10
〝ねぇ、ハル〟
誰かになりたい、なんて願望を初めて抱いたのはいつだろう。思えば、私は物心ついた頃には誰かになりたがっていた気がする。たとえば、可愛い服を着て悪役をやっつける魔法少女。テレビの中で踊る、えくぼが可愛いアイドル。歌う時に端正な顔がくしゃりとなるのがむしろ格好良いシンガーソングライター。一番を求めて自分を苛め抜く、アスリート。自分にないものに憧れて、すぐに劣等感に負けるくせに性懲りもなくまた憧れる。そうして出来上がったのが今の私だ。最後に辿り着いた逃げ場所に縋りついているところまで含めて、笑えない。
その笑えない私が、目の前に映っていた。
私の部屋には高校生になる時に母が買ってくれた姿見がある。着替えの時に自分の裸が映るのが苦手で何度も裏っ返しにしようと思ったけれど、優しさへの罪悪感と気遣いに掛けられた金額に負けて結局そのままになっていた。
服を全て脱いで前に立つと、飾りの効かない努力の成果が目の前に晒される。ほんのりとついた筋肉で緩い波を打つ上半身の輪郭は少し頼もしい。身体を反ると、鎖骨の下で胸が薄く広がった。視線と一緒に手を滑らせて突起に触れると、身体全体がぞくりと粟立った。慌ててズルをするように飛び越えて、うっすらと浮き出た筋肉が自慢の、お腹に着地する。少し濃く出た縦の影を親指で押すように降りていく。張り出た腰骨に薬指の第二関節が当たって、ついに下半身に目がいった。つんと上を向いたお尻を支える太ももの付け根に引かれた境界線、そして柔らかい毛足がまばらに散る、股の間。
ああ、興味本位で『陸上部』で予測変換された『可愛い』なんて検索するんじゃなかった。あの恣意的にクローズアップされた下半身が、雑に裸に加工されて丸見えになった日焼け痕の画像の数々が、忘れられない。下品な煽り文と、それに同調する意見が記憶に焼き付いている。
太ももに刻まれた白と日焼けの内側の境界に触れて、反復横跳びをするみたいにかりかりと引っ掻いてみる。じゅん、と熱が灯って、濡れた。努力の証や勲章さえ、こんなにも簡単に卑猥なものへ作り変わってしまうことに絶望した。これからもこうやって、本当にふとしたことで私の足元が揺らいでいくのだ。やがて私は逃げ移るために蹴る足場さえ失って、ただの砂になる。
それは、嫌だ。
もう誰かじゃなくてもいい。新しい、私になりたい。
〝ハル。今日一緒に帰りたいから
だから、よければ待っててほしい〟
待ち合わせの正面玄関に行くと、彼女は入り口の段差に座って鼓膜を擦ってくるような音を指先で奏でていた。私には分かった。楽譜の上で、ピアノを弾くように指を動かしている。あぁなると周りの声は届かないのに、何故だか私の近付いてきたことにはすぐ気付く。どうせ聴こえない振りをしているんだろう。
私も、よくする。例えばそう。既に持ち切りの、私たちの噂とかを寝た振りをして聞き流したりとか。
「あ、終わった?」
「うん」
ハルは、楽譜を持ち歩くことだけは続けている。それこそ未練があるように。連れ辞めた理由として言ってくれた「発表会が嫌」というのは彼女らしいし、納得もする。
けれど、私のせいだとなじって欲しかった。
楽譜を慌ただしくしまい込んだハルは照れたようにはにかんで、横に並んでくる。でもその動きはぎこちなく、紡ぎ出される言葉も歯切れが悪い。距離も、半歩遠い。
私は、半歩、近付いた。
「ぁ、その、帰る?」
それだけで繕いがほどけて、嬉しい。
「ちょっと、待って」
「なに、忘れもの?」
「テーピング、ずれて気持ち悪いから直すの」
「足の?」
「そ。どうせ、暇でしょ。ちょっと付き合ってよ」
「……ん」
いつもの場所まで隠れるように移動して、定位置に座り合う。私が向かって右で、彼女が左。靴下を放り出してベージュ色をほどいていく。そうして、素足を再び隠すようにテーピングを慣れた手付きでさっきと同じ位置に巻いた。部活もしていないのに簡単にずれるほど、私のテーピングの練度は低くない。それを彼女も気付いてる。
「そっちは、平気?」
「え、っと」
「だから、噂」
少し汚れた靴下を履き直しながら訊ねると、ハルはびくりと跳ねた。苦さと恥ずかしさが混ざった、優柔不断なカフェラテみたいな微笑み。
「……うん、まぁ。面と向かって言ってくる人はいないから」
「そう」
白河咲と椎葉春子は付き合っている。二人は、同性愛者、レズビアン。
にわかに湧いた噂の二大巨塔はおそらくこの二つだろう。でも、第三位が実は私が男だったというファンタジーなのはやっぱり納得がいかない。衣服の上からでも分かる程度には身体のラインは女女しているはずなのに。でもまぁ、私という存在を知らないところにまで広まってしまっているという指標にはなった。
私の心の中には、感心と歓喜。
感心したのは、噂の早さ。ひいては学校という世界の結びつきの強さにだ。私だけを弾いたグループLINEがあるのではないかと錯覚するほどに、あっという間に広まり切っていた。今ではもういつも眠そうな顔をしている生物の先生ですら、私を見ると目を大きく開いた希少な顔をする。
歓喜は、少し落ち込んだハルの表情。慣れていない悪意に当てられて憔悴した表情に、そそられる。今まで頑張って積み上げてきたものが崩れたり、一変するのはどれほどの衝撃だったろう。
「まぁ、すぐにみんな飽きるよ。人の噂もなんとやら、だし」
ハルは振り払うように首を微かに振って、自らに言い聞かせるように言った。いつもなら跳ねるようにくっきりとしているはずの語尾はか細く、弱々しい。
静観。それはとても彼女らしいと思った。でも、私はそれを嫌だと感じている。そもそも、ハルは落ち着きすぎだ。もっと、……もっと。
憤って欲しい? 平和な日常が崩れたことへの理不尽な怒りで、胸ぐらを掴んで欲しい?
ちょっと、違う。
「私は、嫌だな」
「ぇ、あっ……」
もっと。私に困って欲しい。
私が冷たく、でも強い意志を持って言葉を吐くと、ハルの落ち着きが明らかに目減りして、視線が細かく震え始めた。なのに口元だけは努めて、微笑んでいる。注視すると、いつもの身体の輪郭が少し小さい気がする。きっと、表には見えない筋肉がきゅっと固く縮こまっているのだ。
今もぐるぐるする頭で、一生懸命、私の『嫌』がどこに掛かるのか考えてくれている。すぐに飽きると静観するのが嫌、噂が消えるのが嫌、それとも。
「な、なにが……?」
「だって、これがケンカなら殴られっぱなしってことじゃない? なら、負けた気がする」
小動物みたいで、苛めたくなる。今のハルをずっと見ていたい。これはいけない感情だろうか。青春を奪いたい、なんて元より地獄行きな行為で傷付けた上に、こんな気持ちを抱くなんて。
急かすのは、形のない怖れ。
憧れにこてんぱんに打ちのめされて、残された選択肢はもうはずたずたの足で逃げて果てるか、ハルの青春に縋るだけ。いや、違う。もう逃げる道もない。
「いっそそれっぽくしてみる?」
本当の最初はあんなに輝いて見えた陸上が透けて見えなくなっている。見たく、なくなっている。だから目の前のあどけない彼女だけは、消えて欲しくないなんて思ってしまった。
だからもし逃げても捕まえられるように、彼女に悟られないよう靴を履く素振りに混ぜて、身体だけ、半身近づいた。
「それっぽく、って?」
「恋人っぽくしてみるってこと」
緊張の糸を少し緩めていた彼女を引っ張って、ぴんと張り直す。もう一度、私に見せて欲しい。いつも通りの声を使って、話に乗らせる。
ほら。いつも通りにして見せて。あのキスを想起せずにはいられない話題を振り撒きながら、そう目で訴えてみせる。
「ほら、いつもとは違う名前で呼び合ったりとかさ」
「そ、それで殴ったことになるの?」
「意外となるもんだよ。うわ、ガチだったんだってなるとからかった側は多少の罪悪感が芽生えたり、気まずくなるよ。じわじわ効いてくるの」
「それは、殴り返すにしては割と陰湿かも」
柔和な笑み。上手い。でもきゅっとベンチの端を握る手を見つけた。心は綱渡りのようにどぎまぎと揺れているのが伝わってくる。今度はあからさまに、隣り合う彼女へ三センチメートル近づく。あ、目を逸した。
「恋人だけの呼び方とかあるじゃない? それは?」
「じゃあダーリン、とか?」
「ダーリンは男に向けてじゃないの?」
「愛しい人って意味だから、間違ってはない、はず」
ダーリン。音を出さずに口の中で舌を転がすと、口の天井がぞわぞわした。だって、お互いにダーリンって顔をしてない。男だったらとかそういう問題じゃなく、その言葉を使う資格を我々は持っていないとしか思えなかった。
「へー。さすが英語校内十一位」
「それ、あんまり誇れないから。洋画の知識だからあんまり関係ないし」
あんまりを下手くそに連ねる彼女を見ていると、『かわいい』の感情が湧いた。形から入るとはこういうことなのだろうか。彼女を可愛がっている私の心は、きっともう青春の味を覚え始めていた。このまま続ければ、戻れなくなる。
「他にはあったりするの?」
「ハニーとか、あとはエンジェル、とか」
「エンジェル!!」
笑い合う。がらがらと後ろで戻る道が崩れているのを感じる。
でも、いいんだ。奪うとは、そういうこと。罪がゼロからイチになれば、もう戻れはしない。
違った。イチからニ。イチはカバンのだらけた隙間から覗く五線譜。ニは淡い桃色のリップクリームでさりげなく仮装した、艶やかな唇。
罪を、重ねたい。
「まぁ、冷静に考えてハルはハル以外ないよね」
「サキちゃんも、サキちゃんでいいよ」
「ちゃん呼びは恥ずかしいから止めて欲しいんだけど」
「それは、直りません」
お互いが意固地になったようなやり取り。何度も交わしたようなそれにハルは得意げに、口元を緩く曲げた。
「けどやっぱ、オリジナリティはないよね」
「うーん……じゃあ、なんて呼んで欲しいの?」
「サキ様?」
「……それでいいの?」
「冗談だから。ほんと、やめて」
途端に胸がざわつくけれど、これは完全に自業自得。やっぱり私は会話に向いてない。引き出しを開けて、さっと選び取るセンスが私にはないのだろう。そもそも私の机の中にはダーリンも、エンジェルもない。
ちょっと不安そうな顔を見るに、もしかすると私への殺意を凝縮したこの呼名をハルは聞いたことがあるのかもしれない。
「名前が『咲』だからそこから広げてみる? サッキーとか」
「うわ、恥ずかしすぎ」
「じゃあ発音変えてみる?」
ハルには、選ぶ才能があった。今も私が優位に場を整えたのに、心地良く主導権をすり替えて選び始めている。愛くるしいやんわりとした笑顔で、何気なく、楽しげに『サキ』のイントネーションで遊んでいる。効果音みたいに、サキ。『先』のイントネーション。さきっ、なんて疑問符と共に小首を傾げて見せながら、零れるように小さく笑う。『サーキット』の発音で、間延びしたサキ。つい『さっき』の、スキップしたみたいなサキ。
思いつくままに並べられるサキが耳の奥をくすぐる度に心臓が跳ねる。からかうような、ふざけた調子に私は怒るような声色を見せても良いはずだ。なのに、しゅわしゅわのサイダーみたいな泡立ちが胸に振りかかってくる。かかって、爽やかに弾ける。
「サクは?」
ついには、どきりとした。心臓が一際に跳ねて、隣合った心がはち切れそうなほどに膨らんだのが分かった。やっぱり奪って正解だった。そう確信できるほどの幸福な巡りが身体の中に生まれる。彼女も気に入ったようでもう一度、今度は「サク」で止まってこちらへ向く。
「ハル、キスの顔みたいになってるよ」
「ほんとに? サ、……ぁ」
ハルは確認しようと思い立って、でも途中で、かあ、と赤くなって。私の喉からも「あ」と音が鳴る。私のは物欲しげな「あ」。ハルが紡ぎかけた音が続いた果ての唇の形が生む行為が、どうしようもなく欲しくなる。
「ねえ」
隣からの返事はない。だから、迎えに行くことにした。突っ張った右腕を身体ごとハルに向けて倒して、耳元へ唇を寄せる。内緒話をするみたいに、吐息を余さず彼女へ送るように。
わ、と傍から声が零れた。その吐息を吸い込んで、代わりに私の中を巡った空気を贈る。
「ほんとに、なろっか」
「それ、冗談じゃ、」
「冗談なんて、私言ったっけ」
ハルからは少し遠い左手を外側から持ってきて、逃さないように包み込む。こんな時でも緩くてふわふわな髪を、かき分けるように撫で上げた。たっぷりと撫で終えた時に飛び出てくる癖っ毛を思い描きながら、微かに震える瞳を、呆けたように開いた彼女の口から出る吐息を感じる。
「女同士は、嫌?」
「……嫌、なんて、ぁ」
ない。そう動きかけた口より早く身体を寄せて、興奮の吐息に変える。
そう答えてくれることは、私は今までの思い出で確信していたから。
私はハルの、一番の自負があった。
「じゃあ、いいじゃん」
髪を嗅いで、わざとらしく耳の下辺りに鼻先を当てる。私の速い熱のこもった呼吸に近づくように彼女の鼓動が早まっていくのが分かった。
そのまま唇をハルの頬へ触れるギリギリで浮かせて、でも唇へはいかずに下へ。唇で首を撫で回すようにまさぐる。
震えていたハルの瞳がすっかり潤んで、蕩ける頃。
「サクって、呼んで」
「……サ、ク――んっ?!」
差し出された唇に、口付けた。きゅっ、とハルの身体が更に縮んだのが空気で分かった。違う、ひとつになっているから解るんだ。
さっき呼んでくれた名前が耳に残って、いや口の中に残っていた音さえも喉を通して私を染め上げていく。その感触に私は夢中になった。剥き出しに、舌を差し入れてハルを内から舐った。もっと、もっと。そう急かすように。二人の熱で湿る視界に映るハルを真近で見ているとまた強い感情が湧いて、激しさだけだった舌に甘さが絡まっていく。すると、彼女の顎が浮いたのを感じて、目を開けるとベンチにつっかえ棒のように突いていた私の腕にきゅっとしがみつくクリーム色の袖が視界の端にちらついた。絵にもあった、柔らかい白に混じる薄い黄色。
私だってしがみつきたい。もうこの、奪った青春にしか私の未来はない。そう思って、ハルを撫でる手を首筋へ滑らせた。水を掬い上げるように彼女を固定して、私へ押し付けた。あなたの居場所はここだと刷り込むように、唇を重ねる。もっと言えば、彼女を溶け込ませるように支配して、ひとつになりたい。
そう、私は。
私はサクになりたい。ハルと同じ母韻で作られた、サクになりたい。
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