先生と私の怪異目録
小鳥遊
回想:私について
昔から、他人には見えないものが私には視えた。
世界のふとした隙間から覗く幽かな影を、この眼は捉えることができた。影は一つとして同じ形をとらず、在り方からしてどれも別種だった。それらを総じてなんと呼ぶべきか。世の理の綻びからはみ出した魂の焼付け。心の残像。或いは存在の残響。明確な答えを私は持たない。
しかし、そうだ。いわゆる幽霊と呼ぶのが判りやすい。あらゆる生から隔絶され、お互いに認識しあうことすらままならない。どこまでも孤独な魂の残り香だ。
否、もっと曖昧に『お化け』と呼ぶのが良いかもしれない。脚の無い透けた女や、音も熱もなく通り過ぎて行く火の玉。高速道路を走る透明な蒸気機関車に、高層ビル街の上空を飛行する片翼の零戦。
物心がつく前までは、そういうモノがそこらに居ることに何の疑問も抱かなかった。周囲の人々の目も当然同じ景色を映していると私は信じていたのだ。
勿論それは間違いだった。私の兄には、天井に浮き出る男の顔が視えなかった。近所のトンネルを延々と往復し続ける人面大蛇の存在を、私の友だちは認めなかった。認識のずれに戸惑う私を指して、幼い友人らが言うにはこうだった。
「さっちゃんの嘘つき」
「さっちゃん気持ち悪い」
「さっちゃん、どっかいって」
さもありなん。いつしか幼いさっちゃんは、つまり私は、やがて『お化け』から目を逸らすようになった。お化けなんて無いさ。お化けなんて嘘さ。そんな歌を口ずさみながら、しかし私の眼は確かに異形の幻影たちを映し出していた。彼らが恐ろしい訳ではない。煩わしい訳でもない。
だが、幼くとも要領が良い方だったらしい私は身の振り方を理解していた。少なからず愛着を持っていた自分の世界の一部を、日常から切り離すことを私は選んだ。この時はじめて、半身を失ったような心地というものを理解できたと思う。
「なぁに。悲しむことはない」
いつだったか。横断歩道の傍らに置かれた花束を、その傍の空間を見つめて黙っている私にそう言った人がいた。優しい声。その主は祖父だった。私と祖父は手をつないで歩いていた。どこか出先から戻る途中だったと覚えている。
「お前が彼らを無視しようが、どう思おうが、誰に視えようが視えまいが。そんなことに何の意味もないんだよ。お前が太陽を好いても嫌っても、朝は来るし夜になる。それと同じさ。彼らはただ在るように在るだけだし、お前が何を思いやる必要も無いんだ」
「だから、お前が視ているその子を憐れむのは止めなさい」
突然車がやって来たのは、それが止まれなかったのは、運が悪かった。残念だった。
でも、同情も度が過ぎるといけない。彼らに魅入られてしまう。引きこまれてしまう。そうしたらもう、帰ることは出来ない。優しく、しかし静かに強く言い聞かせる祖父に、私は頷いた。
私は祖父が大好きだった。彼の言葉には素直に従う、そういう孫だった。だがこの時は、その限りではなかった。おじいちゃんは何を言っているのだろう。だって、あの子はあんなに可哀想なのに。あんなに血だらけで、痛そうなのに。腕も脚もボロボロなのに。千切れかかって、デコボコになって、踏まれた空き缶みたいにかわいそう。
だと言うのに、誰にも私にも無視されて。ずっと独りぼっち。そんな子を放っておくなんて。それに――引きこまれてしまったとして、何が問題になるのだろう。だって其処はきっと、とても懐かしい。
愚かしくも、幼い私はそう思っていた。本当に馬鹿だったと思う。当時の私は無知だった。私の眼は実のところ、彼らの在り方の一面を捉えきれていなかったのだ。闇に触れる時、常に胸に抱えておくべき気持ちに。恐れに、目を向けて居なかったのだ。
今思えば、祖父は知っていたのだと思う。私がどんなに危うい場所に立っているかを。だからこそ、祖父の表情と声はどこまでも優しい一方で、握った彼の手はしっかりと私を繋ぎ止めようとしていたのかもしれない。
今でも独りで横断歩道を渡る時、そんな思い出がよく頭に浮かぶ。あれから十年。祖父は他界し、私の手を引く人はもう居ない。それを寂しいと感じなくなって久しいが、時折浮き上がってくる思い出はいつも懐かしかった。そして、ノスタルジィの端々には『彼ら』の姿も在った。時に恐ろしく時に美しく。或いは哀しみを伴って。
今でも彼らの存在を感じるし視えてもいる。しかし努めて弔おうとか、理解しようとはしなくなった。そのためか、彼らについては相も変わらず判らないことだらけだ。彼らはいつも曖昧で、正体不明で、少し恐ろしくとも不思議である。否、そういうものとして、私は自分の世界に線を引いたのだ。
あの時、あの子の白く濁った眼は何を映していたのだろう。
その答えを、今の私は知ることができない。
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