いちひこ
「
もう一つ人間の声がして、小さい声の人がそちらを振り向いた。
「父上」
「どうだ、人魚だ。すごいだろう」
「はい、とても珍しいものですね」
「そうだろう、そうだろう。お前に珍しいものを見せてやりたくて、漁師たちに捕らえてきてもらったんだ。見たという者がおったからな」
「だけど、こんな狭い池に閉じ込めてしまうのでは可哀想ではありませんか?海に離してあげるべきだと思いますが」
「せっかく捕らえたのだ、逃がしてはもったいなかろう」
「けれど」
お話をやめて、後から来た人間の方が水たまりに手を伸ばした。私から離れたところで、水たまりを塞ぐ覆いと、岩の間に腕を突っ込む。ばしゃばしゃ大きな水音がした。黒い魚がいっせいに逃げ惑う。
「今日の
人間の手元で、一匹の黒い魚がびちびちとはねた。口に指を突っ込まれた哀れな魚は、そのまま人間に連れていかれる。
「ごめんね」
残された小さいほうが、泡のような声で何かを言った。
それから私は、水たまりの中で何回もお日様が顔を出し、隠れるのを見届けた。
時々、黒い魚が人間に連れていかれるけれど、私はずっとそのままだった。お魚がどうなったのかはわからない。
私のいる池からは、人間の巣がよく見えた。
そこには泡の声の人がいて、巣の中に更に小さなねぐらを作っていた。ねぐらの材料は白い何かで、その人はその中に足から潜り込んで、頭だけを出している。お日様の代わりに何度もお月様が昇る間、その人はほとんどねぐらの中にいた。
時々、体を起こして、他の二本足が運んできた何かを口にする。きっとあれが人間の食べるものなのだろう。なにかどろどろしたものを口に流し込んでいる。食べものを運んできた人は、泡の声の人が食べ終わるまでずっとそばにいた。食べるのが済むと、運んできた色々なものを抱えていなくなる。
ねぐらに一匹だけになると、よく泡の声の人は水たまりの傍まで来てくれた。
「ごめんね」
そしていつもおんなじことを言う。
『ご、え、んえ』
だから、私もすっかり覚えてしまった。
泡の声の人は大きく目を開いた。
「きみ、しゃべれるの?」
『ごえん、え』
「ああ、私がいつもそういうから……。そうか、覚えることはできるのかな」
ぐっと顔が近づいてきた。
「私の名前、覚えられるかな。そうしたら嬉しいなあ。あのね、私の名前は、一彦」
『ごえんね』
「それはもういいんだ。きみが口にする言葉じゃないから。いちひこ、だよ」
『ごめ』
「いちひこ」
『いいい、こ?』
「い、ち、ひ、こ」
『いい、ひこ』
「うん」
『いちひこ』
私が繰り返すと、『いちひこ』の人が笑った。
「本当は、きみのことを海に帰してあげたいんだ」
私はいちひこと沢山お話をするようになった。
そうは言っても、私はいちひこの声の意味が分からないし、私の声の意味もいちひこには届かないだろう。だから、ただいちひこの声を聞いてるだけだったけど、波の音のように心地よかったので、それで充分だった。
「だけど私は思うように動けなくてね。きみを抱えて海まで行けそうもない」
私は首を傾けた。
「生まれついて体が弱くて、長くは生きられないと言われているんだ」
私の傍で黒い魚が跳ねる。魚たちはずいぶんここから連れていかれた。
「父上は、人魚が珍しいから捕まえたと言った。寝たきりの私に、せめて面白いものを見せようと言って」
いちひこをじっと見つめる。そうすると、いちひこはどんどんお話をしてくれた。
「でも、きっとそれだけじゃないんだ。ねえ、人魚って」
いちひこの声が詰まる。
「食べたら本当に、不老不死になるの?」
何を聞かれたのかわからなくて、私は口をぱくぱくさせた。
「……ごめんね、残酷なことを聞いたね」
また『ごめんね』だ。
やっぱり『いちひこ』の人じゃなくて、『ごめんね』の人なんじゃないかと思う。
「ああ、うん。言ってる意味が解らないよね。いいんだ、わからないでおくれ」
いちひこの手が、私の頭の上に伸びてくる。私の頭上を塞ぐ覆いは隙間だらけで、そこからいちひこの指が入り込んで。
そっと、私の頭を撫でた。
『いちひこ』
それがなんだかとても優しくて、また私の目頭が熱くなるのだった。
***
「一彦は、鯉も食わぬのか」
「左様で。弱った体では、固まりの食材はもう受け付けないのかと思うてすり身にしましても、生臭さで吐いてしまうと言いまして」
「人魚の肉を食うどころではない、と言いたいのだろうなあ。時間もないことだ、無理やりにでも食べさせるべきか」
「もしくは、涙か」
「涙?」
「人魚の涙も、薬になると言いますな。ただ、人魚は滅多なことでは泣かぬと言いますが」
「人魚の涙、か」
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