魚の話(中編)
滝のように流れ出る汗が鬱陶しい。にも関わらず、今の私は炎天下に突っ立って信号待ちをしていた。
届け物を入れたトートバッグが重い。年代物のハードカバーが、そこには収まっている。体中の水分がどんどん消費されていくのを感じる。それでもこれは仕事なので仕方がない。
行き先は古書店『妙倫堂』のオーナーの自宅だ。彼もうちの常連である。私の祖父が店主だった頃からずっと、我が喜善堂を贔屓にしてくれている。互いに取り扱う書籍はジャンル違いなので、客を取り合うこともなかった。そういう事もあり、私は幼い頃から可愛がってもらっている。
オーナーは年齢の割に若々しく健康な人である。だが、暑さだけは大の苦手らしい。今日の様な日にはおいそれと出歩けないとのことだ。とは言え、読書家な彼のこと。どんな日でも本は読みたい。特に取り寄せを依頼してまで読みたかった本であれば、今すぐにでも……という訳で、妙倫堂オーナーの依頼で仕入れた本を私はこうして彼のところまで届ける最中なのだ。徒歩で。
何と言うか、我ながらお人好しというか、仕事熱心な人間である。負け惜しみのように自分を褒めて、私は深く深くため息を付いた。
暑さに項垂れていた頭を上げると、横断歩道を挟む向かいに鰻屋が目に映った。内心、舌を打つ。また嫌なものを見てしまった。店の前には水槽があり、中を生きた鰻が何尾か泳いでいる。生簀(いけす)だ。私はこれが少し苦手だった。通学でこの道を通る度、生簀の中の様子に憂鬱になる。
生簀が置かれている場所は、どうにも日当たりが良すぎる。直射日光に晒されているからだろう、見れば何匹かの鰻は既に水中を仰向けになり、ぷかりと浮かんでいた。既に虫の息である。どうせここを泳ぐ鰻は蒲焼か鰻丼か肝吸い等にされてしまう運命なのだから、いちいち陰鬱になるのも大人としてどうかなとは思う。それでも私は、狭い生簀を、彼らの必死な泳ぎを、浮かんだ白い腹を、黒く虚ろな瞳を……見る度にこう感じるのだ。
可哀想にと。
やがて歩行者信号が赤から青に変わった。陰鬱な気分を振り払って私は歩き出す。さっさと用事を済ませてしまおう。水出しコーヒーの冷たさの、なんと恋しいことか。昨日の夜仕込んでから今まで、冷蔵庫で私を待っているそれのことを想うと、暑さも少しだけ紛れた。
それがいけなかったのかもしれない。先生風に言えば、横断歩道は現代における境界線の一つにあたるのだろう。空間と空間の、その狭間の上で私の心は自宅の冷蔵庫の中身なんかを思いやっていた。それは多分、彼らに行き逢う隙となったのだ。この時私がどんな状況に在ったにせよ、心ここにあらずな状態で境界に立つべきではなかった。これは先生の受け売りになるが、古来より境界には人心を乱す何かが在ると考えられていたという。だからこそ人は、川に、橋に、坂に、道に、神的シンボルを据えた。人の精神をあちら側に引きずり込もうとする何者かに備えたのだ。それは或いは境界を渡る人々に神仏を意識させることで、気を確かに持たせる意味もあったのかもしれない。
『右を見て、左を見て、手を上げて、気をつけて渡るのよ』
子どもと横断歩道を渡る時、大人はこう言い聞かせる。子どもにもわかりやすい形で気の持ち方を教えるのだ。一方で大人たちは、もはやこんな儀式を行うまでもない。殆ど反射的に、無意識にでも横断歩道を『注意しながら』渡ることができる。境界線を越える際の気の持ち様を、私たちは幼い頃から何度も反復し心に刻んでいるのだ。だが、この時の私は違った。ただぼんやりと、境界の上に立ってしまった。
世界が反転した。唐突にそう感じて、私は横断歩道の上でうしろを確認する。其処は見知らぬ林の中、などということは勿論ない。あるのは当然、見知った町並だ。だが何故か、私には全てが疑わしい。否、もっと曖昧な、これは違和感だ。
「ここ、何処だっけ」
そんな言葉が口からこぼれ落ちていた。知らない場所に立っている気がする。冷たいものが背筋を伝う。頭上の青空には燦々と輝く太陽。だが空気は氷のように冷たく、寒い。視界は霧がかったように曖昧だ。状況をまだ把握できていないが、耳を澄まし目を凝らす。じっとそのまま数秒間。いや数十秒。数分が過ぎたかもしれない。それからようやく気づいた。違和感の正体に。聞こえないのだ。一切の音が。ほんの一寸前までけたたましく響いていた蝉の声さえも。そして、何故今まで気がつかなかったのだろう。
此処には、私以外の人間が居ない。車道を走る車もない。私の視界から、意識から、この世界から。本当に唐突に、動くものは消えていた。気がつけばトートバッグの中に手を伸ばして、携帯電話を探していた。一体、どこに連絡しようと言うのか。それでも誰か親しい人の声を聞かずには居れない。安心が欲しいのだ。今すぐに。だが、指先は携帯に触れることが出来ない。否、そもそも指が動かない。俗にいう金縛りだという事に私は遅れて気がついた。この身体は既に自分の制御の下に無い。そのくせ歯の根だけは合わないでいる。
かちかちと音をたてて五月蝿い歯を無視して周囲に意識をめぐらせた。それ以外に、出来ることは残されていなかった。耳を澄ます。何も聞こえない。目を凝らす。動くものは無い。だから私は少しだけ安堵した。今の状況で自分以外の影が無いことは、寧ろ安心すべきことのように思えたのだ。
そう。人は居ない。では、人でないものは?私の視線は、ゆっくりと正面方向に焦点を結んでいく。そこにあるのは生簀だ。視界の中で曖昧だったそれが、少しずつ確かな像を結んでいく。まるで私の心を侵食する黴のように。暗く、冷たく、穢らわしい汚泥のように。生簀の中身が、その影が、私の視界を侵していく。
居る。
無数の影。生簀の中で蠢いている。裸の男児たち。無表情なまま幾つも折り重なって蠢いている。ぴちゃり、ぴちゃり。跳ねる水が音を立てる。無数の視線が私を貫く。見られている。私は、離せない。視線を、彼らの白い腹から。虚ろな瞳から。
声が出ていたらきっと叫び出していた。しかし、喉からは掠れた悲鳴が漏れるばかりだ。強烈な匂いが鼻腔を汚していく。吸った空気から肺が穢されていくのを感じる。
何かが腐ったような匂い。臭気にえずきかける。湿った呻きが腹から吐き出された。
途端、生簀の中身達が一斉に、身を蛭のように『うねらせ』はじめた。私の苦しみを祝うように。呪うように。
「名告らさね」
抑揚の無い言葉。その声には聞き覚えがあった。今朝の電話。無機質な、湿った声。それを発したのは生簀の中の彼らだった。無表情に開かれた口の中には、奈落への闇が広がっている。私は直感する。この言葉に応えれば、恐らく我が家には帰れまい。だが意志とは無関係に、喉と舌が発そうとする音は、紛れも無く自分の名前だった。
「 さ 」
呼吸が詰まる。喉がひゅうと鳴った。首元の筋肉が張り詰めて、横隔膜を持ち上げる。嘔吐の直前に感じるような全身のひきつり。強張った身体の奥で私の脳味噌は、不思議と恐怖からは離れていった。代わりに考えていたのだ。私が一体だれに電話をかけたかったのか。だれの声を聞きたかったのかを。
唐突に音が響いた。澄んだ音。高く硬質だが金属音よりも柔らかな、それは透き通る硝子のイメージを描かせた。恐怖と怖気で朦朧とした頭を清める、涼し気な音色だ。私はこれに聞き覚えがある。風鈴。音を聞く内に、身体が軽くなっていく。安心感が胸を埋め、身体に熱が蘇る。脳裏に浮かんだのは、祖父の顔だった。
「名告らさね」
生簀の子供が再び唱える。だが、私は応えない。呪縛は既に無かった。
「名告らさね」
応えない。音は響き続けている。
「名告らさね」
そして、三度の問いかけの後、彼らの気配は虚空に溶けていった。気がつくと視界は変わっている。見覚えのある場所だった。喜善堂の店先だ。周囲を満たすのは蝉の声。それだけではない。遠くを走る車の音も。人々の声も。膝から力が抜けて、その場にぺたりと座り込んだ。だが構わない。神か仏か誰の業かは知らないが、私は帰ってこられたのだ。
「やぁ」
突然、ぬっと頭上に影が差して、飛び上がる程驚いた私は声を上げた。
「さっきは言い忘れたのだけれど」
君は随分可愛い声で驚くね、と微笑う影。先生。
しばらくの後。ようやく平静を取り戻した私は、先生の手にある物に気づいた。
「お茶碗、ですか?」
「そうだよ」
彼の手が握っているのは小ぶりな茶碗だった。店で見たものとは違う。
『とうとうお金が無くなって、托鉢僧でも始めたのですか』
怯えた顔を見られたのが悔しかった私はそう言いかけて、しかしある事に気がついた。言葉を飲み込んで、代わりに問う。
「先生、そのお茶碗。もしかしなくても私のじゃないですか」
淡い桜色をしたその碗は、側面に桜の花びらの形がレリーフ状に刻まれている。実家に居た頃から使っている私は、密かにこの茶碗がお気に入りだった。「そうだよ」と言って先生は再び微笑む。
「君の店を出た後、僕も妙倫堂に向かったんだ」
私の行き先を知った彼は、一足先に妙倫堂にて待ち構えることにしたという。先回りして、私を驚かそうとしたらしい。妙倫堂までは大通りにでて横断歩道を渡り、鰻屋の傍にある路地を入ればすぐだ。例の横断歩道を渡った彼は生簀の中を泳ぐ鰻を横目に道を急いだ。
「後から来たのを脅かしてやろうと思ったのさ」
「子供ですか貴方は」
さて、妙倫堂に着いた彼はほくそ笑んだが、待てども私は一向に現れなかった。約束の一時間が過ぎてもやってこない。不審に思いながら彼は、さては用事が無くなったのかと喜善堂に一旦戻ることにした。
「君のことだから、何も言わずすっぽかすということも無いだろうけど」
「はぁ。まぁ」
だが道中私とすれ違うことはなく喜善堂にも姿はなかった。彼は首を捻り、ひとまず喫茶店にでも行こうと道を戻る中、あることに気がついた。件の鰻屋の生簀が、空になっていたのだ。それで嫌な予感がしたのだという。
「これはまさか、君が隠されたんじゃないかと。そう思ったんだよ」
ある日突然、人が姿を消してその後一切現れなくなることがある。そういう者を大勢で探しても見つからない。これを古の人々は神か天狗の仕業だと考えた。
所謂、神隠しだ。これに遭った者を探す方法は地方によって異なる。例えば、名前を呼ぶ。太鼓を叩く。鐘を鳴らす。そして『隠された者』の茶碗を叩く。これが、先生が選択した手段だった。
彼は再び喜善堂に舞い戻り私の茶碗を探しだすと、それを叩きつつ妙倫堂との間を歩き続けていたのだそうだ。
そして彼は夕方になって、ようやく私を見つけることが出来た。
「いやぁ、何にせよ見つかってよかった」
そう言う先生はのほほんとしているが、経緯を聞いた私は絶句した。先程体験した異常を置いても、何より彼に驚かずには居られなかった。行方を消した人を探すのに、茶碗を叩いて歩く者がどこの世界にいるというのか。起きた異常に対して同じく異常で対処してしまう人間が一体どこに。
「先生」
「なんだい」
夕暮れの日差しを受けた彼の髪は、燃える黄金のように見える。茜色の景色の中、彼の蒼い瞳と藍色の浴衣だけが別世界の風景のように輝いている。
「先生はもしかして」
私の言葉を先生は微笑んで待つ。神様は多分、こういう風に微笑うかもしれない。彼の全てが、この現世の中で光って見えていた。その光が余りに眩しくて、一切が有耶無耶になりかけたけれど、私は敢えて尋ねることにした。
「もしかして、うちの台所に入ったのですか」
「え? そうだけど」
「……それ、不法侵入ですよ」
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