9
冬をもうすぐそこまで感じていたのに、忘れ物を取りに戻ったように暑い日。皆がみんな厚ぼったい制服を恨めしそうに着込んでいる。そんな中、数人の男子は気安く上着を脱いで、腕を捲って授業を受けていた。腕を露出して机に肘をつくその姿は本当に時間が巻き戻ったようで、あれきり通知のないスマートフォンを握り締める私を元の暗い海へ押し戻していく。でも中途半端で、底の不安を巻き上げる闇と海面から差し込む眩い光が共存している。じんわりとした暖かさを覚えてしまった心が冷たさを感じているんだ。私はまた、狭間にいる。
二限の休み時間、孤独を堪える私の隣を河合さんが通った。目が合った。いつもなら曲がりなりにも挨拶をしてくれる桃色のリップが塗られた唇はきゅっと結ばれたままに通り抜けて、直に見えなくなる。誰かの提案か、個人の意志か。私の耳は陸上部の声を久しく聞いてない気がした。河合さんが言葉なく通り抜けた瞬間、きゅう、と心が軋んだから、少なくとも私の意志ではないのは分かった。つんと尖ったような唇がもうこちらに向いてもくれないのは、悲しい。
教室がお弁当の匂いで満ちても、私の姿は少し立て付けの悪い椅子の上にあった。視線を落とすと、隙間を埋めるために差し込んでいたはずの紙が、ずれて外れていた。小さく折り畳まれ、黒く汚れた粉がかかったようなそれを拾い上げる。小綺麗なシャープペンシルの詰まった筆箱に入れて、それがあんまりにも似合わなくてスカートのポケット、あのレシートの居た場所に押し込んだ。引いた腰に釣られて、椅子が私にだけ伝わる音を出した。少し右によった重心のまま、くすんだ窓越しに、あのベンチの方を眺める。ぎりぎり、くすんだ青色が体育館の影から飛び出すように見えた。一体どれくらい削ればあの青色は見えなくなるんだろう。
ホームルームが終わって部活に向かおうとして、廊下を塞ぐ陸上部の子たちが目に入った。一組から出た子たちが二組と合流してさらに大きな障害物に膨らんだ。彼女たちが私へ向ける視線は群れると鋭さを増すことを知っているから、視界に入るのが嫌で、引き返した。誰への言い訳なのか、ポケットをまさぐる演技をしながらのんびり戻って、机の中を手でかき回す。下から覗くと木の質感が剥き出しの裏に文字が書かれていた。前の持ち主がおまじないのように相合い傘を描こうとして途中で飽きた、誰もいない傘。削り取ろうして、人差し指の爪が少し欠けた。口に含み舌でぎざぎざを撫でると落ち着いて、でも抜いた後のひんやり感で心が悲鳴を上げた。
階段の踊り場なんかで立ち止まって話していたら、そう怖くなって遠回り。秋の風が肌寒い、螺旋階段を降りていく。かんかんかん、と冷たい金属の音が足元で響いた。落ち葉とも言いづらい青い葉がちょうどよく足元に落ちてきて、踏みつけた。擦るように踏んでしまったから、青さの残る水分がきっとローファーの底を湿らせている。次の一歩はきゅっとイルカの鳴くような音がした。
逃げ場所なんて、何処にもない。階段を降り終わった足はもう動かない。今行けば、きっとまた刺繍の入ったブラジャーを見せびらかすように雑談をしている。私の噂や悪口を、面白おかしく話す場に再び出くわしてしまうかもしれない。そう考えると焦げたような匂いが口の奥から込み上がってきて、近くの職員トイレに駆け込んだ。
見慣れない、いつも使うトイレより清潔なその場所はどこか別の世界に思えて、心が喜んだ。個室に入って荷物置き場が広いことに驚いて、自分の鞄を置いてみる。すると部活用の服を入れた巾着袋の紐が見えて、ちょうどいいと思った。制服を脱いで、あっという間に下着姿になる。まだ体温の残る服は積み上げるように鞄の上へ。スカートは狭い空間でしゃがんで拾うのが億劫で、ぽすんと下に落としたまま。便器の足元に置かれたスカートは、ひどくいやらしい。でもそれよりも下着姿で便器に座り込む私の方が変態的だ。そんなことを考えていたら便座の伝えてくる冷たさで、ぶるりと身体が震えた。慌てて着替える。でも太ももの付け根よりちょっと下くらいしかない薄っぺらなランニングパンツはその冷たさを防ぐ機能を半分も持たない。その時にはもう、私は声を出さずに泣いていた。せり上がってくる感情が、煩い。いっそドアの上の隙間からホースかバケツで水を落として欲しい。分かりやすい、いじめ被害者になりたい。そうすれば、悲劇のヒロインみたいに振る舞えるから。
落ちたスカートから足を抜こうとして、固いものを少し蹴った。なにかと思って、思い出した。
〝ごめん、ちょっと返事忘れてた
いいよ。その男の子と、会うよ〟
ほとんど鞄に押し込んでいる、でもここ最近はポケットにずっと無理矢理に入れていた、スマートフォン。どうせ使わないから要らないと言った私に、母がそれでもと買い与えてくれた、人との繋がり。
今は、恋のキューピット役でもいいから誰かと、彼女と繋がりたかった。
〝いいの?〟
〝いいよ。サキちゃんは会って欲しいんでしょ? なら、会うよ〟
〝なにそれ。じゃあ私が言ったらなんでもしてくれるの?〟
〝するかも〟
彼女の返信に『じゃあさ、』とそこまで打って、手が止まった。
私はハルにどうして欲しいんだろう。ピアノをやめさせて、その次の願いは一体何処に。我儘な私のことだ、次から次へと湧いた欲望がどこかにしまってあるはずなのに。膝の上に置き直したスカートをこねくり回して、黒い煤けた紙切れを取り出す。拍子に、黒い煤が蝶の鱗粉のように、親指にくっついた。
〝部活〟
〝え?〟
〝きて
みにきて〟
ハルに、部活している私を見に来て欲しい。
あの恥ずかしくて堪らないギャロップをまた見られてもいいから、この寂しさを埋めて欲しい。
そう、思って。
委員会で少し遅くなると言われたから、することもなく立っていると寒くて、軽く走ることにした。校舎の外周を駆ける、ジョギング。
一定のリズムで息を吐き出しながら、ぼんやりと考える。
カレと会ったら、ハルは何を言うのだろう。
彼女のことだ、描かれたことをむしろ嬉しい、なんて言って快く許可を出して、それから。
……それから。それから。
絵の経過を見るようになって、思い出すのも恥ずかしい青春を繰り広げ出すかもしれない。こんな私にも心を開いてみせてくれるハルはきっと、簡単に身体だって明け渡す。
夕方の、目をやられてしまいそうな眩しい光をカーテンで優しく遮って、鍵まで締めきった美術室。胸元の可愛さを主張する制服のリボンがほどける音、衣服の擦れる音。感情が遅れた方が出す、誘うような甘い吐息。カレの決め台詞はなんだろう。先輩のことをもっと知りたいです、とか。
瀬戸とはどうだろう。本人にはなんとなしに否定されたけれど、絵面的にはすごくお似合いな気もしてくる。今のハルにとっては景色の内の一つに過ぎない瀬戸が、私の言葉ひとつ、もしくはそれ以下のきっかけで一人の男に変わるかもしれない。人は自分にないものに憧れる生き物だ。ハルは瀬戸の中にそれを見つけて、きっと好きになる。
たとえば今は遠い夏祭り、お互いに良い雰囲気で手を繋いで、木陰でキスをして、それから。ハルの浴衣の中へ差し込まれる無骨な手。ぴくりと身体を震わせて、でも受け入れる、上気した頬。 ……きゃっ(笑)。
「馬鹿すぎ」
分かってる。羨ましいんだ。青春の中でも一際眩い、燃えるような恋をハルはその気になれば何の努力もなく手に入れることが出来る。少なくともその種は間違いなく彼女の手のひらの中にある。
一方の私の可能性は二つ。このまま身体を痛めつけて逃げ続けるか、みんなが歩き終えたトラックを周回遅れでもがきながら這い進むだけ。
前者の未来には、なんにもない。ただ青春を陸上に捧げた、なんていう小奇麗な言葉が残るだけだ。あのあぜ道の畑のように、ゆるやかに死が来るのを待つ。後者は一生劣等感に苛まれながら、実際に青春劣等生として下手な作り笑顔を作り続ける。遅すぎた私はもう、新しい住宅街の一員にはなれないから。
汗でベタつく肌を撫でてみる。そして、夢想する。この肌が自慢だった白に戻ったら、誰かの性のはけ口くらいにはなれるだろうか。むしろ今の方が、需要があったりするんだろうか。なら私は日焼け好きの男に抱いてもらうために陸上をしていたことになる。
眉間の上に不安ばっかりが降り積もってくるから、慌てて脚の速度を上げた。脚は痛むけれど、怖くて止まれない。
この形のない怖れは、青春を持たない私の、失うことへの恐怖心。
逃げ道さえ失くなる。友人たちと奇抜な食べ物を食べに行って得られる仮初の充実なんかを見下げる足場が、失くなってしまう。でもこの果てにあるのが滅びであることも知っている。私はどうすれば救われるのだろう。
美術室の方を見上げる。カレの姿はちょうど良く見えなくて、でも居るんだろう。窓越しに私を見ている気がした。背景以下の私の近くに、ハルが居やしないかと探してる。今の私の価値は、せいぜい忠犬ハチ公の銅像並。
そう考えると、ムカついた。腹が立った。なけなしの女としてのプライドが、傷ついた。
「なに、してるの?」
「あ、サキちゃん。これは、その……えへへ」
「えへへ、じゃなくて」
そんな感情の時に限って、ハルと出くわした。ここは校舎の裏側、約束の場所からは随分遠い。なぜだかライン引きを押していたから、訊ねたら三十点の空気を察した笑みを作ってみせた。それがまた苛立ちを加速させる。
「これは……えと、サキちゃん待ってたら、陸上部の人に頼まれて」
「いつの間に部員になったの」
「その、違うの。サキちゃんに頼んでおいてって言われたんだけど、私が勝手に」
頼まれたことなんて、ない。最近は特に、部員の子たちとの間には押しても遠慮で跳ね返る壁が形作られていた。
だから、これは彼女の嘘。最近よくグラウンドに顔を出すハルを体よく、もしくは私への当て付けで、いたずら混じりに誰かが甘ったるい声で使ったのだ。かっと、息の上がる火照った身体に炎が瞬間的に灯って、感情が沸き上がった。それこそ、沸騰するように。
「こ、これだけ片付けてくるだけだし、ね?」
甘い、逆なで声。あなたに絶賛負けた気になっている私の身にもなって欲しい。もっと、しっかりして欲しい。勝者なんだから、胸を張れ。そういう意味を込めて睨んでも、ハルはどこか申し訳なさそうに出来の悪い苦笑いを浮かべるだけ。きっと伝わってるのに。まるで、私の方が聞き分けのない子供みたいじゃないか。
「ねぇ、私、間違ってる?」
「え、ぁ」
彼女の目の前まで行って、臆病な茶色を見下ろす。まっすぐに射抜く。ハルは胸元で自らの手首をきゅっと握り締めながら、ふるふると首を振る。横に。
そうだ。間違ってない。
衝動が身体を支配していた。走って興奮していた血液が身体の熱に当てられて、波のように脈を打って、私を衝き動かす。
「ま、待って。なにする気?」不安げな彼女が私の服の裾を掴んで引き留めてくる。それくらいで止まる感情ではない。もう感情ではないんだ。
ハルを引き摺るように歩いて、グラウンドが見える場所へ。睨むと体操服とジャージの群れが遠目に見えたから、両手を口元へ筒みたいに当てて、ふたつの肺いっぱいに空気を溜め込んで、激情を放り投げるように使い切る。
「ハルは部員じゃないから!! 勝手に、使わないで!!」
キ――ン、と耳が怒りで鳴る。痛く、響いた。
泥だらけでノックを受けていた野球部のショートが、フェンス越しの道路を歩いていたおじいさんが、渡り廊下を歩いていたバレー部の少女が、空き教室のどこかでトランペットを奏でていた吹奏楽部の誰かが、学校中の視線がこちらを向いた。もちろん、宛先の陸上部の視線も。多分、瀬戸やカレだって。
耳の下がつんとして、ついには目の前がくらくらした。黄身が潰れたみたいにどろどろの私が全世界に曝け出されている。跡には、積み上げてもいないなにかが崩れる音と、不思議な昂揚感。かすんでいく視界の感じは、本気で走った時に似ている。息も出来ないくらいに酸欠になった時、いつも頭に浮かぶ、あの映像。
幼い頃に写真で見た、色とりどりの花が咲き誇る豊穣の丘。鮮やかなパレットのように規則正しく並ぶ、花々。夏のギラつく日差しを浴びて、でも瑞々しく、規則の正しいカラーストライプを形作っている。眩しく咲く橙のアイスランドポピー。空間を飛び越えて香ってきそうな、ラベンダー。サルビアは本当に燃えているよう。その隣には一際に背伸びをする、向日葵の花。その脇道を私は着たこともないオシャレな服を着て、いつもならとても着けられない可愛いヘアピンを着けちゃったりしていて、そうして鼻歌交じりに歩いている。
そんな、一生の思い出になりうるような妄想はところどころがぼやけていて、でもそれがむしろ日傘のように優しい。私はその優しさに甘えながら、記念写真を撮る時間すら惜しんで探す。欲する。他人が先に手に入れるなんて、許せない。
渇望を満たしてくれる幸せの一輪を、独り占めにしてやりたい。
「やっぱり、やっちゃったかな」
「多分、かなり?」
「だよね」
視線からハルの手を引っ張るように逃げ出して、全力疾走の末に辿り着いたのはいつものストレッチをする体育館裏、ぱりぱりのベンチの前。陽の光がなかなか当たらないその場所は、私の血を、汗ばんだ肌を、そして激情をちょうどよく冷ましてくれた。
とんでもないことをしてしまったかもしれない。あの支配欲にも似た叫びはきっと様々な憶測を呼ぶ。最近増えつつあった煩しい視線が確信を持ったものに変わるかもしれない。
「明日からどうしよう」
肩で息をするハルが「それサキちゃんが言う?」なんて最もな文句を言うものだから、笑うと、笑い合うになった。
「サキちゃん、ほんと後先考えないとこあるよね」
「うっさい。そもそもハルがパシられてるのが悪い」
「そんなこと言ったら、急いで行ったら居なくて連絡もつかないサキちゃんだって悪いと思うの」
手はまだ繋いだまま。ハルが気付くまでは離さないでおこうと思った。膝に片手を着いている彼女の傍にはライン引きが見えた。白い粉が止まった拍子に漏れて、下には小さな雪山が作り上げられている。よく見ると乱暴に引き摺ってきたせいか、ヘンゼルとグレーテルのパンくずみたいにぱらぱらと白く落ちていた。
「というかなんで持ってきたの」
「……分かんない」
本当に分からないんだろう。本当に可笑しそうに笑っているから。それを見ていると落ち着いて、いや、少し違う。
冷えた身体から感じたことのないような興奮が浮き出てくる。まるで包んでいた殻が割れて、生まれ出て来たみたいだった。その興奮の正体を知りたくて、手を放してみた。するりと重量に負けて離れたハルの手の温かさが遅れて去っていく。それに比例して膨れ上がっていく感情が、今の私にはあった。
思い出すのは私が油断して肌を晒した時の、ハルの視線。私のしなやかなくびれと、腹筋が淡く自己主張するお腹へ向けられた、息を凝らした熱い矢印。
そしてカレが描いた、あの絵。
「ま、いいや。ついでに柔軟、手伝って」
「サキちゃんは、使っちゃうんだ。私を」
向けた、あるいは向けられた感情が、私の中で組み合わさって新たな形になっていく。
これは、罪の気配。スリル目的で万引きを重ねる子たちの気持ちも、こんなものなんだろうか。私なら、心臓がもたない。今紡いでる言葉だってとぎれとぎれでひどく不自然。
人生で二回目のそれは、果たしてまた、何の罪もない女の子に向けられようとしている。
「嫌なら、別にいいよ」
「もう。すぐ拗ねるんだから。いいよ。背中、押せばいい?」
「うん」
カレは見ているだろうか。見てくれていて欲しい。そうすれば、きっと二人分。バッターボックスからも見えるなら、あの坊主頭も見ているなら、三人分になるかもしれない。
体育館の渡り廊下から伸びて広がる滑らかなコンクリートの上に脚を開いて座ると、ハルが私を見下ろしてくれた。肩に手を置いて、太陽を忘れた地面の冷たさと一緒になって挟み込んでくる。温度のギャップが心地良い。人に近付くと、その人の纏う温度が伝わる。私はハルが近付いた時の、おろしたての毛布みたいな、緩く肌に触る温かさが好きだった。見上げると、見つめてくれた。ふわふわの茶色の毛が垂れて、くすぐったい。
「まっすぐ押せばいいの?」
「……ハル」
「んー?」
真上に唇を向ける。右腕で引き寄せるようにハルを近付けて、触れた。唇に、口付けた。かち、と歯が当たった。咄嗟に引こうとした彼女を押さえて、離さない。触れたまま確かめるように口を淡く開いて、ジグソーパズルを噛み合わせるように位置を少しだけ変える、逆さまのキス。そうして侵すようにかちりとはめ合わせて、空気の逃げ道をなくした。すると乗るように私の肩に置かれていた彼女の左腕から驚きが消えると、くだけるように一瞬弛んで、でも押し留まった。迷うその手首を左の腕で滑り落とすように掴んで、触れ合いを深くする。
幻聴。ピアノの音がした。私はあの時と同じように、また奪う。
カレから。瀬戸から。そしてハルから、まだ咲ききってもいない青春を奪ってやる。
お昼休みに、また美術室を訪れた。全ては昨日の、口付けの答え合わせをするために。ここまで答え合わせがわくわくするのは、随分と久し振り。先んじた優越感が、私の身体をじんわりと温めてくれていた。
一体、どんな表情を見せてくれるだろう!
失恋の喪失感を乗せた笑みだろうか、それとも頑張って隠し切ろうした努力が伝わる引きつった表情だろうか、あのご丁寧な敬語を剥ぎ取っての怒りだろうか。どちらにせよカレの敗北宣言か、私の勝利の宣告で終わる。
だって。
あのキスの終わり際、ふっと私を許すように脱力したハルの、蕩けた瞳。興奮が剥き出しの吐息。耳まで真っ赤にして口元を手のひらで隠す、でも隠しきれない熱。絶対、ハルは私を好きになる。もう好きになってくれている。
どれだけ審判がカレを贔屓しようとも、先に知り合ったアドバンテージを活かして友情を恋愛まで引っ張りきった、私の勝ち。
文字通りそう勝ち誇って、ドアを開けた。
見た。
キャンバスに向かうカレの、横顔。片方だけ覗く瞳はひたすらに真っ直ぐにただ前だけを捉えて、真昼の日差しがかすむほどの眩しさを内に秘めている。遠目でも分かる。あの瞳は煌めきの結晶。時折、思い出したようにぱちぱちと瞬いて、火花のように光を散らす。肌にじんわりと浮いた汗はきっと、彼が燃え尽きてしまわないように本能が引き起こす防衛反応。浅く開いた口も同じく、いつでも呼吸が出来るように。彼の脳は筆を手に取ると呼吸すら忘れてしまう、そう確信できるほど、絵に取り憑かれている。
こちらに気付きもしないカレを見ていると、胸がどうしようもなく軋んだ。茨のレール。擦り切れた足の皮。拷問じみた、疲労という重い枷。血の滲んだ猿轡。そして窒息で殺そうとしてくる、凍った酸素。罵倒して、足を劇薬の沼に引き摺り落としてくる『ずきずき足』。
カレの世界にはそれがないんだ。あるのは本当に自らと四角いキャンバスだけ。
優越感なんて何処かへ吹き飛んで、思い知る。
あれは、憧れだ。
目の前に、私の憧れがいる。私はなりきれなくて、逃げ口にしか使えなかったものを青春に、いやそれすら飛び越えて生きていく柱に出来ている。
「あ、すみません。来てたのは、気付いてたんですけど。集中が切れるとこまでは描ききりたくて」
一瞬呆けたような音の後、ぎこちない会釈。それだけは、瀬戸に対する私の姿に似ていた。でも眩い。いっそ気付いてくれない方が良かった。そっと去って、ないものにしてしまいたかった。
「……また、見に来た」
「どうぞ、って言うほどは歓迎は出来ませんが、まぁご自由に」
完成する前の絵を見せるのは恥ずかしいと言いつつも拒まないカレには余裕が見えた。随分と進んだそれは私の目からはもう完成しているようにしか見えない。あと三ヶ月以上もこの完成度のハルを触り続けるカレを妄想すると、黒い感情が生まれた。随分と美化された気もするハルの姿は、でもちゃんとハルを残している。緩く笑う準備をする頬も、柔らかく伸びる睫毛も、潤いを受けて返してくれた唇も。私になついてくれる、物好きささえ見てとれた。
もちろん、あの臆病な茶髪だってそっくりそのまま。
「……茶色」
「ええ、こっちの方がテーマとしては合ってるかなって」
「テーマ?」
思わず聞き返した。あんまりに無機質で、肌が粟立つ。こんなにもハルの存在を纏うものを冷たく呼ぶその声に、身が竦んだ。
「先輩が付けてくれたじゃないですか」
青い、春。
「ちょっと背伸びをしたいような、そういうのも感じ取れて良いタイトル……って、なんか変な目線ですね。すみません」
カレにとっては果物の静物画とハルに違いなんてないのだと、思い知る。少なくとも私はハルのこの瞬間を切り取って、背伸びをしているなんて思わない。感じ取るセンスがない。
劣等感が刺激されるのに、負けず嫌いの私の心はまだ諦めてはくれない。まだ負けてない、なんて負け惜しみ。
「どう思う?」
「え、」
「だから、学校の噂。知ってる?」
「……多分、知らないです」
「私とハルが、付き合ってるって」
せめて。せめて、悔しがって。
ぱちぱちと目を瞬かせる彼の言葉を待つ。答えを待つ。
「本当なんですか?」
「キスした」
羨ましがって。そして、女同士なんて、と嫉妬が混じった怒りを私に向けて欲しい。
でもカレは目を瞬かせるのを飽きたように、今度は苦い愛想笑いを浮かべてくれた。
「お似合いだと、思います」
あっさりと紡がれた言葉に寒気がした。やはりカレは別の世界の生き物なのだと確信する。「あの子、絵、大好きだから」なんて言う美術の先生の笑みを思い出す。親か、と突っ込みたくなる呟きの根元はどこか遠い目をしていた。
今なら分かる。
カレとは本当に、世界が違うんだ。それを先生も気付いていた。青春を、夢を、生きる道へ昇華することが出来る特別な人間なんだ。もう私へ向いてはいない瞳は、生きるための選択をし終えた人間の目だった。
私にはカレがどうしようもなく、遠い。
絵に向き直ったカレ。呼びかけたり、呼び戻そうとは思えなかった。もしあの瞳に見つめられてしまったら、私は惨めさで、あの世行きだ。
ふらふらと正面玄関を出ると、瀬戸がノックを受けていた。頭を下げるかなにかして部活に参加したんだろうか――やりたくもないであろう、サードの守備練習を必死でやっている。
放課後が始まったばかりなのに汗だくの、砂だらけの姿。かけ声に合わせて、威勢のいい声を返す男の子。
「……どーも」
虚しく、響いた。
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