止めるように触れながら震えている、白く細い指を自身の内股の潤みに絡めて、感じてくれたんだろうか。
きっと、してくれた。だって、私もした。私たちは今同じ目をしている。自らを慰めるほどの妄想が叶って、熱に浮かされきった、甘ったるい瞳をしている。
眼前の人間の名前だけをお互いに零しつつ、耽る。私は押し付けるようにキスをして、呼吸をするために彼女が後ろに傾く度に追いかけていく。何度か繰り返して、気が付いた時にはすっかり押し倒していた。ベッドと小さいテーブルの間、隠れるように苦しくなるくらいのキスをする。私は長袖ジャージのチャックを片手で乱雑に降ろして、ぐちゃぐちゃのままに放り投げた。黒のスポブラがぼんやり透ける、質素なシャツが露わになる。その代わりにと
ハルのシャツの裾から撫で上げるように手を入れてキャミソールごと、脱いだから脱いでと理不尽な交換を迫った。ハルはされるがまま、狭い空間の中で身を捩るように腰を浮かせて、あっという間に真っ白な肌とミントグリーンのブラジャーが私の視界を占める。真ん中には可愛らしいちっちゃなリボンが見えて、こんなにも卑猥な可愛さがあるのかと目眩を覚えた。
淡い雪のフリルと、ミントグリーン。これは白河サクの、運命の一輪。そう言い聞かせるように人差し指で優しく縁をなぞって行く。くすぐったそうに揺れるお腹と、ぴくりと主張する脇の筋肉がいじらしい。
爪で掬うように布地を浮かせて、その先の隠された彼女を感じる。肌に触れていた残り香が私の手を包んだ。
私より白い首筋、華奢な鎖骨、艶っぽい胸の膨らみ。そして私より優しさを持つ、腰回り。そのどれもが興奮と快感で私の腕の中で悶えて、時折跳ねる。彼女から溢れる熱で汚れる身体が嬉しい。その嬉しさを噛み締めていると、ハルの唇が私の肩口に触れた。もう肩で息をする彼女の吐息で肌が染まっていくのを感じる。
「うれしい。サクちゃん……私、嬉しい」
「なにが」
見下ろすように上半身だけ離れると、ハルは溢れるものを押さえるように両手で口元を覆いながら涙目で身体を震わせている。他に隠すものがあるはずなのに、なんて気の抜けたことを思った。
「憧れが、好いてくれたのがうれしいの」
憧れ? そう訊ねて、またひとつになっていく。
「うん、ずっと憧れてた。サクちゃんは引いちゃうかもだけど、図書室にいた理由は本当にサクちゃんを見るためだったの」
うわ、とは思わなかった。嬉しい、そういう感情で埋まっていく。彼女の中で燻っていた気持ちが、私に向けられていたことが嬉しい。
「初恋、だったの。女の子に恋だなんて、ましてや初恋だなんてってずっと思ってた」
ハルは感極まった様子で、声を震わせた。
簡単に恋なんて使って、それを正しいと思っている彼女が羨ましいと思った。恋じゃないよ、恋は異性同士の言葉なんだって水を差そうとも思った。でも抱き締め合った腕が絡まって、身体を引かせてくれない。引きたくないとも思った。
「言いたくないことって、そういうことなの。ほんとなのって聞きたく、なっちゃうの」
「…………」
「嘘だって、思っちゃうの。だから、今こうなっているのがすごく、うれしい」
堰き止められなくなったハルは震える声のまま涙を流して、時折えづきながら何度も嬉しさを口にする。矛盾を愛しげに味わっている。
やっぱり私とハルは真逆だ。私は、怖い。私は、今胸の内にある感情が本当に『好き』なのか、分からないから。彼女は私の嘘が分かる。もし、もし嘘だと断じられてしまったら。また形のない怖れが私を襲ってくる。
でも、言わなきゃ。
「……私も、うれしい」
恐る恐る、口に出した。でも、どうとでも取れるような曖昧さを残して。そうするとハルは肌を擦り合わせるように、また嬉しいと紡いで身体を預けてくれた。
これは嘘じゃない。私は嬉しいと思っている。
行為に夢中になるように、一生懸命性欲に溺れた獣の振りをするけれど、濡れた頬が視界に入る度に罪悪感が生まれる。
「サクちゃんは、私のこと、好き?」
恐怖で崩れそうな言葉を無視することへの罪悪感はついには私の動きを止めて、逃げ道を失くす。逃げ道。私は、また逃げようとしていたのか。
奪ってまで手に入れた青春を抱いて、まだ。
「ご、ごめんね……めんどくさい、子みたいだよね」
よほど怖い顔をしてしまっていたのだろうか、ハルは涙声と共にびくびくと身体を縮ませていた。こんな表情をさせるつもりはないのに。ピアノの時だって、一緒に遊びたかった気持ちは本物だった。今だって、そう。そういう関係になりたい、なり続けたいのは嘘じゃない。
「声が、好き」
「ぇ、」
「ココナツの……洗剤の匂いが、好き」
日焼けを知らない肌へキスを降らせている間に必死に考えて、紡いでいく。
ピアノを弾く指が、好き。笑った時のえくぼが好き。ちょっと癖っ毛なところが好き。じゃんけんのチョキを出すのが下手なところが好き。近くに来ると分かる、柔らかい体温が好き。それと同じくらい柔らかい肌が好き。コンビニでポイントカードを聞かれた時に毎回ちょっぴり慌てるところ。そして後ろを向いて、並んでいる人がいたら慌てて大きなお金を出すところ。ケーキのフィルムを綺麗に畳むところ。
紡ぐ度に嬉しさを音や仕草で教えてくれる。
その度に、私の中で確信になっていく。ハルは私より白河咲を知ってくれているから、感情を彼女の嬉しいで確かめていく。
無邪気とはとても言えない黒い独占欲で始まって、手放して、そしてまた独占欲で繋ぎ直したつぎはぎの関係。始まりとは大きく形を変えてしまった。それでも私は、ハルが好き。
私は、ハルが好きなんだ。
「サクちゃんあのね……まだ、謝らなきゃいけないこと、あるの」
「なに?」
「私ね、またサクちゃんと友達になりたくてね」
「……うん」
「ケガしたの知ったとき……その、チャンスだって、思ったの。陸上が失くなった今なら、私が入れる隙間があるんじゃないか、って」
怒りは湧いてこなかった。ああ、そうなんだっていうだけ。だって私はもっとひどいことをした。している。だから本当に申し訳なさそうにするハルが不思議だった。
「ごめんね、ごめんね……」
ついにはまた泣き出した。
とても不思議だった。罪だと思っているのなら、嫌われるのが怖いなら、言わなければいいのに。純粋にそう思ってしまう。
でもハルの胸の内を知れたという嬉しさは心を少し満たした。私は、その少しを増やしたかった。
「ほんとに、怒ってない?」
「怒ってないって。むしろ、教えてよ」
「ぇ、っと……」
「私が好きでしたこと、他にも教えて」
太ももの間に手を差し入れて、くすぐるように、でも焦れったく急かす。余裕のない呼吸の合間にゆっくりと罪が告白されていく。
初めては私が口を付けたジュースをこっそり飲んだこと。
お泊まり会で一緒の布団で眠った時、寝相の悪い振りをして抱き着いたこと。
一緒に遊んでくれるって言ったから、ピアノを辞めたこと。
中学、関わりが失くなったのが寂しくて、体育の着替えの時に残ってこっそり匂いを嗅いでいたこと。
女性同士の官能小説を読んで、行為相手を私で妄想したこと。
今広まっている噂の出がかりで、否定も肯定もしなかったこと。
私を撮った写真を保存する専用のフォルダがあること。
イチゴで釣ったこと。
私が他には、と急かす度に頬を火照らせて身体を緊張させる様は、それこそ茹でダコのようだった。
「もう、もう許して」
俯こうとするハル。でも私は彼女をもっと見たかったから、おでこを合わせて止めた。
カレの絵を見た時、そんなにも繊細じゃないだろうと思った睫毛は細やかに一本一本がちょっと上を向いている。なるほど確かに、と思った。
「……最後、お願い聞いてくれたら、許してあげる」
「お願い?」
でもなにもかも絵と同じになるのは、嫌。そういう、ちっぽけな独占欲がまた生まれた。
「髪」
「か、み……?」
「その……黒の、ハルが好きだったから。黒に戻して」
「わかった、いいよ」
満足そうな笑顔を返されて、恥ずかしさで今度は私が潜って視線を外した。優しいハルは、それを止めずに抱くように抱えてくれる。私は羞恥を薄めて広げるように、彼女の胸元に舌を這わせていく。一際高い声、締め付けてくる腕と、溢れて太ももを伝う熱。指でそれを辿って、辿り着くと逃げずに、迎え入れてくれた。締め付けて、甘えてくる。
余裕のない声を出しながら、でも絡むように強く抱き締めてくれる。
「ハル?」
「ぁ、ごめっ、痛かった?」
「どうかしたの?」
「……また、どこかへ行っちゃうんじゃないかって」
なにそれ、なんて茶化しても良かった。でもこんなにも好意と不安を言葉にしてくれるハルには優しくしてあげたくなって、必死に甘えてくる彼女を動けないくらいに抱き占めた。
「どこにもいかないよ」
足の痛みはなかった。なのに、もうあのグラウンドを駆ける姿を思い描こうとは思わない。
私は本当に青春を手に入れたんだろうか。ハルは、奪われて失ったのだろうか。自分のしたことが分からなくなる。
私に胸の中にあるのも、結局は未来への不安のまま。
むしろ不安は深まったかもしれない。ハルが見せてくれている表情を永遠に手の中で愛で続けられる保証はどこにもない。どうすればこの不安はさっぱりと失くなってくれるのだろう。
どちらにせよ私はまだ、ひどく幼稚だ。余裕のない、サキのまま。
不安がっているうちは、きっとまだ。変われていない証拠だ。今ある居場所に必死になって、前を向いていない私は、サキのまま。サクになるための途中。
〝今日からは絶対ちゃんと勉強するからね!〟
〝なに急に〟
〝だって、昨日結局丸一日つぶれちゃったじゃん!〟
〝でも、ハルだって勉強する気なかったくせに〟
〝あれは、サクちゃんが誘ったんだし〟
〝でも嫌がらなかったよね〟
〝それは、そうですけど〟
〝テスト前焦らないタイプじゃなかったっけ?〟
〝サクちゃんの心配してるの!〟
〝それは、ありがとうでいい?〟
〝もう、いいです
明日はなにがいい?〟
〝イチゴ〟
〝お昼じゃなくて、勉強する科目!〟
〝イチゴ
イチゴ〟
〝もう、わかった
わかったから!
イチゴ持ってきてあげるから、勉強もね!〟
〝ハルのそういうとこ、好き〟
〝ばか〟
〝電話、いい?〟
〝うん〟
〝ねえ〟
〝サクちゃんどうしたの?
授業早く終わった?〟
〝まだ
送っただけ〟
〝ちゃんと授業受けなさい〟
〝今は自習中だし〟
〝え、そうなんだ
私は古文〟
〝ありけり?〟
〝ありありけり
他のクラスが遅れてるからこれ以上進むとまずいんだってさ〟
〝あー多分うちが遅れてる
英語でしょ?
なんか最近無理やり進めてるもん〟
〝テスト前にテスト範囲広がるの納得いかない〟
〝わかる! そっちはもう終わってるなら羨ましいなー
サクちゃん今度がつんと言ってよ〟
〝なんで私が?
〝サクちゃんなら思ったことなんでも言えるでしょ?〟
〝もしそうなら、このラインえっちしたいで埋まるけど〟
〝ほら、思ったこと言ってる〟
〝スルーしないでよ
だめ?〟
〝ダメ
次はテスト終わってからって約束だったでしょ〟
〝じゃあ、キスは?
それで終わらなくなっちゃうでしょ〟
〝私のせいにしないでよ〟
〝とにかくダメ!〟
〝でも、付き合ってるのにさ
別に危ないとかもないし、いいじゃん〟
〝その理由は、どうかと思う
なんていうか、あんまりし過ぎるとだめだと思うの〟
〝テスト近いから?〟
〝そうじゃなくて
短距離やってるサクちゃんなら分かるでしょ?
私は長く続いたら、もっと言えばずっと続いたらいいなって〟
〝じゃあ長く続けるために、我慢するの?
私は我慢したくないよ
ハルにもっと、触れてたい〟
〝それはうれしい
でも、ダメ〟
〝けち
いいよ、会うだけで我慢してあげる〟
〝ありがとうございますって言っておいたほうが良い?
放課後、図書室ね〟
私に意地でも勉強させるつもりだ。ちゃっかりしてる。最後に念押すように打ち込まれた文字に思わず笑みを零すと、隣で頬杖をついていた男子のぎょっとしたような表情が見えた。学年を問わず絶賛向けられている奇異の視線とはちょっと違う、お化けを見てしまったような瞳。
〝ねぇ、私の笑った顔ってそんなに変?〟
〝なんで?〟
〝今、隣の男子がすごい顔してたから〟
〝状況のせいだと思う〟
〝そう?〟
〝……ごめん、学校じゃレアすぎるかも
あと時々笑い声に遅れて表情が変わる時ある。あれはちょっと慣れてないと恐いかも〟
〝具体的にどうもありがとう〟
〝あ
ごめん電池きついかも
昨日電話してて途中で寝ちゃったでしょ?
充電できてなくて〟
〝すごいいびきかいてたもんね〟
〝うそ
聞いてないって言った〟
〝うそだよ
可愛い寝息だったから安心して〟
返信はない。
でも、分かる。
きっと次に顔を合わせる時、ほんの少しだけ恨みがましい目を向けてくれること。手を繋いで、身体を擦り合わせて、視線を合わせて、私が堪えきれなくなってキスをすること。その後また、ちょっと怒られること。
違う。全部願望だ。
触れ合いたい。
目を向けて欲しい。
キスをしたい。
怒られたい。
こんなにも恋しさで溢れる私は、そんな不幸な人生を歩んできたんだろうか。何不自由なく育ててもらって、したいと言った習い事だって大体させてもらえた。共働きだけれど、家の中で寂しさを感じたことなんてほとんどない。旅行や遊びに連れていってもらった思い出だってある。なのに友人だった女の子を恋しがり、まだ足りないと騒ぎ立てる。
我が儘な女だ、私は。
生物のテスト中、問題を解き終えた私は分からなかった問題に挑戦したり、消去法で適当に埋めた選択肢を迷い直すことで余った時間を潰していた。
いよいよ消しくずをつまみ集めるしかなくなって、そんな時。答案用紙の右上、名前の記入欄が目に止まって名案が浮かんだ。
『白河咲』。
そう書いた上にフリガナを打つ。
『シラカワサク』。
途端に、私の名前を呼ぶ蕩けた声が思い出された。
その嬉しさに跳ねた足が机の脚を蹴った。追い込みをかけるシャープペンシルが机を叩く音だけが満ちる教室には思いの外響いて、七割くらいの人が顔を上げた気がした。でも、私は知らない。私の瞳は打たれたフリガナだけを見つめている。視線を落としたまま、名前を吐息で囲んだ。黒鉛で書かれた文字に吐息がかかって、近くにあった欠けた芯が紙の上を飛び出した。
シラカワサク。シラカワサク。サク。
彼女が付けてくれた、私の新しい名前。
テスト期間の最終日。午前中には訪れる解放感だけを支えに少し寝不足の頭を引き摺って階段を下りる。すると珍しく母親がのんびりとソファに座ってリモコンを握っていた。明らかに仕事に行く気のない、柔らかい色のだらけた服を着ている。
「おはよう」
「……どうしたの」
父より出勤が遅くて、朝練のない私よりは早い母がこの時間にのんびりとしているのはすごく珍しかった。それこそ、何気ない四文字の挨拶がゆっくりと紡がれたことに驚いてしまうほどに。
「少し体調が悪くてね。お昼からにしてもらったの」
「大丈夫?」
「大丈夫よ、嘘だから」
悪戯が成功したような表情を浮かべて、くすくすと音を零してみせた。
「嘘って、サボったの?」
「そうよ。まぁでも有休にしてもらったから」
理由にはなってない。けれどそういう時もあるんだろうと学校へ行く支度をしながら、相槌を打つ。ハルから学んだ相槌術は家の中では意外に活躍していた。少なくとも反応が薄い、なんていう理不尽な怒りを受ける回数は確実に減っている。
「もう学校行くの? テストだから朝練ないでしょ?」
「テストだから行くの」
「朝ご飯は?」
「いい。お昼までだし」
「良くないでしょ。ほら、用意してあるから待ちなさい」
母はそう言って立ち上がると、台所へ行って朝食の準備を始めた。せっかく朝に準備した朝食を食べてもらえないのが嫌だったんだろう。母は、そういう性格だから。
ハルと最後の確認をする時間まではまだ余裕がある。私は黙ってソファの母が座っていた場所に腰掛けた。
「最近よく夜に話してるけど、友達?」
「……恋人」
半分は強がりで言った。自分のはしゃぎようは分かっていたから、友達が出来ただけではしゃぐ高校二年生には思われたくなかった。でも言った後で恋人ではしゃぐのも相当だとも思った。
母は一瞬手を止めて、こちらを見て、また動き出した。
「そう、大事にしなさいね」
「……聞かないの?」
「だって、自分だったら聞かれたくないもの。結婚相手だったら流石に会わせなさいとはなるけど、そこまでじゃないでしょう?」
一時の感情で付き合った、一時の関係だと暗に言われた気がした。
ハルのピアノを奪った時から抱いていた感情を、軽んじられた。
行き場のない怒りが一瞬沸いて、でも不安でかき消えていく。
いつ、この魔法がとけてしまうのか。違う。不安なのはハルにかかった魔法の方。いや、やっぱりどっちも。私にかかった彼女を惹きつける魔法もいつまでかかっているのか分からないから。
ソファの前のガラステーブルに朝食を並べる母へ視線を向け、思う。
この関係を結婚にまで昇華させた彼らはどう乗り越えたんだろう。
目玉焼きの黄身の周りを四角に切るように食べていると、鳴った。アラームが鳴るのか不安でマナーモードを解除したのを思い出させてくれる、ハルの音。
私の飛びつき様に、朝食を運んでくれている母の口から笑みが漏れたのが見えた。
「件の、恋人からかしら?」
「そう」
「……でも、ちょっと安心した」
「なにが」
「ケガで足引き摺りながらしかめっ面されるより、親としては安心だなって」
恋人が女の子でも、安心?
そう聞いてしまおうかとも思った。でも言葉にしては駄目だと思った。それは自傷行為になる。少しの嘘をつけば癒やしになる家の中が、安心じゃない関係に安心を感じている私の矛盾を映す鏡になって欲しくはなかったから。
あやふやに頷いて、家を出た。ハルに会うために。
〝テスト最後だね
頑張ってね!〟
〝上から目線だ〟
〝そういうつもりじゃないって〟
〝まぁ、頑張る〟
〝えらい!〟
〝約束、覚えてるよね〟
〝うん、覚えてるよ〟
〝テスト集中出来ないかも〟
〝ばか〟
〝お疲れさま!
出来、どうだった?〟
〝しよ〟
〝もう、気がはやすぎ〟
〝でもお昼終わって時間あるし
良いって言ってくれないなら帰りに襲うから〟
〝ほんとにしそうで怖いからやめて
ねぇ
サクちゃん?
返信しないの余計怖いんだけど〟
〝家、きてよ
前と同じで、夜まで大丈夫だから〟
〝うん、行く〟
一度帰ってから来ると言ったハルを待つ。母はもういなかった。
簡単に部屋の掃除をして、それも終えて、どうしようと困った。そわそわして落ち着かない。これからこの場所で、また彼女と肌を重ねることを考えると服が邪魔な気になって、脱いだ。
大きな縦長の鏡に、生のままの私が映し出される。
「私は、ハルが好き」
言い聞かせるように声に出すと目の前の私も紡いで、心臓が跳ねた。
そして拍動の度、とっとっとっ、となにかに触れる感覚。心臓を押しのけて、口に出した感情が私の中心になった感覚。鏡の奥、ベッドに沈むように置かれた分厚い本が目に入った。黄緑色の付箋が一枚顔を覗かせている。
テスト勉強中、図書室で暇潰しに引いた新しい辞書の、232ページ。
好きは、心ひかれること。
恋は、人を好きになって、会いたい、いつまで側にいたいと思う、満たされない気持ち。
どのタイミングなんだろう、男女の表記は消えていた。
同性愛者の人やそういう団体が出版者に意見したのか、時代の流れか、はたまたこの辞書を作った編集者の趣味か、私には分からない。
「私は、ハルに恋してる」
でも、なんだかこの感情を言葉にすることを許された気がした。それがあんまりに嬉しくて、すぐに本屋に寄って同じのを買ってしまうくらいには、救われた。
「私はハルに恋してるんだ」
でも少しだけ違うのは、私はどうしようもなく、満たされもしたい。
チャイムが鳴って、人目も怖れず裸で迎えて、ハルを拐うように家に引き入れた。
そのまま抱き着いて、キスをした。玄関のタイルは冷たく、足先からは外を感じる。底冷えがやってくるのに、私はハルの黒い髪に顔を埋めて抱き締めていた。もっと感じたくて、顔を微かに振ると黒いくすぐったさが私を包んでくれる。
「好き?」
好きを曖昧に聞く彼女が可愛い。
「うん、黒にしてもらってからは、初めてだから」
「撫でるのは初めてじゃないと思うけど。黒にしてから毎日撫でられてるし」
「ハルは細かいとこ、気にするね」
これからしようという時に撫でるのは違う。
私の生み出した快楽で汗ばんだ髪を想像しながら撫でる楽しみがあることを知った。今はもう、生殖行為の発生しない性行為になんの意味があるのか、なんて変な言いがかりをつけようとは思えない。
意味は、確かにある。あるんだ。
「良かった。サクちゃんに撫でられるの、好きだから」
抱き合ったまま私服に着替えてきていたハルのスカートを落とそうとするけれど、制服とは勝手が違って少し手間取る。すると意図を汲み取ってくれた彼女が手でファスナーの場所へ導いてくれる。鼻を鳴らすと、石鹸の香りがした。ハルもそれを望んでくれていることに、どうしようもなく昂る。
スカートが落ちる音を合図に真新しい下着の中へ手を潜らせて、少しだけ汗ばんだお尻の付け根を指先で撫で上げた。すると耳のすぐ横で感じる惚けたような吐息に高い音が混じって、制止の声が紡がれた。
「ま、待って」
「なんで?」
「上、いかないの?」
「いきたいの?」
こくり、と頷く彼女。余裕のない表情を見ているとまた、いじめたい衝動が湧き上がってくる。ハルの手を押しのけて、からかうように再開する。
「ぁ、なっ、や、」
「いきたいんでしょ?」
そのまま、驚きや否定の声もまとめて閉じ込めるような深い口付け。けれど片腕だけの拘束が甘かったのか、身を捩るようにして逃げられそうになる。
「だ、めっ……きが、着替え持ってきてないから!」
「そういう問題なんだ」
ふやけた瞳のまま変に冷静なことを言うハルが、可愛い。今度は両腕で。身体の全部をくっつけるように離れない。強く抱き締めると、一度震えて脱力するようにもたれかかってくれた。軽く感じてくれたのではないか、なんて。今の体勢的に彼女が少しだけ爪先立ちになっていて、耐えきれなくなっただけなのに。
「じゃあ、いこっか」
「……ん」
ついさっき下品な言葉遊びでからかわれたばかりだというのに信頼しきった様子で身体を預けて頷いてくれた。そこでもう堪らなくなって、そのまま侵してしまおうかとも思った。でも後に怒られるのも嫌だから、引っ張るようにハルを導いていく。
啄むようなキスをしながら階段を上って、部屋に着いた時にはすっかり出来上がっていた私たちはそのままベッドに飛び込むように溺れた。
求めるのは肌の温もり。繋がり。握り合う手すら深く繋がりたくて、潜るように指を揺らした。私はいつも、一番奥にあるなにかを追い求めている。
もちろん、今だって。
この、お互いを確かめ合う行為の中でさえ、私は『恋』の先にあるなにかを掴みたいと考えている。
「サクちゃん、くるし」
「我慢して」
自然と力が入った腕を緩めようともせずに、そのお詫びにと甘い声が鳴る箇所を責め立てる。若葉のように柔らかく、生命を感じる肌へ口付けて、舐めあげたり、吸い付いたり。
味覚でハルを感じるのは彼女を独り占めにした感じが直に来て、私は夢中になった。ココナツミルクの衣服の中にこんなにも優しい味が隠れていたのか。アクセントは産毛の舌触り、少し骨ばった場所のコリコリ感。私を止めようとした指先へ吸い付いた時の、彼女から生まれた艶っぽい音。
「サクちゃ、……ぁ」
「もうちょっと、いい?」
浅い強張りから抜け出た彼女に問う。
「変なとこ優しいの……いじわるすぎ」
「良いか、悪いかで訊いてるんだけど。いいってことでいい?」
「ぁ、まっ、まって」
制止を聞くつもりはなかった。
今は与えると返してくれる彼女の身体が、ひたすらに愛しいから。甘くてあったかくて、触れていると心さえ溶けてしまいそうになる。私を受け入れてくれる、幸せの一輪。それをただ、感じていたい。
ベッドに寝そべった両の手のひらを握り込んで、ハルを覆った。首元に潜り込んで、口付けを降らせていく。快感に身を任せるハルを見ていると、衝動が生まれた。独占欲。支配欲。相変わらず碌な感情じゃないのは、すごく私らしいと思った。
誰にも渡したくなんかない。カレにも、瀬戸にも、私以外の誰にも。
蕩けきった表情のまま揺れる腰、体液で濡れきった太もも、真っ白にくだける気配を感じて必死に絡んでくる腕だって。全部、ぜんぶ、私に向けられている。お互いだけを求めて、支え合うように倒れ込む。いやらしい響きしかなかったその行為に今は、尊さを感じる。
散々に求めあった後のまどろみの中、鼻歌が聞こえた。目を開けると、ベッドの上に座り込んだハルが私を見下ろしていた。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
両の指先は爪を立てるように、私に被さる布団に埋められていて、鼻歌と一緒に音を奏でていたんだと分かった。
「いいよ、弾いてて」
「そう言われると、逆にしづらいんだけど」
「じゃあ、弾いて。聴いててあげる」
「音なんか鳴らないよ?」
「……バカにしてる?」
笑い合う。
走り終わった時にストレッチを忘れて眠りこけたような、不健康な倦怠感が取り巻いていた。でも、幸福な疲労感。まだおやつの時間を過ぎたくらいで、布団の中で裸の脚を擦り合わせると爛れた感じがして気恥ずかしく、でも頭上で可愛く垂れる髪に指を絡ませてちょっかいをかけるのは止められない。少し掠れた声ではしゃいでくれるのが、ひどく嬉しい。
頭を浮かせてほろほろと揺れ動く白い指を見つめていると、布団が邪魔に感じた。肌を撫でる布団の感触は心地良いけれど、これさえなければ。なければ、直に触れてもらえるのに。
払いのけるように、布団を脇へ押し退けた。
「ごめん、暑かった?」
「そういうわけじゃないけど」
微かに浮き出た筋肉の鍵盤。彼女に弾いて欲しい、なんて思ってしまった。
幼少期の私はピアノを弾きたかったわけじゃないのかもしれない。私はただ、綺麗な音を奏でるピアノになりたかった。
でも、そんな己の異常性癖を告白するような、恥ずか死にそうことなんか言えるはずもなくて、でも生まれたままの姿をハルに晒している。そういう臆病な『でも』ばっかり。私は一体どうしたいんだろう。
「脚、早く良くなると良いね」
そっと手で撫で付けられる優しさが、ぴりつく。
撫でられた脚はもう治っていた。三日前に行った、にやけ面の医者からの言質だって取ってある。でも、もう走ることは頑張って趣味くらいにしかなり得ない。もうあの情熱を、不安の矛先を自らに向けることなんて出来そうもなかった。
困ったから、曖昧に頷いた。
「それにしても、サクちゃんの部屋は変わんないね」
「そう?」
「最後に来たの中学生一年だったのに、全然変わってないんだもん」
彼女が言うなら、そうなんだろうと思った。
「というか、その感想言うの遅くない? 今月だけで三回目とかでしょ」
「それは、二回目とも、それどころじゃなかったと言いますか」
頬をかく仕草。指先に乗る、綺麗に手入れされた爪が一瞬光って、きれい。
二人してベッドの上からゆっくりと部屋を見回す。と言っても特に珍しいものなんて、
「あ、これなに?」
ハルがベッドから立って掴み上げたのは学習机の隅にあった小箱。たしかチョコレートのキャンディみたいなものが入っていた。無駄に上品そうな感じが私に捨てるのを躊躇わせたのを思い出す。
「ピンだよ」
「ピンって、」
「だから、スパイクの。もう使えないやつだけど」
開けると、擦り減って使わなくなったスパイクのピンが一斉に顔を出す。沢山あるけれど、ほとんどが土用の12mm。私のは金色で、よく見るとところどころが擦れて傷が付いていた。ちょっと綺麗で捨てられなくて、今でも集めていた。
「へー、あの靴のトゲトゲってこんなのなんだ」
「ちなみにそれ、中学からあったけど。さっきの変わらないうんぬんはなに」
「そ、それは、きっと陸上始めたばっかりだったから。うん、きっとそうだよ」
ひとつを拾い上げて、手のひらで転がしたり、つついたりしているハルを見つめていると私の視線に気付いたのか、淡く微笑んだ。
「ねぇ、これちょうだい」
「え?」
尖った先が削れて丸まった、賞味期限ギリギリのピン。確かに綺麗だけれど、もう幼い価値しか残ってない。サイダーの中にビンの中にあるビー玉や、裁縫セットの中にある外国人の顔がついた糸通しと同じ程度のスペシャリティ。
「そんなの、どうするの」
「んー、屋根の上に投げるとか?」
「なんだっけそれ」
「子供の歯のおまじないだよ。抜けた下の歯は屋根の上に、上の歯は床下にって」
「あー、なんか聞いたことある」
「その方向に綺麗に伸びるようにっておまじないらしいよ」
「なら、スパイクのピンは床下じゃない?」
「あ、そっか」
なにも生まれない会話だとお互いに知りながら花を咲かせるのは楽しい。
「そのおまじない? で上に投げた歯って別に失くなったりしないよね。どこにいくんだろ」
「溶けて、屋根伝って落ちてくるんじゃない?」
「……ハルって時々怖いボケ方するよね」
「え、怖い?」
「怖いよ。歯が溶けるとか、完全に悪い夢だよ。私見たことあるもん」
「どんな夢?」
「歯が溶けてすごいぐらぐらして、ぽろぽろと抜けていくんだよ。あー、言ってて思い出しちゃった。気持ち悪い!」
「でも、そういう夢ってなんか意味があるんじゃないの?」
「やめて! 調べないようにしてるんだから、ハルも調べるの禁止だからね」
「えー」
「絶対禁止!」
嘘。
ネットで調べてしまった。意味は心身の不調。挑戦への不安。自信の喪失。
刺さりすぎて死にそう。知られたら、少なくとも穴に埋まって三日は出られない。
その後も、取り留めのない話をした。でも裸の上に上着だけで話をしたものだから、すぐに肌寒くなって、二人してベッドに逃げ込んだ。林間学校の消灯時間を思い出して、なんだかわくわくした。
「なにそれ」
「本棚にあったから持ってきちゃった。見ようよ」
「見ようって、それもう終わった大会のパンフだよ」
出場選手の名前や、ルール、あとはよく分からない偉い人の挨拶くらいしか載ってない、ぺらぺらの冊子。
何をするのかと思えば、私探し。すぐに見つかって、その後は変わった名前を見つける遊び。一瞬で飽きて、今度は自分と同じ名前探し。『咲』はすぐに見つかったけれど、ハルはなかなかに見つからない。
「あっ、ハルって名前の子いるよ!」
「名字の波留だから、なし」
「けち」
「ハルコならいそうなもんだけど」
「やだ! ハルがいい!」
「なんでそんな『子』が嫌なの?」
「……だって。だって、昭和の子みたいって笑われたんだもの」
あんまりに普通すぎて、噴き出してしまった。
「あ、ひどい。これでも結構なコンプレックスなんだから」
「分かった分かった。じゃあ、ハル探しに戻ろう」
「…………あ!これ!」
指差さされた名前へ向けて目を細めると、『晴留』の名前。
よく最後まで残っていた子で一緒に走ったこともあるから、覚えていた。
「残念、それハレルって呼ぶんだって。珍しかったから、覚えてる」
「じゃあ、親戚だ」
「天気と季節じゃ全然違うよ」
ひとしきり花を咲かせ終わり、お互いに触れ合うだけになる。そうしていつものように笑うハルを見つめたりしていると、ふと胸に黒い雫が落ちた。求めあって数時間経たないうちにそんな風に笑う彼女の姿に心が波立つ。
「ハルは、あんなことしたあとでも、ちゃんとハルなんだね」
「なにそれ」
ちょっと呆れたように息を吐き出しつつも、あんなことを思い浮かべたのか、ハルは少し照れるように目を伏せた。黒髪で微かに隠れた瞳は幼い彼女を想い起こさせる。
今なら分かる。私の心は、変わることに長けているハルが変わらないことに不安を感じている。
私への感情もあの時と変わってないんじゃないかって。憧れと、変わってないんじゃないかって。
憧れていたと彼女は言った。確かに憧れは恋愛感情には成り得る。私の初恋だって、サッカー選手だ。困難を乗り越えたことを誇らしげに記してあるエッセイは今でも本棚に立てられている。
でも。憧れの眼差しは満たされたい私の欲しいものとは、ちょっと外れていた。そしてなにより、憧れてくれた私はもう折れているから。それに気付かれてしまえば、私の元から離れてしまうかもしれない。
だから、別の感情で、私を見て欲しい。見れくれているならば、確かめたい。
ハルの中に私を満たして、存分にふやけさせてくれる感情があることの証明がしたい。
「あのね、サクちゃん」
ハルが意を決したように、私を見つめた。
きた、と思った。スパイクのピンを欲しいなんてせがんだり、大会のパンフを持ち出した時からなんとなくは気付いていた。もっと前から言えば、部活の練習を見たいと言い出した辺りから。
「今度、大会とか見に行っても良い?」
「……嫌」
どうして。残念そうに彼女は言う。
どうしてなんて、決まってる。
あなたに大会の自分を見られたくないから。負ける姿を見られたくないから。憧れでは、なくなってしまうかもしれないから。
どうして私はいつも矛盾しているんだろう。
青春が欲しかったのに、ひねくれている。変わりたいのに、手放せない。
恋の種を握っていたのに、苛めて。憧れであることは嫌なのに、それを手放すのは失う不安が勝る。
どうすればいいかは、分かってる。
一歩だ。
青春へ手を伸ばすための一歩。
変わるための一歩。
恋するための一歩。
思い出す。そう、痛みや恥ずかしさを伴う、勇気の一歩が必要だった。
そして。
今必要なのは彼女の感情を変える、あるいは確かめるための一歩。
サクになるための、一歩。
「見たいな。サクちゃんが走ってるとこ、見たい」
さなぎになって、どろどろに溶ける、進化の一歩。
「いいよ。代わりに、その、」
全ては、蝶になるために。
答えはもう、出ていた。
「……愛して」
満たして、満たされて欲しい。
ハルは私をじっと、離さず見つめてくれている。私と同じ真っ黒なのに暖かさを宿す瞳は、私を捉えて、離さない。離さないでいてくれる。
私は我儘だ。イコールで繋がってしまっているから、私はこの我儘を引き連れて、私は大人になる。なるしかない。なるんだ。
求めると、応えてくれた。私を抱き入れてくれる。
「うれしい」
「めいっぱい、愛して」
私だけのハルが、弱い私を優しく包み込んでくれる。私より小さい体で、私よりちょっぴり大きい胸で、私より柔らかい体で、私より白い肌で。
そして同じように泣きそうな顔で、何度も嬉しいと言う。
さっきの言葉は、嘘じゃない。私の言葉と表情は、なによりも雄弁に真実を彼女へ訴えてしまうから。
憧れじゃない、もっと確かなもので私の全てを包んで欲しい。抱いて、多幸感と快楽で埋め尽くして欲しい。
私は、ハルに愛して欲しいんだ。
愛して欲しい、恋じゃ足りないところを愛で満たして欲しい。
分かりやすい愛で、私が染まりきるまで包んで欲しい。
今なら、私に隠して行った行為を謝ったハルの胸の内が分かる気がした。もちろん、涙の理由も。だって、私の瞳からも流れていたから。
「ピアノ、やめさせてごめん」
幼さを認めて欲しい。
「実は、最近走るのが嫌なの。ケガも、もう治ってるのに」
醜いところとか、弱さとか。
「歯の抜ける夢は自信のなさの表れなんだって。ハルに知られたくなくて、嘘ついたの」
そういう、全部。全部を愛して欲しいんだ。吐き出しきった私の口から零れた音がハルの胸元にぶつかって、優しい心音の場所を教えてくれる。両手でその音を辿って柔肌に触れた。音の根本を囲うように両手が合わさる。祈っているみたいだと思った。事実、祈っている。優しい言葉を、待っている。
「サクちゃん、大好き」
「私も、好き。好き、大好き」
溢れて私の頬を流れる涙を何度も拭って、その度にもう片方の手で背中を撫でてくれた。繰り返すほどに心が安らいで、やがて少しだけ瞼が重くなる。
「眠いの?」
「うん」
甘えるようで少し恥ずかしいのに、すっと声が出た。
「いいよ。一緒に寝よう」
「夜まで寝ちゃったら?」
「そうなったら、なんとか誤魔化そ?」
悪戯っぽくハルが苦く笑って、ちょっと硬い私の髪を梳いてくれる。丸い指先がこめかみに触れて、熱を残していく。その心地良さに薄眼になっていたら、急に声が上がった。
「あ! スカート!」
そういえばと、玄関先に落としたままだったことを思い出す。同時、取りに行ってしまうんじゃないかと怖くなる。安らぎを与えてくれた指先が、体温が失くなってしまう。
しがみつく。撫でてくれた。
「ごめんね」
「なにが?」
「勉強、勉強ってうるさく言って」
「そんなの、」
欠片も気にしてない。そういう意志を込めて首を振った。それを見たハルは安堵の息を吐いて、でも緊張は消えずに、視線を揺らしている。
不意に、私の中で鳴る。
「私ね、サクちゃんと一緒の大学に、行きたいなぁって」
ピアノの幻聴。
「もちろん最後はサクちゃんの意志次第だけど、その、選択肢の中に加えてくれたらなって」
少し視線を上げるとハルも私の真似をするように両手を胸元で合わせて、指先だけを離さずに手のひらだけを開いて、閉じてを落ち着きなく繰り返していた。汗で貼り付いた髪が薄暗い部屋の中ではっきりと黒い。
「……言っちゃった」
はにかむ口元には後悔の跡はなかった。言葉の続きを待ったけれど、ない。彼女はいつもそうだ。最後は全部、私に放り投げてくる。別に強引に引っ張ったって――文句は言うけど、でも拒絶なんてしないのに。
もしかすると、これがハルなりの愛の求め方なのかもしれない。昔の頃のように私の方を伺うような、臆病な瞳を見せている。なら私は、彼女へ自らの気持ちを見せてあげないといけない。
この気持ちは、外から見れば綺麗なものじゃないかもしれない。清らかな小川のように澄んでいたり、陽の光に輝いたり、そういうみんなが口を揃えて褒め称えてくれるものにはなれやしない。
それでも私が『恋』と、『愛』と名付けた一輪。
「今から、間に合うかな」
「む、無理そうなら私が合わせるよ」
「それはやだ」
「そう言うと思った。でも、私、サクちゃんと一緒ならどこでもいいよ」
「一時の感情で、将来を決めない方がいいよ」
「一時じゃないよ。ずっとだもん。ずっと、サクちゃんと一緒がいいって思ってる」
「それ、恥ずかしすぎ」
あんまりに、嬉しくて、泣きそうになったから誤魔化すようにまた彼女の胸の中に潜って、眠たい振りをした。
「子守唄でも歌おうか?」
「……歌って」
「もう、冗談だったのに」
「はやく」
彼女もまた「もう」なんて言葉を零して、でもゆっくりと髪を撫でてくれる。
「赤トンボでいい?」
「それ、子守唄なの?」
「え、そうじゃないの?」
「……わかんない」
「どうしよ、別のがいい?」
「いいよ、今回は許してあげる。好きな歌なんでしょ。ちっさい頃もよく鼻歌歌ってたし」
「覚えてたんだ」
「いいから、早く」
懐かしさを想い起こさせるメロディーラインに乗った『赤とんぼ』のアクセントはひどく変てこで、それを気にせずに歌うハルの口元からは白い歯が愉しそうに覗いていた。営みを終えたいやらしい部屋の中では秋なんか感じないし、本来の詩も曖昧で時折ハミングになってしまっている。
けれど。
まどろみの中で聴こえるそれは、前に聴いた時と同じく、とても愛おしく思えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます