4

 壊したものをいつまでも大事に取っておけるほど純粋無垢でもなかった。毎日時計の秒針を眺めている暇はない。細かい事象は忘れてしまうのにときどき風に触れられたとき古傷が痛むのと同じように心も痛む。だけどその痛みを可愛がっていられるほど時間があるわけじゃない。大学を卒業してもう五年が経った。那月と最後に口をきいてから七年だ。


 岸田と付き合い始めたのはつい三か月くらい前で、その前も合コンで知り合った何人かの男と付き合ったりもした。彼女持ちの男にわざわざ引っかかり都合のいい女のふりをした。べつに誰かをじぶんのところに留めておきたいとも思わないし、じぶんが誰かのところにとどまりたいとも思わなかったから。わたしは色んな男と関係を持つことによって自我を保っていた気がする。少し汚れているくらいがよくて、きれいなものには興味を失ってしまった。同期の健康的な男とか少し年上の容姿端麗な男とは触れ合いたくなかった。


「週末、どっか行こうよ」


 二回終えた後、岸田がそう言った。


「週末は友だちの結婚式です。それに、奥さんと子どもに悪いでしょ」


 この恋愛には「達成」は要らなかった。彼から家族を奪う気にもなれないし、結婚したいと思わないから気軽に抱いて欲しかった。


「結婚式か」


 岸田が表情を曇らせてもう一度きつく抱きしめた。


「珠寿、好きだよ」


 この言葉はいろんな口から、いろんな声できいたけれどどれも不十分だった。


 失くした恋だけがいつまでもいやらしく光っていて、ずっと一番きれいだった。




 きっと来ないだろう、そう思いながらわたしは結婚式に行った。式場は高田馬場の駅から少し歩いたところにあり、こんな雑多な学生街に式場があるなんて突然変異的に生まれたようにしか思えなかった。


 知らない顔ばかりだったけれど知っている顔もちらほらあって、わたしは花菜や志江との再会を喜んでいた。


「那月だ」


 いろんな声の中から誰かがその名を口にして、入り口に目をやった。


 スーツを着た那月の姿が歩いてきた。相変わらず鬱陶しそうな前髪をしていた。このめでたい場所に那月が現れると一気に葬式みたいな感じになってしまう。涙が勝手に溢れ出てきそうになった。わたしは那月を見ないようにしていたけれど那月が近づいてきて顔を覗き込んできた。


「珠寿?」


 口を結んで表情を変えずにいた。


「やっぱり珠寿だ」


 那月を直視できない。あんなことをしたわたしのことなんてもう無視すればいいのに。


「元気だった?」


 なんだか別人のようだ。変に明るいような、声に覇気がある。途端にこれはわたしがきれいだと思っていた那月じゃない気がして顔を見る。顔に掛かっていた陰がすっかりなくなった気がした。だけど面影がまったくないわけじゃない。


 わたしが頷くと周りが無遠慮に那月に話しかけはじめた。一気にわたしの頭の中が那月でいっぱいになった。


 結婚式は段取り通り進められていって、中盤には退屈を覚え始めた。そんなに仲良くないひとの結婚式は親戚の結婚式と同等につまらないなあと途中で飽きていた。何度か斜め前のテーブルの那月と目が合った。ちょうど、新郎新婦を見る際、那月のほうを見るから、そのたび視線を感じた那月がわたしを見る。むかしはいくらわたしが見ても見向きもしなかったのに。


 披露宴が終わって、二次会のためにロビーで待機していると那月がこちらを見ながら近寄ってきた。花菜も志江も別の子と話していて、ちょうどひとりだった。誰にもなにも言わずにふたりでそのまま式場を後にした。


 外は紺色を纏い、建物の明かりがところどころから漏れていて街を彩っていた。五分くらい無言で歩いて、突然、那月が「いま何してんの?」と訊ねてきた。


「事務。コピー取ったり資料ホチキスで止めたりお茶出したり顧客データまとめたりする平々凡々なOL」


「そんなひといるんだ、いまどき」


 那月は明らかに嘲笑っていた。


「大勢いるよ。バカにすんな。那月は、結婚しないの?」


「え? いま誰とも付き合ってないし」


 苦しそうな顔で笑う。確かに昔からそうだったかもしれない。


 那月のことは本気だといった中森の感情など所詮、花火のようなものだったんだなといまさら思う。もう少し辛抱強くしていればよかったけれど、いずれにせよいつかは離れ離れにはなった気がする。


「那月は、仕事何してんの?」


 こんなふうにひとつひとつ確認しているのが不思議だった。あのとき那月から逃げるまでわたしたちはお互いのことなら自然と知っていたのに。


「保育士」


「え? ……え?」


「だよな。うん、じぶんでも変だなって思ってる」


「なんで」


「勧められたから」


「そんな理由? 誰に?」


 那月は黙って答えなかった。


「てか、那月、子ども好きだったっけ?」


「全然。でも嫌いでもない。だから、贔屓とかもしない。みんな平等にどうでもいい。だから贔屓しないからいいねっていわれてる」


 那月は相変わらずのようだった。


「じゃ、わたし地下鉄で帰るから」


 駅に差し掛かるとき、そう告げると那月が手首を握った。


「珠寿」


 帰る気なんて実際さらさらなかった。


「もう少し、一緒にいよう」


 那月は変わった。たぶん、那月から見えているわたしも変わっているだろう。


 拒絶も承諾もしないままでいると、JRの改札に引っ張っていかれて外回りの山手線に乗った。


 那月の家は大塚駅の北口からすぐのアパートだった。中はそれなりに広く感じたけれど物がほとんどないからかもしれない。大きい家具はベッドくらいで、小さいハンガーラックに服が少し掛かっているだけだった。


「お母さんとはどうなの?」


「しばらく会ってない。ほんとに嫌われてたから」


「なんで?」


「さあ、なんでだろうな。楽にしなよ」


 慣れた手つきでネクタイを外し、ジャケットをハンガーにかけてラックに収めた。


 白い部屋に白いカーテン、その中に那月がいるのがとても絵になっていた。大学時代に住んでいた家も似たようなものだったような気がする。


 枕元には大学時代わたしが吸っていた煙草のパッケージがあった。


「煙草吸うの?」


「この前付き合っていた男のひとが置いてった」


 体中の血液がめちゃくちゃな回路で行きかっているようなそんな錯覚に陥った。酸素が薄くなり、体温があがるのに背中にこもる汗は冷たい。


「わたしの所為?」


「は、何が」


 那月は清々しいまでの笑顔だった。


「そんな、那月が男の人と付き合うなんて」


「なんでそれが珠寿の所為になるの? べつに男が好きになったんじゃなくてそのひとを好きになっただけだから」


 那月にそんなことをいわれる人生は幸せだろう。


「好きになるのに男も女もないって、そのひとと出会って気づいたんだ。だから好きじゃなくてもセックスできるし。そのひとのことは特別好きだけどしなかった。そんなことしなくても大事だって思えた。彼は最初に入った会社の上司でさ、保育士になれよっていったの彼なんだ。気まぐれで言ったのかもしれないけど」


「だから那月は」


 那月がゆっくりとこちらを向いた。


「那月は、彼女がいるのにわたしとセックスしてくれたの?」


 那月は前髪をかき分けて、まっすぐとわたしを見た。こうするときれいに線の入った美しい瞼をしている。


「好きなひとができてもわたしとこうしてくれればいいよっていったね」


 頷くと、那月が薄っすらと笑った。


「なんかあのとき、すごく寂しいって思ったのを覚えてる」


 一瞬世界の色が反転した。


「珠寿は、俺のこと本気じゃないんだって思ったから。好きだったらふつう、そんなこといわないだろ」


 那月がなにをいっているのかわからなかった。ここ数日想いすぎて妄想が具現化してしまったのかもしれない。


「だって、好きだっていわなければ一生離れ離れにならないんじゃないかって思ってたの」


 那月は声を口を塞いで声を殺して笑った。ばかじゃないのとはっきりといった。


「それ、あのときいわれたら違ったな」


 わたしは最初の踏み出し方を間違っていた。本気だと言ってしまって失うのが恐かった。正面からぶつかって否定されたら終わってしまうと思っていた。


「なんで泣くの?」


「ずっと……、ずっと後悔してたから」


 自覚はないけれど那月がそういうから泣いている。涙が頬を伝う感覚が徐々に生まれた。


「ずるかったのは俺のほうだよ。珠寿は俺のことが好きじゃないんだって思いながらあの関係に甘んじてたんだから。べつに好きなひとをつくって気持ちを離したいと思ってた。だけどずっと無理だったんだ。だからきょう会えたら、ちゃんと終わりにしたかったんだ」


 悪い魔法にかかったみたいにわたしはなにも発せず棒立ちでいると、那月はベッドから降りてわたしの後ろにまわり、両肩を掴んでベッドに押し倒した。わたしの首筋に、鎖骨に那月がくちづけをした。触れるたびにいちいち甘く痺れる。最近はこんな風に感じなくなっていた。


 初めて体を繋げたときぜんぜん気持ちよくなくて、こんな痛いことを無理やりする必要があるんだろうかと思った。だけど次第に痛いから意味があるような気がしていった。だんだんと那月が開花していって気持ちがいいなと思いはじめたときなんだか違うと思った。それでもあの暗い男の子と繋がるにはこれしかなかった。


 ドレスのファスナーを引っ張り、いっぺんに脱がされて、ストラップレスブラはすんなりおろされた。那月がズボンと下着を脱ぐとわたしたちはすぐにひとつになれた。


 那月は徐々に腰を強く振る。わたしは敢えて動かずにいた。気持ちいいより痛いほうがずっといい。


 涙でよく見えなかったけれど那月の体にはもうあまりきれいな色の痣がなくて、残っている痣は茶色くなっていた。あの日、わたしがそうしたように那月がわたしの首に両手をかけた。那月のものとは信じられないくらい手が大きくて、わたしのことなんて中学生くらいのときにはもう、あのヒステリックな母親と同じように殺そうと思えばいつでも殺せたはずだ。


 窓辺に茶色い葉をつけた植木があるのが歪んだ視界で見えた。


 このまま息が止まったら、あの木に宿ろう。そしたら那月の二酸化炭素を吸って栄養にして生きる。わたしはもうずっと前から人間でなんていたくなかったんだ――。


 腰の動きは止まらないのに那月が急に手を離した。


「やるなら最後までやってよ」


 目の前にいる遠い昔に支配したかった男の子が泣きそうな顔をしている。


「あのとき、ちゃんと殺してもらいたかった。母親にだけじゃなくて珠寿にもほんとに好かれない俺はいつ死んでもいいって思ってたから」


 こんな弱い子をどうして、ちゃんと愛さなかったんだろう。


「俺のこと、忘れないで。俺も珠寿のこと、忘れないから」


 那月はわたしの胸をめいっぱい掴んで、容赦なく中を突いた。那月がわたしを裂いて、このまま死ねたらいい。――だけどわたしたち、そんな仲じゃないな。たぶん、はじめからずっと。




「もし、またどっかで偶然会ってもふつうにしよう」


 太腿に伝ったのは精液じゃなくて少量の血だった。いつでも、那月はじぶんの体液を手の中に出した。実際に舐めたこともかけられたこともなかったのでほんとに実在するのかわからない。

 ずっと背を向けている那月にことばを投げたのに、彼はずっと黙っていた。


 那月に剥がされた服をゆっくり着ていって、ティッシュで血を拭いて下着をつけた。


 わたしは那月の背中を見ていた。このひとも汚いはずなのに、どうしてまだきれいだなんて思うんだろう。


「これでただの幼馴染に戻れるね。わたしたちは」


 ただの幼馴染なんかにもう戻れるはずはなかった。那月も吐き出すようにそうだなといった。


「いままでありがとう。珠寿がいてくれてほんとうによかった」


 そんなことば、いまさら那月から訊きたくなかった。


「ばいばい」


 家を出ると少し肌寒くて、空を見ると落ちてきそうな満月があった。


 慣れなヒールで、千鳥足になりながら歩く。灯りが見えるのに駅がとても遠く思える。街はすっかり静まり返った。ポケットからスマートフォンを取り出し、岸田に電話を掛けた。


「どうした?」


 数十秒の沈黙の間に岸田は三回どうした、と訊いた。


「わたしと、別れてください」


 さっきまで平気だったのに急に涙がこぼれてきた。


 ――わたしはきょう、初めての恋を、勘違いじゃなくてきちんと失うことができた。それだけがもう、いやらしく輝きつづけることもないし、きれいでもない。


「え? なんでさ」


「ごめんなさい。……ごめんなさい、ごめんなさい」


 そう口にしながらガードレールに左手をつきながらしゃがみこんで声をあげて泣いた。


 大事だと伝えなければ大事にされないし、誰も大事にしないと誰からも大事にされない気がした。わたしはもう引き返さない。狼狽える不倫相手が過去のひとになるまで、ずっと好きだった人の住んでいる街で泣きながら別れを告げつづけた。たったひとりの誰かのものになりたい。きょうはじめてそんなじぶんになりたくなった。

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動脈から静脈まで 霜月ミツカ @room1103

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