その涙さえ命の色
いいの すけこ
泡の声のひと
海の中に永いこと、永いこと私はいる。
暖かくなったり、冷たくなったり、空から降ってくる光の色が変わることもあるけれど。私はいつも穏やかに波に揺られていた。
そうして海の寝床で静かに眠っていたければ、陸には近づいてはいけないよ。
そう、ねえさま達に言われていたのに、私はうっかりと、本当にうっかりと海面近くまで泳いでしまったのだ。だって、海の上の方が、明るかったから。
海ってこんな暖かくて、柔らかいところもあるのね、なんてのんびりしていたら、急に頭の上に何かが降ってきた。海流に乗ってきた木片みたいに、思い切り勢いをつけて。
頭の上のそれを確認しようとしたら、ひれの下からも何かが迫ってきた。
え、え、なに。なにが起きたの。なにこれ。
首を振って辺りを見回す。自分の長い髪が視界を塞いだ。髪が頭の後ろに流れて、視界が開けたと思ったら。
体がぎゅっと縮こまっていた。何かがまとわりついて、体を締め付ける。そのまま思いっきり引っ張られ、体がごろごろと転がって、あちこちが硬いところにぶつかる。
この感触は海じゃない。
陸だ。
「人魚だ!」
「人魚を捕まえたぞ!」
海の中では聞かない、大きな音がした。
目を開けると、私のことを三匹ほどの二本足が囲んでいた。二本足は、人間。陸に住む、体の上だけ私たちに近い生き物。多分、男の人間。
「これが人魚。本当に足が魚の姿をしておる」
「嘘みたいだなあ、こんな姿。本当にいたのか」
「とにかく、領主様にお届けしないと」
男たちが口を動かすと、さっきと同じ大きな音がした。
きっとこれが人間の声。
私やねえさまや、魚たちの声は泡のはじける音と一緒だから、全然違う。
なんてうるさいんだろう。
私、海に帰れるかしら。
もう、ねえさま達の言いつけを破ったりしないから。
ぱくぱくと口を動かす。
「はは、口をぱくぱくさせてるの、魚みたいだな」
男が私の口に指を突っ込んで、とんとんと唇を叩いた。
「うわっ!」
あまりにも不愉快だったので噛みついてやったら、男はもっと不愉快な声を上げた。
「このやろう」
顎下からばちんと叩かれる。がちりと唇を噛んでしまって、口の中に血の味が広がった。
それはとても不吉な味で、私はもう二度と海に帰れないような気がした。
私はそのまま男たちに運ばれた。
担ぎ上げられて、男たちが二本の足で動くたびに体が揺れた。嵐の海みたいに激しい揺れで怖かった。潮の匂いが遠ざかっていく。
体が渇いて、このまま死んでしまうのかな。
そう思った頃に、水の中に放り込まれた。海みたいに大きくなくて、岩に囲まれている。大きな潮だまりかと思ったら、しょっぱくないし、海では見ない魚もいた。黒くて髭がある。
「鯉、食っちまわねえかなあ」
「それじゃ共食いみたいなもんだから、大丈夫じゃないか」
男たちは、水たまりの上から何かを被せた。海の上から降らせたものと、同じもの。
「網の上から、杭打っとけよ」
「杭で押さえても、網を噛み切っちまうんじゃねえかなあ」
「さっき噛まれた時、歯は人間と変わらなかったぜ。牙でもあるのかと思ったけど、あれならよっぽどじゃなきゃ噛み切れないだろう」
ごん、ごん、ごん、という音と、地響きがして、私の頭上は何かですっかり塞がれてしまう。
耳元に寄ってきた黒い魚が、口をぱくぱくとさせた。話しかけてくれているのかもしれない。
『私ね、二本足に捕まっちゃったみたいなの。あなたたちも?』
お魚の口が、ぱくぱくぱく。
言葉は通じなかった。
不安につぶされそうな胸を押さえて、体を横に倒して休む。
普段は体を縦にして休むのだけど、この水たまりは浅くて頭が全部出てしまうから、横にすることにした。
男たちもいなくなって、言葉の通じない魚たちにも飽きられてしまった。どうすることもできなくて、ただ目を閉じて懐かしい海の風景を思い出す。
光で変わる海の色。
柔らかかったり、時々意地悪だったりする水の流れ。
お魚たち。
ねえさまたち。
目頭が熱くなる。こんなことは初めてだ。
もしかして、陸に上がると目がおかしくなっちゃうのかしら。
そんなことを思いながら、折り曲げたひれを胸に抱えていた時。
「ねえきみ、人魚の娘さん」
水面の上に出ていた片耳が、不思議な音を拾った。この音の響きは、多分人間の声だ。だけど、先ほどの男たちに比べて、ずいぶんと小さい。
顔を上げると、そこに人間がいた。
これもきっと男の人間。
でも、先ほどの男たちに比べて体が少し小さかった。私と二人並んで、海の中で真っすぐしたら、おんなじくらいだ。肌の色もおんなじくらい白い。
「ごめんね、漁師たちが」
何を言っているかわからないが、その声は私を捕まえた男たちほど不快ではなかった。
「いや、悪いのは父上かな。父上が、人魚を捕えたものに
大きな声じゃないからかな。泡がはじける音みたいだからかな。
「きみ、人の言葉、わかる?」
小さい声の人が、私をじっと見つめつる。
ねえさま達とお話するときと同じように、目を合わせる。
「わからないか」
笑ったみたいだった。
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