第7話 出生の秘密と国の守護者
「………」
エディンは長身を寝台へと投げ出して、ぼんやりと手にした封書を眺める。
上着はテラス近くの長椅子に脱ぎ捨てられ、軍靴も寝台下に転がっている。
鋭い剣の切っ先のごとく怜悧で粗野なその美貌を、サイドテーブルに据えられたランプが仄かな灯りで照らしている。
今宵は満月のようで、テラスからは涼しげな光が差し込んでいるようだ。
あれから。
リヴィや兵を介抱しているところに駆けつけたラズウェルに、単独行動をするなと説教を受けて。
雑務の後に招待された、接待を兼ねた食事会からようやく抜け出す事に成功し、エディンは今、一人で与えられた宿舎にいる。
溜息をつき、目を伏せると、ここちよい疲れが瞼を重くする。
席を立つ際、ラズウェルが軽く咎めるような、気遣うような視線を寄越したので、戻ってきていることはもうバレているだろう。
上品な「お食事会」は苦手だ。
逃げ出してきた世界を思い出させるから。
「……逃げてきた、世界、か」
ふと、手紙を封筒から取り出し、広げる。
ルメスリージュを発つ前、密やかに届けられたそれを、見なかった事にできなかったのは、自分の甘さだ。
教書を写したような挨拶文から始まり、たどたどしく日々の出来事が書き連ねてある。
最後に少し大きな字で、訴えかけるように書かれているのが、
「闘技場にて、兄上様にお会いできることを心から祈っております。貴方を心より愛する弟より、か」
「!」
「なんだ。そんな顔をしなくてもいいだろう」
不意に横から伸びた手が手紙を奪い取り、スラスラとその一文を詠みあげた。
体を起こすと、日中に翻弄してくれた少年のシルエットが、テラスからの月光に照らされていた。
「あなた、は……」
闇の色を写す髪に、黒い瞳。
キスト・アダマント。
オニキスの目が、すう、と細められた。
「何故ここに」
しかもどうやって、と思わず問いかけようとして、アッ、と口を抑える。
昼間に体験した、瞬間移動を思い出した。
軍の宿舎の二階に、誰にも気付かれずに来るとしたら、アレしかないだろう。
「愚問だと、察したか。賢くて何よりだ」
言外に肯定し、彼は寝台に腰掛ける。
「何故ここに、と問われれば、お前に用があったから、としか言いようがないな。剣闘会を『体調不良に陥り、出場辞退』することになっているエディン・サングウィン? いや、正しくはエディン・ディクサム、だったか」
サングウィンは亡き母上の姓だろう。
その言葉に。
息が、つまった。
「や、っぱり、あなたは」
途切れて言葉にならなかった部分をくみ取ったのか、肯定するように目を細めたキストが、微笑んだ。
すう、と。
気配が、変わる。
姿は少年のままであるのに、気配だけが、侵しがたい、何か大きなものへと。
オニキスの目に、蒼、が、見え隠れした。
ああ、この気配だ。
アジュールの名を持つ、不思議の力を操る存在。
「ああ、安心しろ、
「ッ」
とっさに、くつろげたシャツの胸元を掴む。
そこには、隠しようもない傷跡が斜めに走っている。
その傷に分断されるようにして、実は、心臓の丁度真上に、剣と羽根ペンを咥えたつがいの鷲の紋章が刻み込まれている。
章腹に生まれ、母とひっそりと暮らしていた、幼い頃。
母の死と共に半ば強引な手口でメルヴィスを治める伯爵家…ディクサムの嫡子として引き取られて、紋章を胸に刻まれた。
それからしばらく後の、嫡子としてのお披露目を兼ねた、公式行事の時。
王宮の敷地内、夜の庭園。
狙われ、殺されかけた理由は後に知った。
この命を欲した人は、妾腹に生まれ嫡子に望まれた自分を憎悪していたのだと。
漏れ聞こえる音楽を伴奏に、庭園の暗闇の中、抵抗もできずに切り裂かれ、生き絶えようとしていた、その折に。
どこからともなく現れ、この命を紡ぎなおしたのは、間違いなく。
「そう。あの時、お前の傷を塞いだのは私だ。その後しばらくは様子が伝わってきていたのに、急に行方知れずとなったから焦ったよ」
また狙われたのではないかとね。
肩をすくめたキストに、エディンは呆然としたまま、掠れた声で答える。
「あ……あの人に息子ができたので……嫡子の号を放棄するって書置きを残して、その日のうちに家を出ました」
継母……正妻に、弟が生まれたその日に、手紙を置いてあの家を出た。
ようやく、窮屈な世界から、逃れられると。
逃してはならない、これこそが好機だと、信じて。
「なるほど。だが、伯はお前の捜索をあきらめてはいない。……そうだな」
「……」
エディンは目を伏せた。
その通りだった。
「だと思ったぞ。貴族名簿からは、まだお前の名が抜けていない。嫡子のままだ」
「……くそ、やっぱりか……」
しばらく身を潜めていれば捜索を諦めるだろうと思っていたが、中々諦める様子がなく。
おまけに、自分の存在すら知らないはずの弟にさえ、存在を知られ会いたいと請われているのだ。
ひょっとしてと思っていたが、やはりまだ嫡子から外されていなかったか。
あるいは、弟に自分の存在を伝えたのも、父なのかもしれない。
「仕方がないだろう。彼にとってはお前もお前の弟君も等しく我が子だ」
見つかるのは時間の問題だぞ、と肩をすくめたキストに、エディンは頭を抱えてうずくまる。
「ほんと、執念深い……」
我が子と認め、嫡子にと望んでくれる気持ちを不快に思いはしないけれど、あの窮屈な世界に連れ戻されるなんて、ゴメンだ。しかも、命の危険にさらされ続けて、なんて冗談ではない。
だが、今の生活を放棄して逃げるなんてできない。手放すには、あまりにも居心地の良いものだから。
もうとっくに諦めて、弟を嫡子にしていると思っていたのに。
どう、すれば……。
「……一つ方法があるぞ。今の生活を維持したまま、決してあの家に戻らずに済む方法が」
口元に手を当て、しばし沈黙した後、キストが顔を覗き込んでくる。
その目の奥に、何やら企む色を見て、エディンは思わず顔をしかめずにはいられない。
だが、口は裏腹に、
「……教えてください、その方法を」
***
「それで? 結局その事件の全貌は?」
外部の喧騒が遠くに聞こえる、回廊。
その声に、小窓から時折下を覗き込みながら歩いていた青年がふと振り返る。
闇をそのまま髪に映したような艶やかな黒髪に、銀をちりばめたような蒼の瞳が楽しげに細くなる。
純白の軍装の背を飾るマントには皇章を咥える獅子の大紋章。
微笑み、振り返った青年の姿の美しさに、追従していた女官が息を飲み見惚れる様子。
「何、簡単な事だ。アルフは絵画に明るいが、宝石は専門外だ。『ローレライの薔薇』は隣国の宝石商の間では有名な呪いの首飾りだったが、彼は知らずに何等かの形であれを手に入れたのさ。おそらく、手に入れてからその噂話を知ったのだろう。そしてひどく怯え、悩んだ。その様子に友人でもあったリダースン卿が気付かぬはずがない」
「リダースン卿は話を聞いたのですね。でも……どうしてそれをひきとろうとしたのでしょう? 嫡子の縁談相手への贈り物、という話ですよね」
縁談相手にいわくつきの首飾りを贈るとは思えないのですが、と、事件の詳細を知りたがった青年がおっとり首を傾げた。
こちらは月の光を写し取ったような淡い色合いの金髪に、深海を思わせる深い蒼の瞳。
彼の疑問に苦笑交じりの声が、
「縁談相手への贈り物、というのは表向き、だ。彼は宝石が呪いを持つなど迷信だ、と豪語する性質の人だったが、それでも呪いの首飾りを持っているなどと万一噂が広まってはたまらない、と思ったのだろうな」
「そして、宝石調律師という顔を持つ貴方に調律を依頼した、ということですか。……それも、遅すぎたのでしょうけれど。国としては実に惜しい人材を亡くしました」
回廊の壁面に整然と並ぶ絵画を目でたどり、蒼い目が幾ばくかの悲しみに沈む。
「……そうだな、私ももっと早くに気付いていればよかったが、あいにく近頃はエルヴァンスドリスとルメスリージュを往復の日々だったからな。力になれず、すまなかった、ヴィクトス」
「いえ、貴方の責任ではありませんよ、ラグラス・アジュール。……ああ、ほら、そろそろ闘技場が近いようです」
銀糸の刺繍が施されたマントを翻し、ヴィクトスが回路の曲がり角の扉に目を細める。
それから、ふと思い出したようにそういえば、とラグラスを振り返り、
「さきほど話に出てきた、貴方のお気に入りの……確か、ディクサム家の嫡子」
「エディンか」
「そう、エディン。彼を貴方が助けたのは六年前でしたか? 誰にも心動かされることのなかった貴方が、彼を救った理由はやはり」
その胸に残る、揃いの傷の所為ですか、と。
気遣う声音に、ラグラスは静かに笑った。
キスト・アダマント・ラグラス・アジュール。
彼の胸にも、斜めに走る大きな傷跡がある。
「似ているだろう? 後継者に任じられたことが面白くないと殺されかけたところも、後継者という役割を厭ったところも。……私のできなかったことを、どれだけ彼がやりおおせるのか見てみたかったのさ」
「ラグラス……」
ヴィクトスは、かける言葉を失う。
彼が背負うものの大きさと重責を、十二分に理解しているからこそ。
そして、それを代わりに背負う事ができる者がいないことを、知っているからこそ。
沈黙の後に、さりげなく話題をそらそうと、言葉を選ぶ。
「……彼はやはり大会には出ないのですか? 若手の中でも実力派だと、近衛が教えてくれましたよ。まあ、事情を考えると出場しないというのも仕方がないのでしょうが。多少残念に思いますよ」
「ああ、そのことか。残念がることはないぞ、ヴィクトス」
そっと気遣うようにそらされた話題に一度目を伏せてから、ラグラスは楽しげに笑ってヴィクトスの肩を叩く。
「エディンは大会に出ているはずだ。自分の今後の為にな」
「え?」
含む口調にキョトンと目を瞬かせた時、扉の前にたち控えていた近衛が恭しく頭を下げて、告げた。
「ヴィクトス国王陛下、ならびにアジュール聖公爵様。闘技場にご到着でございます」
立ち止まらずに済む絶妙のタイミングで開かれた扉から、まずはヴィクトスがジェルシアの回廊を出る。
扉の外は、闘技場を見下ろすことができるロイヤルボックスだ。国王の登場に、闘技エリアに整然と並んだ兵士達からも、観覧席で建ち並ぶ貴族達からも歓声が沸き起こる。
それから、国王の後に進み出た姿に、その歓声はどよめきへと転じた。
「ふふ、ほら、滅多にお顔を曝さない貴方のご登場に、皆戸惑っていますよ」
「引っ張り出してきたのはお前だろう、ヴィクトス。……まあ、いい。今日は気分がいい」
ひそひそと言葉を交わし、闘技場内の皆へと微笑みを浮かべて手を挙げれば、一拍遅れて怒号のような歓声が沸き起こった。
アジュール聖公爵様! ヴィクトス国王陛下! 万歳!
***
悲鳴にも似た歓声の中、エディンは渋面のまま、頭上を振り仰いでいた。
視線の先には、国王の隣に立ち並び、にこやかに手を挙げる青年が見える。
黒髪に、見覚えのある大紋章。
銀をちりばめた蒼の目が、気のせいでなければこちらを真っ直ぐに見て、口元がパクパクと動く。
負けるなよ。
エディンはぐったりと肩を落とした。
周囲のように、伝説の公爵を拝めることに興奮したり喜んだりできないのは仕方がないだろう。
…はめられたような気が、しないでもない。
あの夜。
生活をこのままに、あの家に戻らずに済む方法があると言われ、教えてくれと頭を下げた、その答えは、突拍子もなかった。
「簡単だ、剣闘会に出て、優勝すればいい。そうしたら正式に私の騎士に任じられる。国王であっても、私の身内の者に手出しをする事はできないからな。堂々と国軍に在籍し続けられるし、私の騎士になった時点で嫡子の号も持てなくなる」
「な」
「案ずるな、お前の活躍を望まない上層部には軽く圧力をかけておいた。戻り次第すぐに出場の為の用意をしろよ」
「ちょ、あの」
「どのみち、父君がお前の居所を突き止めるのは時間の問題だ。ならば、可能性に賭けてみるのも悪くないだろう」
「や、だからあんた」
「楽しみにしている」
では、と道化師のようにおどけてみせた姿が、こちらの訴えを聞く前に掻き消えたのは記憶に新しい。
それから先は、こちらの選択権などないに等しかった。
ルメスリージュに戻った大会の二日前、『軽く圧力を』かけられた上層部は態度を一転させ、何が何でも出なければ許さない、と強硬な姿勢をとってきたし、元々エディンの雄姿を見たいと密やかに思っていたらしいラズウェルが大会前夜まで協力的に剣の練習相手に名乗り出てくれた。
結局自分も、それ以外の方法が思いつかなくて、現在にいたるのだけど。
「優勝しなかったら、どうなるんだよ……」
最悪、家には在所を知られ、連れ戻されるのがおちなのではないかと苦々しくうなだれると、ふと思い出す言葉がある。
命を奪おうとした者に抗って、生き延びてみせろ。
苦しげに、だが、優しく囁き、癒された傷。
「……約束、だもんなぁ」
大人と子供の姿を行き来する、そのからくりは知らないけれど。
その存在に、どことなく惹かれるのは事実。
不思議を多く持つ公爵の騎士ならば、悪くないかもしれないと思うのも、事実で。
苦笑して、エディンは顔をあげた。
頭を使うのは、得意ではない。
「抗ってみせますか!」
剣闘会開会の、ファンファーレが鳴り響いた。
END
蒼玉の狂詩曲 糸夜拓 @siyohira_r
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