涙の意味なんて知らない
お日様が昇って、またいちひこがお話に来てくれるかしらと水面に顔を上げたその時。
げほげほという、胸騒ぎのする音が聞こえた。このげほげほは、たびたびいちひこの口から漏れる、声とは別の音だった。こうなると、いちひこは決まって苦しそうにするから、私は気が気でなくなってしまう。
それが今日は一段と激しくて、私は水たまりの覆いを引っ張った。覆いは強く抵抗して、私を外に逃がしてくれない。
私は思わずそれに噛みついた。
何度も何度も食らいつく。
邪魔だ。
歯が覆いに引っかかる。
私の邪魔をするな。邪魔をするなら、許さない!
口の中が、いつもと違う気がした。舌に触る歯が、なんだか尖っていて、痛い。
覆いがぶちぶちと音を立てて、破れた。
『いちひこ!』
実に、たくさんの時ぶりに、私は体を持ち上げた。ずっと狭い水たまりの中にいて、私の体はずいぶん力が抜けてしまっていた。初めて自分のひれで上がる陸、ずるずると這いながら、いちひこの下に向かう。
「ああ、良かった。自分の力で外に出られたんだね」
いちひこも這うようにして、私の傍に来てくれた。
ぜいぜいと、荒れた海を渡る風のような音をさせて、それでもいちひこは笑った。
「このままお逃げ。そろそろ僕の抵抗も、父上には効かなくなると思うんだ」
いちひこが私の肩を掴む。
初めて、覆い越しじゃなく触れられる。
「きみを食べるなんて、そんなことできるものか」
いちひこが何を言っているのかわからない。
ああ、なんてもどかしいのだろう。
私は首を振った。
「一彦!」
今までで一番、不愉快な音が響く。
「父上」
「お前、人魚を逃がすつもりか」
「そのつもりです」
「お前の体は、もう長くはもつまいぞ。人魚の肉でも食らわねば」
「この子を食べて助かろうなど、まっぴらごめんだ」
いちひこと男がにらみ合う。
口の中が、いっそうざわついた。
「なに、案ずるな。別に肉でなくとも良いらしい」
不愉快な声が一際大きくなったかと思うと、突然、衝撃が走った。
髪を思い切り掴まれた。乱暴に引きずられて、そのまま地面に投げ捨てられる。顔を上げる間もなく、背中に激しい痛み。
私は声を上げた。
海の中では上げたことのない、これが悲鳴。
「父上!」
いちひこの声も悲鳴のようだった。
「ほう、これでも涙を流さぬか。人魚はなかなか泣かぬというのは、嘘ではないらしい」
男の手には、奇妙な形をした黒い棒のようなものがあった。どうもそれで背を殴られたらしい。
「なんてことを、父上!」
「人魚の涙も妙薬になるらしいからなあ。だが、泣かせようにも人魚がどうして心を動かすかなんてわからぬ。なれば、体に訴えるしか無かろうよ」
「そのような非道な真似をしてまで、私は生き永らえたくなどない!」
「そうか。ならばお前は好きにすれば良かろう。だが、私は諦めぬぞ」
いちひこは、黒い魚のようにぽっかりと口を開けた。
「私はこの人魚の肉だか涙だか血だかを、ありがたくいただく」
男の持つ黒い棒が、銀色の棒に変わった。棒というには薄く、恐怖を感じさせる冷たさ。
「子のためと言えば、周りの者も随分と力を貸してくれたなあ」
「あなたは……」
地面の上で固めた、いちひこの拳が震えていた。
二匹が何を話しているのかわからなかった。私は自分が知っている言葉をただ口にする。
『いちひこ』
そう呼びかけた瞬間、私の目の前で、銀色の不吉な何かが、振り上げられた。
直後、鮮やかな赤い色が宙に舞った。
『いちひこ!』
私と男の間で、いちひこが倒れた。
いちひこの胸に広がるのは、鮮やかな赤い色。
これは血だ。
私はいちひこと違う生き物だけど、私にも流れているものだから、知っている。
目の前の光景が、何を意味しているかも。
「ああ……」
男が赤く染まった銀色を地に落とした。
ああそれが。
私は高いところにある男の顔を見つめた。
二本の足が欲しいなんて思ったこと、なかったけれど。
今、猛烈にそれが欲しかった。
あの男の顔に、近づくために。
「涙」
届かぬところにある男の顔が、何か言った。
何を言っているかは当然わからなかったし、どうでもよかった。
目頭が熱かった。
きっとずっと、陸にいるから。
だけど頬からは、水の感触がした。水たまりの水では感じることのなかった、海の潮に近い感触。口元に流れ落ちてきたそれは、懐かしい海の味がした。
「涙だ。人魚の、涙」
再び、覚えのある衝撃。
男が私の頭を掴んでいた。男の顔が近づいてくる。
「よくやった、一彦」
瞬間、身内で潮騒が大きく渦巻く。
水たまりの覆いに邪魔された時にも、強く思った。
許さない。
許さない!
私は男の首に食らいついた。
尖った歯が、肌と血の
ありがたくもない、男の血が口内に流れ込んだ。
私は気色の悪いそれを吐き出して、動かなくなった男を放り出す。
『いちひこ』
倒れたいちひこの胸に縋りつく。上下する胸と荒い息。
私の目からは、とめどなく潮水が流れ出した。
なんなのだろう、これは。こんなものが目から零れ落ちるのは初めてのことだ。
何の意味があるのかわからない。
私から流れ落ちた奇妙な海の水は、いちひこの口元に落ちる。
いちひこは、硬く唇を引き結んだ。
なんどもなんども、私の海水はいちひこの唇を叩く。
口から呼吸することをやめたいちひこは、決して口を開かなかった。
ああ、もしも。
このひとを、優しくしてくれたこのひとの命を救う奇跡があるのなら。
私の命さえ投げ捨てて、構わないのに。
その涙さえ命の色 いいの すけこ @sukeko
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