第6話 ローレライの薔薇と蒼き獅子
どうして、こんなことに?
リヴィはもがきながら、相手を見た。
タリス。
灰色の瞳には生気がない。だが、喉を締め上げる力は強く、彼を呼ぼうとする声は音にならずにせき止められた。
イサベルに励まされ、タリスの眠る部屋へ案内してもらったのは、数分前。
久しぶりに見たタリスの寝顔は青ざめていて、意識を取り戻す気配すらなく。
切なくて、それでも生きていてくれた事が嬉しくて、その両手を握った。
丁度、イサベルがリヴィ、と呼ぶ声に振り返った時、
『リヴィ』?
恐ろしく冷たいものを含んだ細い声に、呼ばれたと思った。
それは、憎悪が混じるとはっきりとわかる声音で。
その次の瞬間、タリスが目を覚ましたのだ。
いや、覚ましたと表現するのは妥当ではないだろう。
目を開いた、のだ。
焦点の合わない目がリヴィを捕らえて、口元がうっすらと笑みを模った。
ああ、目覚めた、と喜びの声をあげようとした、次の瞬間に。
その細く長い指が、首元に絡みつき、リヴィの呼気を奪った。
驚いたイサベルが悲鳴をあげた直後、立ち上がった彼に蹴られて昏倒した。
「タ、タリス殿!! お手をお離し下さい!!」
護るべき相手が牙をむいているという現状に取り乱した警邏兵がおろおろと駆け寄るが、ギャアという悲鳴と共にたちまち飛びのき、花瓶を倒してうずくまる。
自由にならない視界で無理矢理見れば、警邏兵が腰から下げていたはずの剣が、彼自身の腹に生えていた。
リヴィの細い首を掴む手を利き手に、逆手で兵の剣を抜いて刺したらしい。
扉の外の兵はどうしたのだろうか。少しばかりの隙間から、室内にいた兵と共にこちらを監視していたはずだが、悲鳴と足音を残して気配が消えていた。
「ど、うし」
それにしてもどうして。
どうして、首を絞められているんだろう?
目覚めた瞬間に殺したいと手が伸びるほどに、嫌われたのだろうか?
それにしては、憎悪も嫌悪も浮かばない、仮面をつけたような顔で。
何か、変だ。
「タ、」
タリス。
ギリリ、と喉に食い込む指の力が増したところで、リヴィは意識を手放しかけ。
ああそれでも、彼の手にかかって死ぬのならば悪くないかもしれない、などと、不謹慎にも思った。
丁度その時に。
「リヴィ嬢!!」
不意に湧き上がった気配が動いて、鈍い音と共に喉から指が引き剥がされた。
聞き覚えのある、その声は高め。
「しっかり!」
その直後に、どこか上ずった低い声が、手放しかけたリヴィの意識をつなぎとめた。
「エディン! リヴィ嬢を保護しろ!」
揺ぎ無い支配力を持つ声は、なじみの宝石調律師のもの。
彼は、常に傍らに携えているステッキを構えている。
手を抑えたタリスが、うつろな表情のまま唸るのがわかった。
「んなこと言われなくてもわかってます! レディ、こっちへ!」
命令を受けたエディンは倒れかけたリヴィの体を受け止め、半ば抱き上げるようにして部屋の隅へと抱き上げて避難した。
「くそ、頭ん中フラフラするッ! こんな移動法があるなんて聞いたことねえ!」
エディンは頭を抑えずにはいられない。
俺は中庭にいたはずだろ?
激しい眩暈と共に視界が歪んだ、と思った次の瞬間に、壮絶な落下感。
次の瞬間には、このタリスの寝室に。
目の前で首を絞められたリヴィの爪先が浮くのを見て、混乱する暇すら与えられなかったのだ。
「情けない奴だな」
ステッキを剣のように構えたまま、キストが小さく笑った。
その目は険しく、真正面のタリスを睨みあげている。
睨まれたタリスは、唸るのもやめ、端正な顔から表情を落としてぼんやりと立ちすくんでいる。
「タリス・リダースン。自力で目覚めろ。誘惑に抗え」
囁くのは、幼い少年の声のはず。
だが、重く響くのは何故だろう。
「ア……」
声を受け、ピクンと細長い指先が震える。
光を映さなかったタリスのその目には、若干の光が戻る気配。
震えた唇が微かに動き、緩やかに盛り上がった涙が、ゆっくりと頬を伝ってゆく。
「タリス!」
よく知る、優しい彼の表情が戻る兆しに、エディンの腕の中でリヴィが叫ぶ。
だが。
ダメよ、タリス。
美しい貴方。
貴方は私のもの。誰にも、渡さないわ。
「ッこの声!」
エディンが目を見開いた。
肌が粟立つほどの、狂気を纏う声。
タリスのくつろげた胸元に下がる蒼い薔薇が、ザワリと花弁を波打たせるようで。
倒れる兵の腹から引き抜いた剣にタリスが細い指を絡ませ、引き抜く。
その目から、光が急速に失われていく様に、背後に飛びのいたキストが低く笑った。
ステッキを右手で構えたまま、肩をすくめる仕草をしてみせて、囁くのが、
「こちらのご婦人は執着が存外に強いらしい。しつこいレディは嫌われますよ?」
「あんた、そんな悠長なこと言ってッッ!!」
そんな幼いなりで、ステッキ一本でどうやって応戦するんだ、とさすがにエディンが声を荒げて、対峙する二人の間に飛び込むのと。
意志を持たぬ傀儡のようなタリスが、ゆっくりと長剣を振り上げるのと。
「エディン、目を一時閉じたほうがいいぞ」
からかうような声音が間近に、と感じた直後、キストの左手の大紋章を中心に、青白い光が爆発したのは、ほぼ同時。
光は一瞬で消える。そして直後に、
「ッ」
振り下ろされる、殺気。
目を閉じたまま、エディンは体をひねった。
両の手に、軍装の下に隠し持っていた短剣を握り、背にキストを庇ったまま、歯を食いしばった。
ガキィン!!
「お見事」
満足げに、聴き慣れない低い声が笑った。
カタカタと震える長剣の重い衝動を受け止めたまま、その声の低さに振り返ったエディンは、ゆったり微笑む姿に、言葉を失う。
「あ、んた…ッ!?」
少年の姿はなく、目の前には、青年の姿。
スラリと細くバランスのいい肢体を包む、黒のコートに蒼のクラヴァット。
濃茶ではく、漆黒の髪が揺れ。
オニキスではなく、蒼い目に、チラチラと満点の星空のように銀からちりばめられて。
ドクン、と。
その存在に畏怖するように、鼓動が跳ねた。胸が……痛い。
…てやろう。
塗りつぶされていたように、見えなかった記憶が浮かんでくる。
あの夜、遠退きかけた意識を強引に引き寄せた相手は、闇に溶け込む髪色をしていた。
その蒼の双眸が見下ろして、痛みすらもうわからぬこちらの胸の傷を指先でたどり、
「神がいるのだとしたら、なかなかに楽しい筋書だな」
苦しげな吐息が溶かしこまれたような声でそう笑って、いいだろう、と。
「いいだろう。お前を救ってやる」
命を奪おうとした者に抗って、生き延びてみせろ。
約束だ、と。
囁きを受けながら、痛痒を伴いながら塞がれてゆく傷を見たような。
あの、不思議な光をまとわりつかせた左手には、確か。
錫杖と王冠を二匹の狼が護るという図柄の盾、を咥える獅子の大紋章が。
ああ、そうだ。
大聖堂からバタバタと近付く気配が、ラグラス様、と。
ラグラス・アジュール様、と。
「おや、その顔は……どうやら、思い出したようだな?」
動揺の理由を知る声音で、彼は笑った。
手袋を脱ぎ去ったままの左手には、変わらず青銀に光る大紋章。
どうして、忘れていたのだろう。
「あなたは……ッ」
「おっと、懐かしいその話は後ほどに。今はそのままタリスを抑えていろよ?」
「えッ、な、ちょっ!」
黒のコートを翻し、キストは渾身の力で剣を押し通そうとしているタリスの背後に回る。
自分より拳二つ分ほど低いその背を、何をする気だと視線で追うと、ギリギリと歯を食いしばる相手の首元から、
カシン!
悲鳴のような音をたてて、水色の薔薇が床へ落下した。
「タリス殿! しっかり! うわッ!」
正気に戻るどころか、力が強くなり、エディンは体勢を崩しかけてうめいた。
もしこのアクアマリンが呪いの石の類なら、外した今は正気に戻るんじゃないのかと悲鳴をあげたエディンに、キストが違う、と余裕顔で低く笑う。
「この男はあまりにもローレライの負の力に捕らわれている。石を引き離しても一度受けた負の力は保たれる」
調律よりも、こいつに染み込んだ毒気を抜くのが先決だ。
「毒気を抜く、ってどうやって……ッ! 危ない!」
エディンの短剣から重みが失せる。
タリスの殺意がキストに移った!
素早く突き出された剣に、エディンはとっさにタリスに体当たりをして、その剣の軌道をそらす。
それた軌道をうまく避けて、キストがニィっと笑った。
「石の魔力は同じく石を介する。人間も宝玉を一対、持っているだろう?」
人間の、美しい一対の宝玉。
「あ…、目のことか!!」
声をあげたエディンに彼は笑った。
その左手に青白く光を放つ、大きな刻印。
アイオス皇家の皇章を咥える、蒼き獅子の大紋章。
膝をついた体勢から立て直そうとフラリ、動いたタリスが再び剣を振り上げるよりも早く、キストの体が懐に飛び込む。
その左手が、澱んで光る灰色の一対の宝玉を覆った。
「国の守護者にして宝玉の番人たるラグラス・アジュールの名において命ずる」
低く通る声が、まるで歌うように響く。
途端に、ビクンと痙攣を起こしたようにタリスの体が強張り、反り返った。
不思議な色の目が、不意に、金色に輝いて。
「排除し、正常なる流れを呼び戻せ!」
聞く者を支配し、逆らう事を許さない、声。
「がッ」
その声に呼応するように、再度ビクンと震えたタリスの口から、獣のような咆哮がほとばしった。
剣を取り落とし、もがく体は、目を押さえている手だけの拘束をふりはらえずにその場に止まる。
彼の目を押さえたキストの手の隙間から、赤黒い霧のようなものが一気に吹き上がる!
「うわッ!」
「エディン、気をしっかりと持っていろよ。でないと、ローレライに引きずり込まれるぞ」
「それは一体……ッ」
「これが、彼の身の内に澱んでいたローレライの薔薇の瘴気だ」
「瘴気!? て、そちらこそ、取り囲まれてッ」
「安心しろ」
タリスが取り落とした剣を一応遠くへ弾いて、エディンは目を凝らした。
引きずり出された赤黒い霧は、タリスとキストを囲むように渦を巻き始めている。
「これも私の糧になる」
その、言葉の意味を問うよりも早く。
スウ、と霧が薄くなっていくのがわかった。
目を凝らして見れば、キストの体に取り込まれていくよう。
彼の長身にまとわりつき、色を薄れさせ、消えてゆく。
やがて、完全に霧が晴れた時、タリスの体が揺れて、その場にドサリと倒れ臥した。
「タリス!」
部屋の隅で震えていたリヴィが、悲鳴をあげて駆け寄る様子を見ながら、キストが無造作に首飾りを拾い上げる。
エディンは呆然と、キストの言葉を繰り返した。
「か……糧、って……」
「ん?」
何だ? と、それまでの緊張感が嘘のようなキョトンとした顔で振り返ったキストは、禍禍しいオーラを放つ薔薇へと口付けている。
その姿すら、美しい絵画のような。
ガーネットに口付けた時よりも長く、彼は薔薇に唇を寄せる。
瘴気が漂わずともわかる禍禍しさが、徐々に薄れていく。遠くから足音が重なる頃合になってようやく水色の花弁から唇を離したキストが、満足げに笑って、
「ん、長きにわたり狂っていただけあって、相当な瘴気の量。久しぶりに腹が満ちたぞ」
と、戯れのように再度、唇を石に落として見せる。タリスを起こそうと手をかけていたリヴィがその様子に瞠目した。
そういえば、と首を傾げながら呟くのは、
「あの、貴方、は? 宝石調律師さんは、どこに……」
確か、飛び込んできた声はあの小さな宝石調律師のものだった。
意識が遠のいていたとはいえ、見知る声を聞き違うはずがない。
必死に呼吸を整えていた時に蒼い光に驚いて顔をあげたら、そこにいたのはこの青年で。
では、貴方は、誰?
疑う事を知らない純朴な声に、問いを投げられた青年は困ったように笑った。
「レディ、知らなくていいこともある」
どうか聞かないで、と囁きながら、胸元から取り出したガーネットを彼女の首筋へ。
「あッ!」
鮮やかに輝くそれに目を落とし、リヴィが驚きに目を見開いた時に、折よく、ドンドン、と扉を叩く音。
「ああ、いろいろ面倒だな」
淡く吐き出されたため息が、扉を開け放つ音に掻き消える。
「何言って……ッッ」
人が一人、死に掛けたというのに不謹慎な言葉だと、思わず顔をしかめて、駆け込んできた警邏兵達から視線を戻した時、すでにそこに青年の姿はなく。
「すいませんが、ペルフィールド副警邏長をお呼び願いませんか。事件の真相について、彼と話がしたい」
少々生意気な口調の、少年がにっこり笑っているだけだった。
オニキスの目が、チラリ、とこちらを見上げて、ニ、と唇が性質の悪い笑みを模った。
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