第5話
「逃がす?」
夏生は眼を見開いて私に言った。
私たちは河原に来ていた。
神社の石段を降りた先の舗装路、その向かいを流れる広い河川だ。生い茂る雑草が夜風に揺られて涼やかな音を奏でている。
私は岸辺にしゃがみ込み、月光を浴びる浅瀬のせせらぎに耳を傾けていた。
「なんでまた急に」
「急じゃないよ。始めからそうするって決めてた」
私の手元で泳ぐ二匹の金魚。店主に交換してもらった大袋の中で仲睦まじそうだ。
「俺があれだけ苦労したってのに」
「店のおじさんが根負けしたんでしょ」
あの後、金魚には結局逃げられた。
水面に顔を出すや金魚は暴れだし、和紙を尾ヒレで激しく叩きつけると、
そこからの夏生は今思えば面白かった。
私に大見得切ったものだから、引くに引けなくなって。意地でも捕ってやると躍起に挑んで空回り。最終的には店主が充分稼がせてもらったからと、苦笑いで譲ってくれた。元々は知り合いの養殖業者からもらった劣等魚だそうだ。
「だとしても、わざわざ逃がす必要ないだろ。俺と玲乃のどっちかで二匹とも飼えばいいんだし」
「ずっと狭い世界で生き続けてきたんだもの。あそこを離れることが出来ても、私たちが飼うのなら同じ。自由を奪われ、一つの場所に閉じ込められたまま……誰かに生かされる人生よりも、誰かと生きたいと思える人生の方がずっと素敵でしょ」
「すぐに死ぬかもしれないぞ?外で生きてくのは簡単じゃない」
「たとえ短い生涯だとしても――」
顔を上げて夏生に微笑む。
「好きな相手と自由に生きていけるなら、何ものにも替えがたい幸せよ」
そこにあなたがいない人生なんて、私は笑って過ごすことなどできないもの。
「ずっと気にはなってたんだけど」まじまじと私を見ながら、「玲乃、もしかしてお前、過去に戻ってきたか?」
思いも寄らぬ言葉に驚く私。
その反応に得心した様子の夏生。
「どうしてそれを……」
「俺もそうだから。俺も過去をやり直すために戻ってきた」
ふざけた素振りもなく真顔で。
開いた口が塞がらない。
夏生が未来から?それじゃ私たちは二人してここに戻ってきた?けれど彼は次の日にはもう……。
「ちなみに玲乃はどのくらい先から?」
「……十年後」
「十年後か!ああ、そっか。ちゃんと生きてるんだな……そりゃ良かった。本当に良かった」
私が質問に答えると、夏生はそう喜んだ。
「良くないよっ!」私は叫んだ。「全っ然良くない!」
怒りが湧き上がり、声を大にして言う。
「私がこれまでどんなに辛かったか、分かる?分からないよね!あなたがいなくなってから十年間、ずっと独りぼっちだった。何もなくて、からっぽで、あなたに会いたくて何度も死のうとした。なのにその度に失敗して、虚しさばかりが膨らんでいって……ずっとずっと寂しかった」
胸の奥に押し込めていた感情が一気に爆発していた。
「……ごめん」
申し訳なさそうに謝罪する彼を見てはっとする。
夜風がそっと私の熱を冷ます。
「私の方こそ。ごめんなさい、また怒鳴ったりして」
大きく息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。
「でもどうして未来から?夏生は祭りの翌日にはもう……」
「えっ、俺がなに?」
「溺れるの。早朝から降り続いた雨で河が氾濫して。下流まで攫われて……」
思い起こされた記憶に当時の痛みが甦る。
「待て待て、溺れるのはお前だろ?だから俺はそれを防ぐために過去に――」
そこで夏生は言葉を切った。口許に拳を当てて考え込み――それから未来がどうなったのか、お互いの記憶を照らすことにした。
夏生の話では私との立ち位置が逆転していた。溺れるのは私で、夏生は高校を卒業するとすぐに地元を出て行ったそうだ。上京してからはずっと一人で、虚しさばかりが溢れていたらしい。
そんな夏生を支えていたのは、夏祭りの日から共にいた紅白の金魚だった。和紙を容易に破るほどの金魚がどういうわけか、その時は夏生のボウルの中へ自ら滑り込んだという。店主も文句を言うことなく、そのまま連れて帰ることにしたとのこと。
「自分でも何馬鹿なことをって思うけど、こいつに頼まれたんだ」
紅白の金魚を指差す夏生。
「こっちの金魚を、あの屋台から逃がしてやって欲しいってさ。協力してくれたら俺にも力を貸すって。あぁ、もちろん言葉じゃなくて。玲乃の言うような映像?イメージ?みたいな感じ。その時は夢でも見てるのかと信じられなかったけど、気付いたら実際ここにいて。だからこいつとの約束を叶えることにした」
「だからあの時……」
大柳の下で独りにされたことを思い出す。戻ってきた夏生の手には茜色の金魚がいた。
「玲乃の言うように、こいつらも自由に憧れてたのかもな」
「だったらこの子も素直に捕まれば良かったのに。なんであんな意地張るみたいに暴れたんだか」
「そりゃ好きな奴のためなら命を賭けてもってやつだよ。自己犠牲だって言われようが死ぬ気で助けたい、そう思える奴がいたってことさ」
「自己犠牲じゃなくてただのカッコつけでしょ、それ」
「かもな」
夏生はからからと笑った。
「まあ真面目な話、出来ることなら一緒に抜け出したいと思っただろうさ。でもそう都合良くいかないもんだろ、普通は。願いは一つしか叶わないだとか、代償が必要だとか、犠牲は付きものだとか、いろいろさ。たぶん俺たちに遠慮したんじゃないか?」
遠慮?
私は分からず小首を傾げた。
「紅白色を助けたら玲乃が死んだ。茜色を助けたら今度は俺が死んだ。金魚と俺たちは繋がってるんだ、きっと」
すんなりと納得してしまった。ここに戻ってこられたのは金魚が導いてくれたからだと直感的に理解していたから。
「もしかするとここは、俺たちの見てきた人生が積み重なってできた世界なのかもな」
夏生がしめやかに言う。
「俺は玲乃がいなくなる未来を知っている。それを変えるために過去に戻ってきて、代わりに俺が消えることになった。玲乃が過ごした未来はきっと、俺が変えた世界でもあるんだよ。うん、きっとそうだ。だから俺たちの記憶は繋がってる、矛盾なんかしてないんだ」
「ならこの時間は、金魚たちが紡いでくれた奇跡のようなものね」
金魚たちを見つめる。
「この子たちが自由になったら、きっと魔法は解ける」
私は袋の口を開いた。ゆっくりと傾けていき、金魚たちを川へと解き放つ。
覚悟を決めた。
繋がりがあるのなら、この先私たちはどうなるのか。二人とも死を選ぶのか、また別の世界へ行くのか、それとも……。
「夏生――」
だから私は、やり残したことを成し遂げたい。
伝えきれなかった想いを、届けたい。
私たちは口付けを交わした。
最初で最後のキス。大切な人に贈る心の代弁。あの日引き留められなかった、自分の弱さにさよならを告げる。
成就した願い。
時の魔法が終わりを迎える。
朧気な耀きに包まれて私たちは消えていった。服も髪も肌も、互いの温かい心を受けながら水泡へと姿を変えて、水面に流れて優しく溶け合う。
そこへ放した金魚たちがやって来た。二匹はくるくると楽しげに泳ぐと、やがて泡となった私たちを連れて下流を目指した。
夜空に浮かぶ月に照らされて、私たちはどこまでも進んでいく――。
金魚悠泳 おこげ @o_koge
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