魚の話(後編)
あれから数日が経った。
「喜善堂ちゃん!あの本、恋愛ものじゃなかったよ!」
僅かに膨らませた頬が可愛らしい彼女は、西山さんである。珍しくご立腹のようだ。今朝から客も少なく静かだった店内が少しだけ賑やかになる。それが私には嬉しい。
「いらっしゃいませ。早速読んだのね。面白かった?」
「おもっ、面白かったけど……。でも恋愛小説じゃなくて、あれは怪談小説よ。騙すなんてひどいじゃない」
まったくもう、と西山さんは腕を組んで私をじとりと睨みつける。だが、その視線に怒気は無い。成る程。彼女が差し向けてくれた雑談の振りに私も乗ることにしよう。
「そうね。ベースは怪談だわ。でも本質は恋愛だったでしょう」
悲しい恋の末、未練を残してこの世を去った女の霊が怪奇現象を引き起こす。そういう物語だった。かつての恋人への想いが暴走し、呪いと化してしまうというもの。
しっかりとホラーな描写は恐ろしいものの、要所要所で描かれる女の霊は何処か悲哀を感じさせた。既に亡き恋人を探して彷徨う魂。はじめて読んだとき、私はこの作品を『怪談』と『恋愛』のどちらに分類するか迷ったものだ。
ラストはどうなるんだったか……。物哀しい読後感が残ったのを覚えている。
「うーん。言われてみれば、確かに恋愛ものだったような。所々で泣いちゃったし」
幽霊の女の人が可愛そうで。と西山さんは、私の言葉を肯定してくれた。
「もしかして、怪談と恋愛って相性がいいのかな?」
彼女の問いかけに、私は応える。
「昔から多いわね。有名どころだと、四谷怪談とか牡丹灯篭。あとは雨月物語」
「どうして、そういう組み合わせが出来たのかな」
更に問を重ねる西山さんの瞳が、眼鏡の奥で煌めいている。創作を趣味とする彼女はあらゆる物語に貪欲だ。難しい質問に、私はしばし考えこむ。怪談と恋愛、特に悲恋の関係性についての研究は既にあるのだろう。厳密には、それらの研究論文を紐解くのが答えへの近道になりそうだが。確か、そういう文献もここに在る筈だ。あれは、確か西山さんの丁度真横の棚の中に。
……しかしこれは他愛もない雑談である。わざわざ厳密な考察を引っ張りだすこともあるまい。思考はそこそこに、ごくシンプルな回答をするにとどめよう。
「人が悲恋の中で命を落とせば、未練が残って幽霊になりやすいから、とか」
我ながら捻りも何も無い答えだが、しかし単純故に尤もらしく思えた。
だが西山さんは、にこりと微笑んで切返した。
「逆に、幽霊になったら恋に落ちやすくなるのかもね」
***
そして今日もまた、一日が終わる。店を閉めるために表に出た私は、空がまだ仄かに明るいことに気づいた。とっくに閉店時間ではあったが、流石に夏は日が長い。深く呼吸をすると、夏の宵の空気が肺を満たす。この季節のこの時間だけは悪くない。
店の前のワゴンを引っ込めた私は、ふと予感がして振り返る。三歩程離れた其処には、またしても青い影が一つ。「今晩は」と挨拶をする彼は、勿論先生だ。彼が来た理由はわかっている。今日、この時間に会う約束だったからだ。
「あの時の話を詳しく聞かせて欲しい」
先生からそう請われたのは昨日のことだ。色々と気を遣ったのだろうが、やはり怪談好きの性質が抑えきれなかったのだろう。私としては気が進まない訳でもなかった。彼ならあの理不尽な出来事に理屈をつけてくれるかもしれないと思ったのだ。近所の喫茶店に場所を定め、怪異体験を披露させられたという訳である。
私の話した事の仔細を受けた、彼の第一声はこうだった。
「君はお人好しが過ぎる」
木製のテーブルを私と挟んで、先生は主張した。
「はぁ」
あまりにもいきなりで、私は曖昧に返事をするしかない。とりあえず、グラスの中のアイスコーヒーを一口。
「そりゃぁ、鰻といえど憐憫の情をかけられたら、人間に関心を持ちもするさ」
「鰻に同情していたのは確かですが……それがどうして判ったんですか」
生簀の前を通る度、彼らに抱いていた感情について、先生に話したことはなかった。
「僕はこれでも教師だよ。十代女子の人格くらい把握できていなくてどうする」
なんだか滅茶苦茶な理屈で誤魔化されたような気がする。怪異よりよっぽど、この人の方が理不尽かもしれない。仕方なしに私は話の筋を戻す。
「わかりました。それはいいですから、お人好しっていうのは何のことです?」
「ああ、そうそう。その話。聞けば、その鰻らしき子供たちは、君に名前を尋ねたそうじゃないか。君は物の怪を惹きつけたあまり、名をとられるところだったんだよ」
かつて先生に聞いた話によれば、本名はその人の真髄を表すものだという。従って、不用意に名を明かすことは呪詛の餌食となる隙にもなるらしい。
「ええっと、それはいつか言っていた、名を明かすと呪われる、みたいな話ですか?」
「違う違う。その子達は男の子の姿だったんだろう? だとすると、名を尋ねる事の意味が変わってくるのさ」
「言っている意味がわかりません」
いつも勿体ぶって結論をなかなか言ってくれないのは、この人の悪い癖だ。
「ずばり言うとね。その子たち、つまり鰻たちは、君にプロポーズをしたのさ」
「は?」
思わぬ回答に思わぬ声が出てしまった。先生は説明を続ける。
「古くは、男が女に名を尋ねることは求婚を意味していた。女が名前を明かせば、求婚を承諾することになってしまうのさ」
「え、じゃあ私があそこで名前を明かしていたら」
青ざめて問うと、先生は私の左手を優しくとって、少し持ち上げた。誰かの言葉が頭を過ぎる。甘いラブロマンス。先生はそのまま私の薬指に何かを嵌め、微笑った。
「即ち、結婚成立だね」
ドキリとして薬指を見る。嵌められたのは輪ゴムだった。
「じゃあ、なんですか。私は鰻に惚れられていたと?」
「そんな怖い顔で睨んでくれるなよ……。まぁ、そういうことだね。恐らく、求愛に応えてしまっていたら、君は今もあちら側に閉じ込められたままだったろうね」
言葉も無かった。その結末の予想は、おぞましいものだったかもしれない。しかし先生の話を聞いた私にとっては、代わりに胸が締め付けられるような気さえした。
想像したのは彼らの境遇だ。今にも息絶えそうな窮屈な牢獄の中。未来で待つのは、惨い死のみ。遺す肉体も喰い尽くされるか廃棄されるだろう。そんな絶望的な生命の終わりの寸前で、誰かを想うことができたら。その想いを、夢の中であっても遂げることができたら。
あの日視た、暗く醜く吐き気を催す光景。そこに込められた願いのようなものは、私が今こうしていることで、何処かへ消えてしまったのだろうか。それとも彼らの思いは、あの境界に置き去りのままなのだろうか。
などと考えた自分に気づいて、少し呆れる。確かに、お人好しが過ぎるらしい。何時の間にかグラスは空になっていて、溶けた氷が儚い音を響かせた。
「だから、不用意に優しすぎるのも良くないかもね」
とは言え、過剰に恐がるのも可哀想だけど。先生はそう付け足す。彼の言葉は、どこまでも軽い。でも軽いが故に、私にとっては暖かだった。そろそろ行こうか、と先生は席を立つ。
「どこに行くんですか?」
「晩ご飯まだでしょ?だからほら、供養というか。想いを断ち切るって意味でさ」
食べに行こうよ。鰻の白焼き。そう言って、やはり先生は悪戯な顔をした。思わぬ誘いに私は唖然としてしまう。呆れるくらい、魂消た人だ。そして彼は足取りも軽く、さっさと喫茶店の敷居を跨いでしまった。
恐れすらも飲み込んで、在るものを在るがままに。目に映るものを映すままに。怪を暴かず。幽を乱さず。境界の向こうで微笑む彼が、私を待つ。
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