審判
緑茶
審判
『なぜ』という言葉を吐く機会というのは、鳩のフンみたいなもので、突然訪れるものだ。
おれは今部屋の隅で震えながら、そいつを考えている。
そばには拳銃があって、どれだけ遠ざけても、なぜかおれからは離れてくれない。ためしに窓から投げてみたけど、シャワーを浴びようと浴室を開けたら、バスタブの中に入っていた。
だからこいつもきっと『なぜ』の範疇にはいる。
おれは膝を抱えて考える。どうしてこうなったのだろう。
そもそものきっかけは――。
◇
おれは、市役所の職員として仕事をしている。親のコネで入ったから楽勝と思っていたのは最初だけで、実際の業務というのは、毎日のように生活保護を求めて窓口にやってくる粗末な身なりをした人たちにお茶を勧めて、それから言葉を濁してお帰りいただくというものだ。
これはなかなかきつかった。おれが、その人たちの今後を決めてしまっているようなものだから。
だけど、職務をこなしていくうちに、手の抜き方を覚え、ケースごとの対応を覚えていった。
それでだんだん楽になっていって、今ではまるで書類にはんこを押すように収入を得ることができるようになっていった。
もう、簡単だ。おれにとっては天職だった。
その日はたまたま残業があったから、おれは一人夜遅く、道を歩いて帰っていた。
そしたら後ろから、足音がついてくるのが分かった。
誰だと思って振り返ったら、そこにはぼろぬのを頭からかぶった、怪しい男が立っていた。
そいつの顔はやけに真っ白で、死神みたいに不気味だった。
なんか用か、とおれがたずねると、そいつは奇妙なことを言った。
「用がないのにたずねるわけがない。お前は本当はわかっているんだろう」
意味がわからなかった。アル中か何かか。そう思ったおれは、そいつを無視して、踵を返した。
そしたら、そいつはいつの間にか、一瞬で目の前に現れた。
流石に面食らって、逃げようとした。
すると、そいつの青白い腕がおれを掴んだ。
引き剥がそうとしても、なにか引力のようなものが働いて、離れない。
死神はおれに言った。
「わかってるんだろう。わかってるんだろう。お前は大罪人だ。お前は最も重い罪を犯していながら、それを自覚していない」
やっぱり意味不明だ。
おれはなんにも、罪なんておかしちゃいない。真面目に仕事をしていて、今帰るところだ。そう言おうとしても、おれの手を離さない。
「わかっているんだろう。わかっているんだろう。わかっているんだろう」
何度もそいつはそう言ってくる。まるで呪文だ。頭にこびりついてくる。
いい加減腹が立ったおれは、そいつを殴ろうと、片手を上げた。
……すると不思議なことに、出来なかった。なにか不思議な力が、おれを止めていた。
わかっているんだろう。わかっているんだろう。わかっているんだろう。わかっているんだろう。
声が響く。助けてくれ、助けてくれ。
おれはなんにもしちゃいない。この頭のおかしい奴から、おれを解放してくれ。
手首がちぎれるほどに痛い。だから。
――誰かこいつを、おれの目の前から、消し去ってくれ。
そこから先は、一瞬だった。
なぜか次の瞬間には、おれの手には、拳銃が握られていた。おれのものだった。部屋にしまっていたはずなのに。
そうして、おれの意思とは裏腹に、そいつは死神の眼前にかかげられて、おれの制止を聞くこともなく。
引き金が引かれて、目の前にある顔面を、打ち砕いた。
……おれは恐怖し、頭の中が真っ白になった。
拳銃を投げ捨てて、その場から離れる。
ちがう。おれじゃない、おれじゃない。
確かにおれは、こいつが消えることを望んだ。
でも、死ぬことまでは考えちゃいない。おれじゃない、おれじゃない。
からがら、自分の部屋に戻る。
あわてて自分の顔を水でゆすぐと、部屋のそばで、コトンと音がした。
見てみるとそこには――さっき捨ててきたはずの、拳銃があった。
◇
そうしておれはここにいる。
おれはここで、おれが裁かれるのを待っている。
拳銃は離れてくれない。叩き壊してゴミ箱に入れても、引き出しの中に戻っている。
がまんならなくて、おれは額に銃口をあてて、引き金をひいたりもした。
だが、なぜか弾は出ない。おれは死なない。
何か、超自然的なものが、おれを裁かずに留め置いているようだった。
だからおれは待っている。ここで、警察や誰かがやってきて、この拳銃を証拠品にして、事実関係を証明してくれるのを待っている。
◇
しばらくしたら、部屋をノックする音が聞こえた。
心臓が跳ねて、その音がハッキリ聞こえる。
おれは震えながら立ち上がり、ドアノブを引いて客をまねく。
中に入ってきたのは、いやに背の高い、スーツ姿の男だった。
帽子を目深にかぶっていて、目元がぜんぜん見えない。直立する木のような男だった。
刑事かだれかか、と思った。
おれは何を言うべきか考えた。はじめに、何をどう説明すべきか。誰に何を懺悔すべきか――。
……しかしそいつは、急に。
「素晴らしいことをした! あなたは、素晴らしいことをした!」
叫んで、両手を広げて、おれをぎゅっと抱きしめたのだ。
生暖かい息と、口のくちゃくちゃ言う音がすぐそばにあった。
わけがわからなくて引き離そうとする。
素晴らしいって、なんのことだ。おれは何も、称賛されるようなことなんてしちゃいない。
やったのは、いつもどおりの仕事で、それから、それから……。
――おれは、人を殺したのだ。
だから、そいつにそう言った。
しかし、男は止まらなかった。
「それが素晴らしい、と言ったのです! その男が誰だか知っていますか? クズのような奴ですよ! あなたは正義をなしたのです!」
歌うように叫んでいた。
男はまもなくおれを解放した。
クズのような奴だって、一体あいつはなんだったんだ、何をしてきたんだ。
おれがそう問うても、目元の見えない、仮面のような顔のそいつは何も答えなかった。
その代わりに、言った。
「分かっているくせに! ほら、その証拠に……あなたの栄華を称賛しに来る人たちが、ここに居ますよ!」
男は、ドアのほうにおれの視線をいざなった。
すると、何人もの人たちが、おれの部屋にわらわらと押し寄せた。
そのうちの一人、花屋の娘らしい者が、おれの部屋に色とりどりの花びらを撒き散らし、同時に甲高い拍手が響いた。どこからか、楽器のファンファーレまで聞こえてくる。
おれはあっという間に、人々に囲まれた。
みんな、知らない連中だった。知らないそいつらがおれを取り囲んで、にこにこと笑いながら、口々におれを賛美する。
――あなたは英雄。
――この街を救ったのよ。
――素晴らしい。あなたがやったことは素晴らしい。
わけがわからない。おれはそんなことをしちゃいない。
だって、おれがやったことは、やったことは……。
◇
記憶が流れ込んでくる。
おれは確かに、人を殺したんだよな。
それから。そうする前はどうだった。
おれは仕事の中で、たくさんの人達の未来を打ち切ってきた。
そうするのが当然のように。
ちょっとまて。
それなら、おれがやったことは、やってきたことは……。
◇
おれは寒気がして、今すぐまわりに響く声をかき消したくなった。
ちがう。おれはそんな奴じゃない、おれが今までやってきたことは……。
汗が止まらなくなる。全身をかきむしりたくなる。
おれを囲む輪はますます小さくなっていき、逃げ場所がなくなる。
おれの手をぎゅっと握る人がいた。
顔を上げる。
そこには、一人の老婆。
彼女は涙ぐみながら、言った。
――あなたは、わたしらを助けてくださった。なんとお礼を申し上げていいか。ああ、なんて素晴らしい人。
彼女は何度もおれの手をふって、おれに感謝を伝える。
おれは戸惑いと不安と恐怖のなかで、その老婆に既視感をおぼえる。
ぞっとする。
背中に冷たい氷を差し込まれたようだ。
……なぜって、その老婆は。
おれが、窓口で冷たく追い払った客だったからだ。
老婆はおれに何度も礼を言う。
あんたは命の恩人だ、あんたは、あんたは……。
――ちがう。
おれは叫ぶ。
――ちがう、おれはむしろ、あんたを追い詰めた。そしておれは、あんたを裁いたんだ、何の感情も込めずに。
――逆だ、逆なんだ。あんたはおれを罵るべきなんだ……。
しかし、老婆には通じていない。
おれの中で言いようのない不快感がますますつのる。
鼓笛隊の音楽と拍手は、のぼりつめるように、どんどん甲高くなる。
――ああ、よければ、あんた。わしの、ほんのすこしの、お礼です。
老婆はそこで、後ろから一人の少女を差し出す。
――わしの孫です。よければ、この子を娶ってくれんか。
そこで前に出てきた少女は顔を赤らめ、服の端をつまんで、上目遣いでこちらを見ていた。
そこには羞恥と、それ以上の敬意が、おそれが宿っていた。
……おれは絶叫する。
――ちがう。あんたはあの日、この婆さんの付添に来ていたはずだ。
――そして、おれを冷たく睨みつけて去っていったはずじゃないか。どうしてそんな顔をするんだ。ありえない、ありえない。
わかっているくせに。わかっているくせに。
老婆の声。おれはからだをかきむしる。
それから、人々をかきわけて突き飛ばして、その輪から逃げる。楽器からも、拍手からも。
おれには、最後ののぞみがあった。
そうだ……おれにはあれがある。あれを証拠品として警察に突き出せば、おれはこの狂った連中から解放される。
牢獄のほうが、それよりもマシだ。だからおれは……。
◇
だが、拳銃はもう、部屋のどこを探しても、なかった。
はじめから一切存在していなかったかのように、空間から消え失せていた。
◇
おれは足元から崩れ落ちる。
そして、そんなおれをかばうように、再び人々が、取り囲んだ。
そこから一体どれくらい、囲まれているだろう。
わからない。時間の感覚が消え失せて、おれは果てのない称賛につつまれている。
娘がおれの首に手を回して、頬に口づけをした。それも、何も感じない。
花びらが舞う中で、時間が無限に引き伸ばされていく。楽器の音がどこまでもゆっくりに聞こえ、拍手がまばらに感じる。
……そのまま、無限が永遠になれば、おれは神に会えるのだろうか。
そうなれば、解放されるのだろうか。分からない。
ただ少なくとも、今この場で、そいつを望むことは出来ないだろう。おれはここから、出られない。袋小路。
涙すらでなくなった中で、おれは、おれの頭の中にいた、過去にであった様々な人々と、名前の知らない一人の男に侘びた。
それから、誰に言うでもなく、ただひとこと、がらんどうの、真っ白の、だれもいない世界の中で、叫んだのだ。
誰か。
誰か、このおれを、裁いてくれ。
審判 緑茶 @wangd1
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