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〝そういえばそろそろテストだけどちゃんと勉強してる?〟
〝母親面やめて〟
〝もー心配してあげてるのに
ね、ね。もし良かったら一緒に勉強しない?〟
〝私としても、意味ないと思うけど
優等生さんじゃないし〟
〝すぐそういうこという
そんなことないから大丈夫!〟
〝じゃあ、考えとく〟
〝ほんと!? じゃあ部活ない期間になったらまた誘うね
直前に言わないとサキちゃん忘れちゃいそうだし!〟
「んとに、一言多い……っだ?!」
下校時間。帰ろうとスマホを見ながら立ち上がった振り返り際、急に現れた壁にぶつかった。
跳ね返るように後退って見上げると、修行僧がいた。こうして見ると本当に大きい。女の中ではかなり高い方の私でさえ肩に届くのがやっとだ。そんな彼の半袖で、まだ一週間設けられた衣替え期間中だったことを思い出した。クールビズをまだ楽しんでいる彼の身体だけはくたびれた営業マンのようで、夏の匂いがした。今日も朝練をしていたんだろう。
「ごめん、よそ見してた」
「……おう」
癖で「どうも」と言いかけた口をどうにか結んで、横に避けようとする。すると、また塞がれた。私がさすがに引きつった顔を隠せずにいると、横に伸ばされた口元が重々しく開いた。
「日直」
「へ?」
黒板の隅へ目をやる。黄色のチョークで書かれていた白河の文字。そして隣には瀬戸のニ文字。
よく見ると彼の手には、箒と塵取りというオーソドックスな掃除用具が握られていた。箒の毛は七三分けみたいだし、塵取りは先端のゴムのところが半分剥がれかけているけれど、それでも掃除をする機能はかろうじて残ってはいるようだった。
「ごめん、完全に忘れてた。もしかして色々やってくれてた?」
もしかしてもなにも、やってくれてないとどこかで文句がきている。黒板が消えてないとか、授業開始の号令がないとか。今にして思えば気だるい低音の号令がかかっていた気がする。
「まぁ、手間でもねーから。でもこれは別だ」
「掃除ね。うん分かった」
この、外に設けられた螺旋階段の掃除が日直の最後にして最大の仕事だった。変に格好つけて吹き抜ける形で校舎の端に作られた、とぐろを巻くような外階段はすぐ傍に植えられた木から落ちる葉が溜まっていく運命を背負ってしまっていた。それを片付けてあげるのが、二年一組の日直に与えられた使命だった。
他の仕事をやってくれたのだから、それくらい任せろと掃除道具をまとめて受け取ろうする。けれど、一向に離してはくれない。
「いいよ。私やっとくから」
「いや、俺もやる。お前だけやってるの見られて、俺がサボったことになるのも納得いかねーし」
「それは、たしかに。でも、部活いいの?」
「テスト前だからな」
「え? まだ一週間きってないよね? うちの部まだ言われてないけど」
「それは、前ヤバかったから。早めに出禁食らった」
「なるほどね」
瀬戸のちょっとふてくされたようなしかめ面に、思わず同情的な苦笑いが漏れた。
部活が一番、みたいな野球部だけれど突き詰めると結局は学生だし、顧問だって先生だ。成績が悪い人間を部活に参加させるわけにはいかないのだろう。それにしても、あんなに部活部活している部がそういうところだけ真面目なのはすごく不自由さを感じた。
というかやっぱり喋れるじゃん。いや私が言えることじゃないけど。
これでいよいよ会話をしようという気が二人ともになかったのが明るみに出てしまった。
「白河もじゃないのか」
瀬戸は私が手提げたカバンを顎で指した。確かに、今日はもう帰ろうとしていたけれど。
「なんでそうなんの」
「最近、見かける頻度が減った。違うのか?」
「ちょっと違うけど、まぁそんな感じでいいや。ちょっと待って」
サボっているわけじゃない。でもそう言い切れるわけでもないからなんだか居心地が悪くて、ちょっと言葉が尖った。ケガを隠しているわけではないけれど、言うのは心配されるの待ちみたいで嫌だった。投げやりに荷物を置き直して、瀬戸を追い抜くように教室を出た。
後ろからは私より少し重い足音が聴こえる。身体の大きい人間が背後にいるという圧迫感はなんだか落ち着かなかった。
「どっち」
到着して、訊く。塵取り役か箒役か。
「……箒」
なんでちょっと考えたんだろう。一瞬そう思って、ああ、と思った。たとえ見えないとしても、見えるのが陸上部然としてたくましい脚だとしても、スカートの前でしゃがみ込む光景はあまり良くないかもしれない。私に女を感じているとは欠片も思わないから、気を回した彼を私はこっそりと褒めた。
中腰になって彼の掃く速度に合わせて後ろに下がっていく。エセ無言同士だからか思いの外気が合った。
「ちょっとしたらまた落ちてくるのに、意味あんのかな」
「たしかに。庭の雑草と同じだよね」
「悪い。ちょっとぴんとこない」
「どうせ生えてくるし、冬になったら枯れるんだからしなくてもいいよねーって話」
こうして近くにいると、性質が近いせいかなんとなく親近感が湧いた。いや、もしかすると重ねた会釈の効果なのかもしれない。会釈が今手元で塵取りに溜まっていくゴミのように積み重なって――――さすがにたとえが悪いか。とにかくでも、仲良くしようとかは相変わらず思わない。明日になればきっと何食わぬ顔でいつもの短い言葉を交わす、そんな関係だ。
「白河」
「なに?」
「お前この後、暇か?」
――——そんな、関係。
いや、少女漫画や少年誌のラブコメじゃないですから、きらきらが背後で舞うような勘違いはしない。しません。
でも。それにしたって、
「最初はこのくらいでいいか」
「……キャッチボールって」
これはあんまりじゃないかな、と思う。少なくとも男子が女子を誘ってやることじゃない。キャッチボールする関係なんて親子が大本命で、次点が友達。その次でもほぼ他人の男女はきっと出てこない。
掃除を終えた私たちは学校近くの公園に来ていた。子供たちがいてもおかしくないそこは微妙な時間帯のおかげかとても静かで、貸し切りみたいだった。一人占め出来たみたいで気持ちが良い。
それにしても、はぐれ陸上女子と修行僧の組み合わせは控えめに言っても変てこだった。それでも捕球の音は爽やかで、それがまたミスマッチ。
「お前、肩強いな。知ってたけど」
「そりゃどー、もっ!」
というか、なんで知ってんの。
「走ってた白河に飛んでった球、投げ返してただろ。それ、見てた」
心当たりはあった。確かに転がって、あるいは飛んできたボールを拾って投げ返した回数は割と多い。悪びれない声の調子で謝ってくる彼らにわざと逸して投げ返したことも数知れない。
「なるほどね。あ、飛ばすのはいいけど方向考えろって言っといて。ほんとケガするから」
「あー、それは悪かった」
「あんたが犯人か」
オウくんとドーモちゃんの仲良しキャッチボールのレベルはかなり高めだった。お互いに捕り落とすこともなく、投げる球もあまりブレることがない。ただ、スカートの下にジャージを履いているドーモちゃんの女子力が壊滅的なのは大目に見て欲しい。
数球ごとにお互いに一歩下がるを繰り返して、あっという間に公園の端と端を繋いだ。そこまでくると流石に私は山なり気味で、ちょっと暴投も怖くなる。こっそり前に戻って、距離を縮めた。
「フォームもきれいだよな。野球やってたのか?」
「まぁね。小学生の頃は、割とがっつり。軟式野球で、男子に混ざってたの。あと、水泳もやってた。肩強くなるからって」
金メダルが欲しくて、なんて身の程知らずでとても他人には言えるわけがなかった。
「水泳もか。最強だな」
「『最』ではなかったかな、三番目くらいだった」
私と同じように水泳も野球も頑張っていた男子に負けたなら、別にいい。でも二番目はちょっと運動が出来るだけの男子だった。遊び半分で来ていて、練習だって半分くらいしか来てなかった子に勝てないというのは、私に野球を飽きさせる一因にはなった。まぁ、昔の話だ。弱い私が悪い。
お互いが一歩ほどしか横に動かない球の交換が続く。ほんとに、こういうことに限って上手くいく。でもリズム良く投げ合うそれは一種の成功体験として楽しく、普段あまり動かさない腕の筋肉にほどよく疲労が溜まっていく感覚自体は悪くなかった。
「…………」
「…………ねぇ」
「なんだ?」
「なんか、喋ってくんない?」
それでも無言で白球の交換を繰り返していると、気まずさに堪えきれなくなった私自身が一番に音を上げた。そもそもこの、瀬戸とキャッチボールをしているという状況自体をまだ受け入れられていないのに。そう文句を言いたくなる。
「なんで」
「なんとなく。交代で良いから話題でも適当に出し合おう」
「じゃあ俺さっき出したから、お前な」
「わかった」
明らかにめんどくさがれているけれど、まぁいい。
訊いてみたかったことは、実はたくさんあった。同じように部活に打ち込んでいる身として。同じようにっていうのは、ちょっと瀬戸に失礼かもしれないけど。
「ずっと野球、出来ると思ってる?」
記録が勝敗の基準になる陸上はタイムとして出てしまう。野球だってやってればなんとなくは分かってしまうだろう。だから、彼はどうなのか気になった。
『競技』を向上心なく続けるのは難しいと思うから。
規則的だった捕球の音が一瞬止まって、でもすぐに再開する。ほぼ真っ直ぐに返ってきた球は少し鋭くて、手がしびれた。
「お前、人の心さらっと殴ってくるよな」
「ごめん。じゃあ、ここに私を誘った理由でも良いよ」
さすがに罪悪感が湧いた。人から自分の未来のなさを語られるのは、ひどくツラい。
フライ気味に投げ返す。一歩、二歩、三歩前に進んで、位置調整。ふらふらと揺れる大男は少し可笑しい。
「それは、同じ部だとどいつも口軽くてバレそうだからな。お前なら話すことないだろ。それだけだ」
会話の端々から野球部の繋がりの強さを感じた。なにそれ自慢ですか、そうですか。私の方は今頃雑談気味に悪口言われてますけどね、なんて。心の中だけで自嘲する。
「まぁ、そうだな」
「え?」
「プロとかは、まぁ無理だろ。甲子園が一ミリも見えない公立高校に来たくせに、大真面目に目指してたとは言えねえし。白河もだろ?」
「それは、まぁね」
多分瀬戸と私が一番似ているのはここ。本気じゃないくせに将来に関わらない目の前のことにだけ躍起になって、未来への構え方が不真面目だ。真面目な人間からすれば貴重な時間を無駄にしている、愚か者たち。
ゆっくりと大振りに投球された球はほとんど落ちずに私の構えた場所に届いた。小気味良い捕球音が手元で鳴る。
「将来どうすんの?」
「適当に大学行って、そんで実家の寺継ぐかなぁ」
「え、まじで寺の息子だったの?」
「まじってなんだよ」
誤魔化すようにまた返ってきたボールを放る。瀬戸の投げる球と比べると緩く、のんびりと向こうのグローブに収まった。
遠目の彼は肩を回しながら、苦く笑っている。まるでジョギングだけをさせられている私のように、どこか欲求不満げだ。そういえば彼はピッチャーだった気がする。中学のマウンドで投げているイメージが会釈の次に印象深い。
腕も疲れてきたしちょうど良いか。そう思って、近付いて座り込む。ジャージを履いてきて良かった。
「いいのか?」
「いいよ、投げて。ゆっくりね、さすがにミットなしで本気は多分無理」
というか、本気で投げられたら絶対無理。強がりでそうは言えなかった。ここで「ぜったいむりぃ~」とか言えば女としては良い感じになれるんだろうか。想像しただけで、背筋がぞわぞわした。
「……さんきゅ」
瀬戸も少し距離を縮めて、改まるように構える。こうやって見ると、ピッチャーというのは羨ましい。自分のタイミングで始められるから。私の脚はスタートの合図で走り出すようにすっかり躾されてしまっている。
そんなことを考えていると、伸びた影が動いた。振りかぶって、投げた。
来た。そう思った瞬間、ピントのずれた白はすぐ胸元に迫っていた。慌てて、衝撃に備える。
「――――お前、すごいな」
「……っ、褒めるよりも心配しろばか」
空に響いた音は、破裂音にも似ていた。
なんとか堪えたけれど、余韻でバランスを崩して尻もちを着く。逃げるように捕っていたら、肩が持っていかれていたと思えるくらいの勢い。グローブごと軽く振ってみても、手にはまだジーンとしたしびれが残っている。
このやろう。
「ゆっくりって言ったのに、速すぎ」
「悪い。久しぶりだったから、加減がわからん」
「あれ、そうなの?」
瀬戸は私の投げた球を雑に受け取って、足で掻くように地面を整えていた。
視線を下げているから、表情はあまり見えない。
「……高校だと俺、サードだから」
「そうなんだ。中学のイメージしかないや」
「違う部とはいえ一緒のグラウンドにいても気付かないもんなんだな」
ごめん、それは多分無頓着な私だからだ。
最近たまにグラウンドに顔を見せるようになったハルでも気付いている気がする。
「出来そうか? 無理ならさっきのに戻すけど」
「いい。でももうちょっとだけ加減、よろしく」
「了解」
手のしびれはじくじくと疼きに変わっていて、これを五十球も捕ったら明日はお箸が持てるか怪しい。いや、受けているのは箸を持たない方の手だけれども。
次に来たのは気持ち遅く、捕るのに余裕が生まれた。それでもちょっと痛いから、気を紛らわせるように雑談を再開することにする。
「ほら、次そっちの番」
「白河に聞きたいこと、か」
「なんかあるでしょ。スパイクの手入れの仕方とか、筋トレの仕方とか」
「それは、どうなんだ」
怪訝な顔をされて、ちょっと残念。どっちも私が引き出せる話としてはクオリティに自信があったのに。
「じゃあ恋愛相談とか聞いてあげてもいいよ。あるならだけど」
これは、と思うおすすめなんかを教えてやろうと少し心の中でエンジンを掛け始めたとろこだったのに興ざめだ。投げやりに絶対になさそうな話題を振ってやった。
「じゃあ……椎葉」
そんな中、彼から届けられた単語は本当に予想外だった。同じクラスだった時も話しているところなんかほとんど見たことがないし、どんな色の線で繋いでも瀬戸と彼女が結びつきそうもない。あるとしたら、実は中学の頃から好きだったとかいう、すももくらい甘酸っぱいパターンだろうか。
「えっ?! ハル?」
「いや、お前ら付き合ってるのかなって」
「……は?」
面白そうだと食いついたら、もっとすごいのが投げつけられた。まず瀬戸がそんなことを訊いてくるなんてっていう、『は』が衝いて出た。この『は』にはもうひとつ意味があって、『お前ら』って言うワードへ向かっても吐き出されている。
「誰と、誰が?」
「お前と、椎葉」
短く簡潔な言葉と共に飛んできた球への反応は遅れて、捕りきれずにボールを落とした。私にエラーが記録された。拾うのも忘れて、瀬戸を呆然と見る。
「どっちの反応か分かんなくて、困るんだが」
「いや、分かるでしょ。ないない、絶対ない」
「周りはそう思ってないってことだろ。噂になってるし」
「…………まじ?」
「大まじだ」
修行僧の口から紡がれる軽い言葉は、ひどく現実感がなかった。
私が? ハルと?
「最近よく一緒にいるからじゃないか」
細かいことを聞いていくと、どうやら一緒に歩いているところなんかを目撃されているらしい。それも用もないはずの体育館の方から、二人だけで。
いや、でも。それでもだ。
「全然納得いかないって。男と女ならまぁわからなくもないけどさ……女女でそんな噂になる? もしかして私、男だとでも思われてるの」
「そういう説もあるな」
「いや、ないでしょ……」
さすがに漫画や映画の影響を受けすぎだ。男が女、女が男、どちらも使い古された設定だけれど、人の目はそんなに節穴ではない――――いや、どうだろう。私とハルがそういう関係に見えてしまうというのなら節穴かもしれない。
「それくらいお前が人といるのが珍しいってことじゃないか」
「それは、ちょっと納得。というか、そんなあんたもそんな噂気にするんだね。なに、ハルのこと好きだったりすんの?」
言った後にそういえばまたハルの話になっているな、と思った。美術室の彼とも、瀬古とも、ハルばっかりだ。考えてみると、学校では独りかハルと一緒の時間しかないわけで自分のことを話さないならそうなるのは当然だった。
「ねぇよ。まぁ人気はけっこうありそうだけどな」
「へぇ」
確かに男受けの良い、可愛い顔をしているとは思う。外向けの顔は言わずもがな良く、愛嬌よく見える仮装も完璧。なるほどハルはけっこう人気があるのかもしれない。私の知らないところで振った男子の因縁があって、それが悪意になって私との噂の根拠付けにでっち上げられた、という線もありえなくはなくなった。
魔性の女説を考えると、なんだか瀬古の否定も本音の裏返しに思えてくる。もちろん、カレがぱたぱたと繰り返した雛鳥みたいな否定も。
「男子的にはあの身体、ありだもんね」
「おっさんかよ」
私は男役みたいですから、なんて調子良く言ってみる。
思い出すと絶世の美少女! とは言わないまでも中の上くらいに整った女の子が浮かび上がる。なにより、私が隣にいても構わないと思うほどには嫌味がない。彼女の七十点以上の笑顔は魅力的で、優しげな大きめの目も相まって人懐っこい。
抱き心地もきっと良いんだろう。太い骨を内包している太ももであの柔らかさだったんだから、それは間違いない。
「それにしても、目立ってる方でもない女二人の噂がほんとによく生まれたもんだね」
特に私なんか、ハル以外のどことも繋がれてない。
「色恋沙汰だからじゃないか」
「そういうもん?」
「なんか、青春の花らしいぞ」
「なにそれ」
「知らん。聞いただけだ」
「誰が言ったの?」
「浅野、ってわかんねえか」
む。馬鹿にされた気がする。こうなったら当ててやる。
「分かるよ。教室の真ん中の一番前でよく寝てるやつ」
「それは杉崎」
「私の二つ後ろの席」
「おしい、麻田」
「じゃ、じゃあクラスで一番背の小さい、」
「中村だ」
「降参」
「ちなみに、浅野はうちの野球部の顧問な」
「いじわる問題じゃん! 尊敬を込めて呼べ」
「尊敬してるのか?」
「…………あんまりしてない」
それにしても、青春の花か。
恋は盲点だったかもしれない。あんまりに自分に縁と意識がなさ過ぎて、頭から飛んでいた。ついでに言えば、知識もない。その先の知識は無駄にあるというのに。
恋を青春にするハードルはなかなか高いことは分かる。恋人になるってことはあの男子たちの視線に内包されたいやらしさも、狡さも受け止めてあげるということだろうから。
「あんたは恋とか、しないの?」
「周りはまぁ、色々してぇしてぇって言ってるよ」
自分を入れずに、逃げたのは分かった。
「それ別の意味でのしたいでしょ」
たしかに、なんて笑い合う。
ほら、男子はやっぱりしたいことばっかり。飢えてる人間は、そういう行為がしたいだけだ。キスがしたい、セックスがしたい。その感情を「恋がしたい」なんてきれいな言葉で隠しているだけ。
青春の花、なんて言葉もきっと嘘。花なら咲くまで愛でてあげればいいのに、見られる側もうんざりするような形ですっぱ抜かれる。それで枯れても良くて知らん顔、もっとひどいとそれでもう一騒ぎしてやろう、なんて邪推を始める。それは女子も同じか。とにかくみんな、飢えすぎて他人の幸せを黙って祈れなくなっているんだ。
「で、あんたの意見まだ聞いてないけど? あんたもしたいの?」
「……まぁ、したいだろ」
「性欲坊主」
「なんだよ。そんなもんだろ、人間なんて。キスがしたい、セックスがしたい。結局そこだ」
主語をでっかく取る時は正当性が欲しい時。
恋の話なのに、キスやセックスを引き合いに出す辺り、瀬戸はやっぱり私と似ている。私も性欲坊主なのかもしれない。噂とくっつけるなら、性欲オトコ女か。一気にゲテモノ化してしまった。
その後も距離を離したり、縮めたりしながら球遊びをした。ちなみに変化球を教えてもらったけど、手が小さいせいか上手くはいかなかった。無理に投げようとしたせいで指の間がひりひりと痛む。
帰り際、その痛みと熱く火照りだした手を慰めていると、帰る準備を終えた瀬戸と目があった。
「まぁ、なんだ」
「なに」
「負けんなよ」
「……ほんとに、なに?」
締めのキャッチボールの終了と同時、謎の応援が向けられた。さっきまでの円滑な会話はどこへ、スイッチが切れたみたいに成り立たない。順調に走っていたのに、ぷっつりと線路が切れてしまったような。
「色々だ」
噂に対しての応援。部活に対しての激励。瀬戸がものすごく鋭いと仮定するなら、陸上部員との人間関係へ向けての励まし。もっとなら、怪我をした私へ向けた優しさ。
考えるだけ無駄だ。結局どれでも私には響いてない。
それにしても激励というには「負けるな」は絶妙に具体的だ。
まるで、敵がいるみたいじゃないか。
「大きなお世話。そういうあんたこそ、勝つんだよ」
瀬戸が、おう、とすぐに手を上げたのに驚いた。彼には、敵が見えているのか。私には視認すら出来ないのに。なんとも言えない敗北感を覚える。
「また今度付き合ってくれよ」
「考えとく。今度投げたいならミット持ってきてよ。まだ手、痛いんだから」
「あ、でも椎葉に悪いか?」
「そーだね、二人の時間が減っちゃうしね」
「そこは否定しないんだな」
否定するところだったのか、と思った。さっきまで噛み合っていたのに、なんだか煩わしい。こんな、少しの動揺で上手くいかなくなるような繊細な関係じゃないのに。
答えに困っているうちに、彼はもうこちらを見ようともせずに鞄を肩に掛けて去っていく。
「勝つ」
代謝のいい、汗だくの大きな背中に向けて呟いてみた。
同じ言葉をかけようとして、私の口からは「勝つんだよ」に変換された。瀬戸とはあんなにも馬が合ったのに、最後の最後で最初のボタンのかけ違いに気付いてしまったような、そんな気持ち悪さが残っている。あんなに似ていても、通じ合えないものなのか。
もやもやした胸の内を溶きほぐす内に、彼はもう見えなくなった。
あっという間に公園に独りの音が満ちて、汗を鋭く凍らせていく。最近すっかり過敏になってしまった私の耳は、孤独の幻聴が聴こえる。右耳はあるはずのない喧騒を捉えて、私をざわつかせる。そして左耳は黄色を帯びた、せせら笑い。私はその次に鳴る殺意の込もった言葉を知っているから、せめてもの抵抗で左耳をちょっと赤くなった手のひらで押し潰す。色を混ぜ合わせるみたいに。他人とのキャッチボールで熱もった手は、いつもより優しかった。
そうして、休憩スペースに置いていた鞄へ手が伸びた。スマートフォン。通知は部活に行くのかの確認と、それに反応しなかったことへのちょっと拗ねたようなスタンプ。返事を打つ。
本当は電話が良かった。でも、今ハルの声を聴いたら泣いてしまう気がした。また意地が、邪魔をした。
〝ごめん、ちょっとキャッチボールしてて気付かなかった〟
〝えっ! 誰と?〟
〝中学も一緒だった瀬戸って覚えてる?
そいつ〟
〝あの瀬戸くん? なんでまた〟
〝日直一緒でさ、誘われた〟
〝うわー、ちょっとみてみたかったかも。サキちゃんが野球してるのちっちゃい頃に見たっきりだし〟
〝見てもしょうがないでしょ
それより瀬戸から聞いたんだけど噂、知ってる?
私とハルが付き合ってるとかいうやつ〟
メッセージの隣に既読が着いた後、いくらか間があった。少し心の音が大きくなる。返事を待つという、それこそ恋人がするような行為を噂の二人がしているという事実に、当事者ながら変にどきどきした。
〝別に、気にしないほうがいいよ! ただの噂だし、嘘ばっかりだもん〟
そう、真実は私が物好きな彼女を暇潰しに近い青春大作戦に利用しているという、非常に情けない話。
同意の返信をしようとして、でもちょっと黒い感情が生まれた。噂を消すには同じような事実で上書きするのが手っ取り早そうだ、なんていう思いつき。その思いつきはなし崩し的に嵌っていくパズルの最後の方のピースたちみたいに、あっという間に具体的な計画になっていく。こちらから一方的にした約束を悪用する時が来た。カレとハルをくっつけて、噂を塗り潰してやろう、なんて。
ハルを思いのままに動かせば。そうすれば、またあの満ち足りた感情を手に入れられるんじゃないかって。
〝そういえばハルは、付き合ってる人とか好きな人はいるの?〟
〝突然どうしたの〟
〝ちょっと気になってさ。で、どうなの?〟
〝いると思う?〟
……いない、と思う。
だって。
だって、いたら私とお昼ご飯を食べてくれたり、部活を見に来てくれたりなんて、きっと、きっとしてない。
そう、してない。
そんなもんだ。私の価値なんて、体のいい暇つぶし。
〝ハルは外面良いし、人気はありそうだけど〟
〝サキちゃんが褒めるなんて変なの〟
文字を打つ度、なぜたか心が苦しげに音を立てる。でも、私の手は勝手な暴走を続けていた。良いことじゃないか、なんて言い聞かせながら、心を押さえつけている。
「なにそれ」そう笑った私にまさしく呼びかけるように、続けて届いた。
〝ねえ
もしいないって言ったら、どう言葉を続けるつもりなの?〟
〝明日、放課後空いてる? って続けようとしてた〟
〝空いてるけど、どうして?〟
〝ちょっと、紹介したい人がいて。会ってあげて欲しい〟
〝男のひと?〟
〝うん、ひとつ下の後輩なんだけど。ハルに会ってみたいんだって。
きっとあの子、ハルのこと好きだよ〟
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