魚の話(前編)

「十六歳の夏」という言葉に、人は何を想起するだろうか。十代ならば得も言われぬ期待感を持つかもしれない。未だ見ぬ冒険。未だ見ぬ青春。きっと未来は最高のイベントで詰まっていて、だから十六歳の夏は絶対素晴らしい季節になるはずだ――


 ――なんて。


「ある訳ないよねぇ」


 そう残酷にも現実を口にしたのは、目の前の少女だ。眼鏡の奥の理知的な瞳に柔和な笑顔が眩しい。彼女は西山さん。私の同級生である。


「西山さんはひょっとして、結構なリアリストだったりするのかしら」


 勘定台を挟んで、彼女に釣銭を渡しながら私は問う。彼女は客で、私は店員だった。


「そうでもないよ。何だかんだで私も素敵な夏には憧れちゃうし、奇跡的で劇的な、甘いラブロマンスなんかにも興味あるわ」


 この本みたいにね、と微笑んで彼女は今しがた購入した恋愛小説を指差す。私が勧めた本だ。


「意外ね。貴女、真面目一辺倒なイメージがあるから」


 恋愛ものに興味があるとは思わなかった。学校では実直で品行方正を絵に描いたような彼女が、今朝来店するなり『お勧めの恋愛小説を教えて!』である。私は少々面食らってしまった。


「やだなぁ。本当に真面目な子なら、夏休みは勉強漬けよ。だから今こうして趣味に現を抜かす私を、真面目とは呼ばないの。十代女子らしく恋に関心だって持つよ」


「……真面目の基準については、貴女と大きなずれを感じるけれど」


「そう?まぁ、でもいいのよ。真面目なんかじゃなくても。だって、折角の高校二年生の夏休みじゃない。楽しまなきゃ損だわ」


「それについては全く同感ね」


 西山さんの言葉に私は頷く。彼女はこの店、古書店『喜善堂』の常連客だ。読書と創作をこよなく愛する少女。彼女はこの休暇中に、様々なジャンルの物語を片っ端から読破するつもりらしかった。きっと充実した夏になるだろう。


「じゃあ、またね。喜善堂ちゃん」


 喜善堂ちゃん、とは西山さんがつけた私のあだ名である。


「ええ、また。お買い上げありがとうございました」


 常連客に私は軽いお辞儀を一つ。ガラリ、という音と共に西山さんが店の戸を開く。その瞬間、騒がしい蝉時雨と共にむわりとした空気が侵入してきた。季節は真夏だ。あらゆるものが熱を帯び、体力を奪う毒と化す。空気でさえも。あまりの暑さに私は呻き声を出してしまう。


「ほんと、今日も暑いねぇ」


 と言って振り返る西山さん。彼女の、少し汗ばんだ笑顔は可愛らしくも美しく、私のしかめっ面とは全く対称的である。彼女が自分と同い年で、同じ夏を生きている存在だとは到底思えない。彼女が望めばラブロマンスなんて、その手の中の文庫本より易く手に入るだろう。「良い夏休みを」そう言って文学少女は丁寧に戸を閉め店を後にした。去り際の少女の、背を泳ぐ黒髪を見送って私は呟く。


「良い夏休み……ね」


 楽しまなきゃ損だわ。と西山さんは言った。自分もそう思う。だから、私の主観においても彼女による客観によっても、今の私は絶賛大損中である。


「乾いている……」


 私を含め、高校生は絶賛夏休み中。花の十代にとっては人生のピークだ。だと言うのに、私は今日も今日とて勤労少女だった。小さな街の一角に構えた古書店。それが私の生業である。とは言え、本当に生計を立てている訳ではない。学校にだって通っているし、なんのかんの親族や友人らの世話になっていて、店主の真似事をしているに過ぎない。それが現状だ。日々、食事代と店の維持費の一部を自分なりの商売で何とか賄っている。


 学生と自営業という二足のわらじで歩く生活を、同年代と共有するのは難しい。


 だが多少は自慢でもある。馬車馬のようにストイックな生活を送る自分を、誇らしく思わないと言うと嘘になるだろう。だが――


『奇跡的で劇的な、甘いラブロマンスなんかにも興味あるわ』


 ふと西山さんの言葉がリフレインする。そう。この乾いた生活に一体、何の価値があろうか。特に今の季節には。夏休みを迎えても、相変わらず視界の中の世界は紙と文字とハードカバーの山のままではないか。


 戸から外を見やる。視界の先のアスファルトは炎天下に晒され、供給過多の紫外線と蝉の声を貪欲に吸収してゆく。ここは無数の本の壁も相まって、外ほどではなくとも温度は高い。小さな扇風機は回しているものの効果はいまひとつだ。汗で濡れたシャツが背中にぺったりと張り付いている。だからと言って店の裏でシャワーを浴びるわけにもいかない……いや、ちょっと位は良いんじゃないか?


 内なる悪魔の囁きに、なけなしの乙女心が傾く。そうだ。汗だくのまま接客というのはいただけない。それに、そろそろあの人もやって来る頃で――


「ジリリリリン」


 突然けたたましい音が店内に響いた。勘定台の傍に置いてある電話の呼び鈴である。シャワーの誘惑に後ろ髪を引かれたままではあったが、否、自分の場合は乙女心よりも商売気だろう。電話対応も立派な業務だ。気を改めて、私は受話器を取る。


「もしもし。喜善堂ですが」


 沈黙。


「もしもし……?」


 所謂、無言電話だった。最近多い。恐らくは同一人物だ。毎日この時間帯にかかってくる。今のところ無害そうではあるが、客の多い時間帯になると厄介である。わざわざ悪戯に付き合って、仕事を邪魔されては敵わない。


「あの。ご用件がおありでしたら、直接ご来店されてはいかがですか」


 そう言って、しまったと思う。些か攻撃的だったろうか。本当に来られても対応に困る。真っ当な客という訳でもないようだし。だが、そんな焦りをよそに受話器の向こうは黙ったままだ。再度声をかけてみる。


「失礼ですが……」


 ごぼり、という曇った音が返ってきた。何の音だろうか。よく聞こえない。流石に訝しんで、受話器に当てた耳をすます。微かに水の流れるような音が聞こえた。ノイズだろうか。


「……ら……ね」


 人の声。古いレコードのように不明瞭で雑音が多い。もしや、電波状況が悪かっただけなのだろうか。相手はずっと、何かを話していたのかもしれない。


「もしもし?お電話が少々遠いようなのですが」


「なのらさね」


 突然返ってきた人の声に吃驚する。子供の声だ。少年のようにも、少女のようにも聞こえる。どこか無機質で、しかし湿った音だった。


「あの、ご用件は」


 今度は、ごぼぼ、というノイズが返ってくる。遠くで誰かが喋っているような気がする。先程は「なのらさね」と言った。名告らさね。そういう言い方が古語にあった。こちらの名を尋ねているのか。だが喜善堂という店名は最初に伝えた。もしかして私の名前を要求しているのだろうか。何のために。何かおかしい。だが疑問が解決していないにも関わらず、いつの間にか私の口は自分の名前を発しようとしていた。


「私の名前は、さ――」


 ふと、店内に音が響いた。高く硬質な音。私の言葉は中断される。金属音か。いや、もう少し柔らかだ。妙に趣のある音で、それは澄んだ硝子のイメージを描かせた。きっと風鈴の音だ。だが店内にそれは無い。何処から響いているのか。ぐるりと店内を見渡し、やがて視線は店の入口に留まった。いつの間にか、そこに青い人影がひとつ立っていた。


「やぁ」


 呑気な声で挨拶をしたその影は、知った顔だ。彼は先生である。西山さんと同じく当店の常連。一瞬だけ、自分の顔の筋肉が妙な動きをするのを感じた。それを仏頂面で封じ込める。電話対応の途中であることを思い出したのだ。しかし既に、耳に当てた受話器からは不通音が響いていた。


 古い紙と木の棚で埋め尽くされた店内に、藍色の和服姿が入ってくる。それがこの人――先生の普段着だった。セピア色の空間に、鮮やかな青が混じる。



「……いらっしゃいませ」


「うん。お邪魔します」


 事務的な挨拶もどこ吹く風。この優男は何が可笑しいのか、普段からにこにこと微笑みを絶やさない。真夏だというのに、彼が汗一つもかいていないのが不思議だった。聞いた話では、彼はどこかの高校の国語教師らしい。一応、私も高校生なのでこの人を先生と呼ぶことにしている。


 先生は主に怪談小説を買い求める。怪談奇譚については所謂マニアの部類に在る人らしく、一寸でも話題に出ようものなら異様に眼を輝かせて薀蓄を垂れ流し続ける、そういう厄介な性質だった。どちらかと言うと、面倒くさい部類の人であろう。簡単に言えば変人である。渋々、という雰囲気を敢えて発しながら私は接客を開始する。


「今日はどういったご用向きで」


「うん。君にプレゼントがあってね」


 彼の手元を見ると左手に何やら抱えている。茶碗だ。そして右手には箸。……もしや先程の風鈴は。おもむろに、先生は箸で茶碗の縁を叩いた。響いた音は成る程、風鈴のように聞こえる。案の定だった。何のつもりか知らないが行儀は悪い。文句をつけようと口を開くと、彼に先手をとられた。


「さる筋から頂いた茶碗なんだ。お中元にどうかなと思って」


 なかなかいい音がするでしょ。そう言うと先生は茶碗をちんと鳴らす。


「私の店の中で行儀の悪い真似は止めてください」


「ははは。ごめんごめん」


 そう怖い顔をしないで、と妙に悪戯っぽい笑顔で言うので怒る気も失せてしまった。呆れた私は目を逸らして肩をすくめる。先生は子供のような一面がある人だ。いや、浮き世離れしているというのかも知れない。趣味も独特で、長い休みが得られたときには、日本各地を転々と歩いて彼の眼鏡に叶う物語を集めているらしい。日頃から、お年寄りに話を聞く機会が多いとの事で、よくこうやって土産を持たされては何故か私に押し付けに来るのだ。彼の言うさる筋というのは、きっと怪談関連の縁だろう。


 茶碗の話題もそこそこに先生は私の傍に在る棚の前に立つ。既に真剣な眼差しで物色している。探すのはもちろん怪談。これが彼の常なのだ。怪異譚を食べて生きているのではないかと思うほどである。


 いつの間にか蝉の声が遠くに聞こえる。今は他にすることがないし客もいない。どうにも手持ち無沙汰だ。店内には先生が居るものの、彼は例外である。その理由は、私がこの店を始めた頃の話に関係があった。春の頃。ちょっとした面倒に巻き込まれて困っていた折、彼はふらりと現れて何やかんやと世話を焼いてくれたのだ。


 その時に、まぁ色々と人に見られたくないような顔を見せたり見せなかったりしたこともあって、私は何となく彼に気を許している節が在った。彼の纏う雰囲気が何処と無く、亡き祖父に似ていることも理由の一つかもしれない。いずれにせよ、変人だが悪い人ではない。それが私の先生に対する評価だった。


 気がつけば、私はただぼんやりと先生の横顔を見つめている。残念ながらあまり大勢の客が来る店でも無いので、こういう風に先生と二人の店内で時間を過ごす事がよくある。そういえば、横から眺めていて気がついたが、先生の睫毛は随分と長い。すらりと長い手足も含め、彼の容姿は総じて日本人離れしている。彼が自分とは別の生き物にしか見えない。実際の所、ロシア系の血をひいているらしかった。夏でも肌色は白く、瞳は夏空の様に蒼く澄んで、


「ちょっと失礼」


 突然かけられた声に、私は声を上げて驚いてしまう。もちろん声の主は先生だ。可能な限り平静を保って私は対応する。


「なにか」


 不覚を取られたのが悔しかった私は、理不尽にも先生を睨みつけた。だが、その視線は彼の目の上に固定されてしまう。どうしてか、彼に目を合わせるとこうなった。


「探している本が無くて。この前はあった気がするんだけど」


 そう言う先生の眉毛は綺麗な八の字を描いている。どうやら困り事らしい。


「何の本をお探しですか」


「久しぶりに鰻の話が読みたくなったんだ」


 先生。怪談マニア。鰻の話。


「泉鏡花ですね。鰻の話が収録されているのは全集の第十四巻。たしか先生の後ろの棚の、最下段の右……そう。それです」


 お、あったあった。そう言って、私の誘導で本を見つけた先生は微笑む。


「流石だね。鰻って言うだけで探してる本が判るなんて」


「書店員なら誰にでもできることでしょう。それにここは私の店で、家ですから」


 照れ隠しという訳ではない。事実、店内にある本の在り処ならば眼を閉じていても判った。


 だがまぁ、あまり褒められるのも居心地が悪い。話題を変えることにしよう。


「しかし、何故また急に鰻なんですか」


 昨今の鰻不足に何か思う所があるのだろうか。


「そうだねぇ、強いて言えば……」


 ぐぅ。と、先生の言葉を遮って鳴ったのは彼の腹の音である。まさかこの男。いや、怪談馬鹿の彼に限って、食欲が読書欲を支配する現象が起きよう筈もない。しかし、彼は腹に手を当ていつになく真剣な声を出した。


「蒲焼より白焼のほうが好きなんだよねぇ」


 食欲だった。


「いい時間だし、どうだい一つ。鰻でも食べに行こうよ」


 先生が眼を輝かせて誘う。


「今は駄目です……一時間後くらいに、また来てください」


「えっ、今じゃ駄目なのかい」


 そんな顔をされても困る。


「こ、これから仕事でちょっと外出するんです。昼過ぎには戻りますから」


 行き先はどこ、と若干拗ねたような声で尋ねられる。別に隠すようなことでもない。


「妙倫堂のオーナーのところへ、本を届けに」


 そう言うと、先生は頷き「じゃ、後で」と店を出ていった。多分いつものように傍の喫茶店で時間を潰すのだろう。彼の妙な目の輝きが気にかかるが気にしないでおく。仕方ない、なるべく早く帰ってやるか。店の外へ消える背中を目に私は微笑んだ……かもしれなかった。

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