青春の雑音

 閉店後の片付けを終えたところで、自分独りのガランとした店内を見る。しんと静かな空間は、終わりの時間の具現のようである。今日の仕事はこれで終わり。私は壁のスイッチを触って灯りを落とした。たちまち店内は暗闇で満たされる。光が消えると何だか寒くなったように感じてしまう。


 いや、実際寒いのか。何故なら今は師走である。空気は日に日に冷え込んでいく。先程まで残っていた暖房の熱も、今はすっかり何処かへ行ってしまった。こういう夜はさっさと暖かくして眠るに限る。


 私は勘定台の奥へと引っ込んだ。即ち、帰宅の完了を意味する。この店は私の職場で自宅である。寒さで外を出歩くのが辛い季節であっても、通勤時間はゼロなので嬉しい。それに今日は観たい映画があるのだ。金曜ロードショー。自宅が職場なら、テレビ番組の始まる時間を気にする必要も無い。心おきなく、一日の余暇を味わえるというものだ。


 おっと、そう言えば先日お得意様から頂いたほうじ茶があるのだった。よし。ならば今夜は、ミルクほうじ茶でも飲みつつ、独りで映画鑑賞会である。ならば、まずはやるべきことを済ませてしまおう。まずは台所で遅い夕飯を温める。その間にお風呂も準備せねば。


 私は鼻歌交じりに、一日の終わりの習慣を処理していく。ご機嫌そうに動いているが、労働後の身体はひどく疲れていた。けれど僅かばかりの達成感はある。これが大事なのだ。寝て起きたら忘れるような小さな小さな満足感。ささやかで儚い、そんな一晩限りの宝物こそが今日という日を控えめに飾ってくれる。毎日続くからこそ価値のあるもので、だから得難い幸福そのもの。明日も頑張ろう。もっと上手くやってやろう。そんな気にさせてくれる。


 という事を夕食中に考えて、お風呂に浸かっている最中に気がついた。


「もしかして私の青春って、結構寂しいのでは?」


 頭のなかで問いかけてくる誰かに、しかし私は反論できない。何故なら、そもそも一般的な青春像を知らないからだ。所謂、普通の女子高生たちは一体どのように週末の夜を過ごすのだろう。何を思って過ごすのだろう。全く想像もつかないが「一日の労働を振り返りながら、鼻歌交じりに家事をやっつける」という過ごし方ではないだろう。これは多分、一般的ではない。


「青春かぁ」


 という独り言がぽろりと口から零れ出た。その単語があまりに手垢に塗れたもので、付き纏うイメージも小っ恥ずかしくて、私は思わず頭のてっぺんまで湯船に潜ってしまった。或いは自分が送る日々が少し恥ずかしいのか。私自身、よく判らない。


 今日の閉店ギリギリの時間に、クラスメイトが来店したのを思い出す。あまり話した事が無いので彼女の名前は曖昧だった。人懐っこい性格らしい彼女はこちらを級友と認めるや、気さくに話しかけてきてくれた。向こうもこちらの名前は不確かのようであったが。


「もう働いてるなんてすごいね。私なんて勉強と部活だけで手いっぱいだよ」


 と笑っていた彼女は、マイナーな海外小説を買った。邦訳版ではなく原著を。


「自分で和訳してみたいの。翻訳家になりたくてさ」


 なんだ、目の前の勉強と部活だけでなく将来の夢まで手が回っているではないか、と思った私の胸中に渦巻いていたのは、果たして羨望だったか。或いは嫉妬か。


 はぁ、と大きく息を吐いて、良くないものを肺から追い出す。私にしては珍しく、他人と自分を比較して憂鬱になっているようだ。今の自分は何か大きな目標をもって暮らしている訳ではない。仕事が趣味という訳でもない。


 まるで空を行く飛行機を見送る時のように、何もできないでいる。今こうしている間にも十六歳の一度きりの冬は失われていく。後に残るのは儚い飛行機雲だけ。それさえ時が経てば虚空に溶けて消えてしまう。


 クラスメイトの彼女が私の名前を呼ぶことは、未来永劫無いかもしれない。それで良いのだろうか。その方が良いのだろう。未来へ進む彼女にとって、この店に留まり続ける人間の言葉は雑音に過ぎない。


 じゃぼん、と音を立てて私は頭のてっぺんまで湯船に浸かる。体が疲れていると、思考まで駄目になるものだ。脳みその疲労もとらねばなるまい。


***


 お風呂から何から済ませてしまった私は、居間の炬燵にすっぽり収まった。目の前にほうじ茶と蜜柑。テレビを点けるとちょうど映画の始まるところだった。タイトルは「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」。さぁ楽しむとしよう――というところで、突然玄関のチャイムが鳴った。


「一体何時だと思って、どこの誰が……あー」


 こんな遅くに突然やってくる客には一人だけ心当たりがある。先生だ。暖かい炬燵とお茶と映画に後ろ髪を引かれつつも玄関へ向かう。外に通じる戸の磨り硝子。その向こうに背の高い影が見えた。


 先生が突然やって来るということは、また碌でもない怪談を仕入れてきたのだ。大の怪談好きである彼はあちこちを歩きまわって怪異譚を集めている。そしてそれらを何故か私の所にもたらすのだ。朝昼夜に関係なく。


 戸を引くと「や」と片手を上げて微笑う青年が一人。やはり先生である。いつもの藍の和服に濃紺の羽織姿だった。「早く入ってください」私は促す。冷たい風が吹き込んできて、顰めっ面になってしまうのが判った。


***


「面白い映像を手に入れたんだ」


 向い合って炬燵に入る先生が言うことには、そういうことだった。彼と私の間には一枚のDVDが置かれている。炬燵の上で蜜柑や湯呑みと並ぶ白い円盤が少しシュールだ。「またお化け関連ですか」と呆れて問うと「どうかな」と曖昧な返事。これはどう考えてもお化け関連だ。異様に輝いている彼の青い瞳を見れば、それ位は判る。


「観たら呪われるとか?」


「さぁ。僕は一回観たけれど」


「出どころは?」


「それは聞かないでほしいな」


 怪し過ぎる。はぁ、と私は溜め息を吐いた。彼は私より一回り程年上の筈だが、時にはきつく言っておかねばなるまい。すぅっと空気を胸に吸い込む。


「いいですか先生。物事には節度というものがあります。まぁ、先生の怪談趣味については最早とやかく言うつもりはありませんが。それでも時間帯くらいは考えて頂きたいものですね。立場ある大の大人が年若い娘の一人住まいに押しかけるなんて、それ自体もってのほかですが。いいですか。夜ですよ。夜。ご近所さんに見られたらどう申開きをすればいいんですか。それに大体、いつもいつも事前の連絡も」


「DVDプレーヤはこれかな?ちょっと借りるね」


「聞いてください!」


 私の訴えを無視して、先生はプレーヤでDVDを再生し始めた。


『絶対またみんなで集まろうね』


『何泣いてんのよぉ。最後くらい笑おうよぉ』


『写真とろ!写真!』


『あー、卒業したくないなぁ』


 映しだされたのは制服姿の女子学生達。どこかの学校の教室で撮影したらしい。皆、黒い筒を手に泣きあったり笑いあったりしている。音声は彼女達の言葉が幾重にもなって聞き取り辛い。だがその喧騒は若々しく、切なくも楽しげに、そしてどこか儚げに響いていた。卒業式の記念映像だろうか。尋ねると先生は頷き、


「開始から二分三十一秒時点が大事なんだ」


 とリモコンを操作して映像をスキップさせた。再生時刻は二分十秒に辿り着く。


『じゃあみんな中央に寄ってー』


『えっなんか恥ずくない?』


『いいじゃん最後なんだしさ』


『はいはい時間もったいないから』


『えーそれデリカシー無くない?』


 学生達が笑い合って、カメラの中央に集まっていく。映像が不自然にブレている。撮影者も笑っているからだろう。


『はいはいもっと寄って』


『せまっ!狭いね結構』


『肩抱き合えばよくない?』


『なにそれぇ』


 二分十九秒。少女達がカメラの前に整列した。映像の隅がチラつく。


『じゃあ、さん、にー、いちでみんな同じポーズとろうよ』


『なにそれウケる』


『でもいいかもね』


『記念だしやってみよっか』


 二分二十六秒。またしてもチラつき。先程より目立つ。


『はい、じゃあいくよ!』


 二十八秒。


 声を上げているのは恐らく撮影者。被写体達はみな笑顔でカメラを見つめている。


 映像の乱れが酷い。


『さーん』


 二十九秒。音声にノイズが入る。言葉のようにも聞こえる。


『にー』


 三十秒。激しいノイズ。誰かの名前。聞き取れない。


『いーち』


 三十一秒。


「はいここまで」


 映像と音声がプツンと途切れて、突如生まれた空白に私の意識は放り出された。


「大丈夫かい。息はちゃんとできてる?」


 心配そうな先生の声で、私は自分が呼吸をしていなかったことに気がついた。


「ごめん、ちょっと迂闊だったね」


 謝る先生の右手には、テレビとDVDプレーヤの電源ケーブル。どうやら無理やり引き抜いたらしい。テレビのディスプレイは光を発さず真っ暗だ。呆けたような自分の顔が曖昧に映っている。


***


「このDVDは」


 自分で淹れ直したほうじ茶を一口啜って、先生は口を開いた。


「僕の友人の元に届けられたものでね。差出人の情報は一切なかったらしい。いや、郵送や宅配ですらなかった。直接、友人宅のポストに放り込まれていたようだよ」


 先生の友人は処置にこまってDVDを彼に預けたようだった。酔狂が服を着て歩いている先生のことだから、喜んで引き取るだろうという魂胆だったのかもしれない。まぁ実際その通りになった訳だ。


「中身を見て驚いたよ。よくある心霊ビデオじゃなかったんだ。お化け関連なのかと君は聞いたけど、答えはノーだった筈なんだ。例の二分三十一秒時点で、被写体達が一斉にとるポーズが面白かったんだよ。恐ろしさは全然無かった。それを君に見せたいと思っただけなんだ」


「どんなポーズだったんですか?」


 結局、それを私は目にしていなかった。先生は頬を掻いて言う。


「みんなが一斉に、こう、無表情になって……人差し指でカメラをを真っ直ぐに指差すっていう。そういうポーズ」


「十分恐いじゃないですか!」


「多分、びっくりさせようっていうイタズラだったんだよ。その後でみんな『なんちゃって』と言って笑っていたし、映像はそのまま続くんだ」


 性質の悪いイタズラを考えたものである。呆れて私は尋ねる。


「全く、それのどこが面白いって言うんですか……」


「強いて言えば、そうだなぁ。卒業式っていう晴れの舞台で、みんなが特別な思い出を作る日に、そんな趣味の悪いイタズラをしようと考えた誰かの発想かな。あとは、それに乗って完璧に計画を実行した他の生徒達も」


「それは、なんだか」


 言い淀んで私は黙りこんでしまった。ある意味で心霊ビデオよりも恐ろしい。あの映像の中であんなに楽しそうに、悲しそうに、母校を去るお互いを惜しみ合っていた学生達のその笑顔の下が。趣味の悪いイタズラだと先生は言った。


 だが、これを記念すべき別れの日の、青春で最後の思い出として誰が残したいだろうか。先生が「面白い」と評したイタズラの発案者の発想が、私には判らない。自分とは違う怪物のようにさえ思える。映像の中の、涙と笑顔のどこかに、そんな人物が潜んでいたのか。


 得体の知れない寒気を覚えて、私は炬燵にいっそう深く身を入れた。絵に描いた様な青春の、最後の一ページ。そこに挿まれた小さなイタズラという嘘が少女達の輝く物語を大きく書き換えてしまったような気がしてならない。


 触れられない宝物に小さな傷を見つけたような、そんな感覚が私の胸中を過ぎる。彼女達の友情と最後のイタズラの、果たしてどちらが真実だったのか。ふと、足先に何かぶつかった。手を入れて触ると、炬燵の電源ケーブルだった。まだ疑問が残っているのを思い出す。


「どうして電源を抜いたんですか?」


 そう尋ねておいて私は気づく。先生は余計な事をしても余計な事は言わない。本当に言うべきではないことを彼は決して自分から口には出さない。問われた先生の表情には、どこか観念したような諦めのような色が浮かんだ。そして彼は、私が一番聞きたくなかった答えを口にする。


「僕が観た時と映像の内容が変わっていたんだ。二分三十一秒直前に鳴ったノイズ。気がつかなかったかい?」


あれは、君の名前だったよ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

先生と私の怪異目録 小鳥遊 @g_fukurowl

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ