3
わたしたちは大学生になって同じ大学に進み、那月はひとり暮らしすることになった。ずっと母親の暴力を黙認していた那月の父の計らいらしかった。
いままで那月が実家にきていたけれどわたしが那月の家に転がり込むようになった。私物はひとつも置いていかず、しょっちゅう一緒にご飯を食べて何度も体を重ねた。
ベッドの中で人工の光で鈍く輝く那月の肌を眺めていた。那月の部屋はとても日当たりが悪い。日光の当たらない部屋にいるから栄養が体の中を循環しない。大学生になっても肌はどこもかしこも日光を知らないように真っ白で、痩せすぎてレントゲンの必要性を感じないほどどこに骨があるのかはっきりとわかる。那月が服を被り、骨が隠れる。できればずっと見ていたかった。
那月の体は完全に“男のひと”になった。わたしたちは子どものときから男と女の性別を与えられて、だんだんとはっきりとしたものになっていった。那月の目に映るわたしもちゃんと“女物”になってきているだろうか。
「きょう彼女くるんだ」
那月はわたしを見ずに顔にかかる前髪を払いながらいった。
「彼女? またつくったの?」
「うん。付き合ってっていわれたから」
「あそう」
ベッドの上にも下にも散乱している服を拾いあげて、機械的に身につけた。
大学で、わたしと那月の関係はなんとなく周りに知れ渡っているはずだから大学のひとではない気がした。それともアルバイト先で知り合った女だろうか。那月が彼女をつくるたびに複雑な気持ちにならないわけではなかった。
黙ってアパートを出た。外は少しずつ暑くなっていた。もうすぐ七月だ。那月の生まれた夏がくる。歩きながら煙草に火をつける。わたしの吸っている煙草はタール1mgだし、そんなに吸うほうでもないけれど那月はわたしが煙草を吸うことに気づいているんだろうか。
火をつけ、煙を吐き出す。それに重なって照っている地面に立つ女が揺れているように見えた。目を凝らすと知っている顔が浮かんだ。わたしはうわーと思いながら目をそらした。中森愛だ。睨み付けるように中森はわたしとすれ違い、しばらく歩いてから振り返った。中森はわたしが出てきた場所に入っていく。
子どもの頃から算数も数学も得意じゃなくて、はっきりとした計算ミスを痛感した。わたしが「ほかに好きなひとつくってもいいけどたまにはわたしとこれしてよ」といって那月が頷いてもそれを無理やり阻止する人間の存在を考えなかった。というか大人になれば那月も大事なものができていずれわたしとの関係に疑問を覚えるんじゃないかとかそういう危険予測はまったく計算する要素に入れていなかった。
中森はどこかの合同コンパで欲しいものはなんでも手に入れてきたと豪語していたときいて以来、あんまり好きじゃなかった。化粧が濃く、髪も栗色の巻き髪でいつもフリルのスカートにミルキーカラーの服を着ている。そんな彼女のどこに那月が引っかかったのかわからない。ほかの誰かならよかったのかもしれないけれど中森愛だけは嫌だった。那月しか感じられないこの世界の寿命を感じはじめた。
次の日の授業でわたしは窓際の席に座る那月を見ていた。葉の緑に光が反射して、陰鬱な那月に差し込んでミスマッチだった。わたしはまだまだ那月に夢中だった。講義室はうるさく、スピーカーからきこえる教授の声が途切れ途切れだった。
「那月、中森愛と付き合ってるらしいんだよね」
「え?」
さやかが声をひっくり返すが、周りの喧騒に吸い込まれてしまった。
「てか珠寿と那月くんって付き合ってんじゃないの?」
「ただの幼馴染だよ」
何年も嘘をつき続けているから真顔でいられた。
「那月がひとり暮らししてるからたまに面倒看に行ってやってるけど」
わたしはいつも上から目線で那月に関わっている。子どもの頃、那月のほうが背が高かったらこんなふうになっていなかったのかもしれない。いまはわたしのほうがずっと背が低いのに。
その日、那月の家に行ったがそこに中森の存在はなくてひどく安心した。那月はベッドに安置された遺体のように静かに横たわっていた。
「あんたの彼女って中森?」
「そうだよ」
「ふうん」
わたしはきのう中森が触れたであろう那月の唇に触れる。胸にあたる那月の左手の温度が早く全身に伝わることを祈った。
「なんで付き合ってんの?」
「告白されたから」
那月にはいつもじぶんの意思がない。
もう終わってしまうならいままでいってこなかったことばをいってみたくなった。
「那月」
「ん?」
「すき」
わたしがそう零しても那月は淡く笑うだけだった。
「嘘でしょ、そんなの」
そんなふうに笑われてしまったら急に心の中が冷えて嘘じゃないと熱くいい返したりできない。
いつも愛を語らうわけじゃなくて単なる動物になって服を脱ぐ。長い前髪の先がわたし顔に当たって痛い。何度も切ってやってもすぐに伸びてくる。
那月の長い指がわたしの中を侵略してくる。すぐに熱を持って蜜を生む。これが劇薬ならここから那月を融かしつくすことができる。そんな妄想を何百回しただろう。約束を守るにしては律儀すぎる男だ。でもわたしたちは完全に歪んでるからもう「ふつうは」とか考えられない。
背中に手をまわし、指先で強く押す。何度も何度も唇を塞がれながら、もっと早くいっとくべきだったと後悔した。誰のものにもならないでって。でも、それには頷いてくれなかった気がする。
横目に観葉植物が見える。那月の二酸化炭素ってどんな味なんだろう。ひどく羨ましく思った。
大学をひとりで歩いていると急に中森が近寄ってきた。遠くで派手な女子がふたりこちらを見ていた。
「那月の幼馴染さんですよね」
間近で見る中森はびっくりするくらい綺麗だった。那月がいままであまり可愛くない子とばかり付き合っていたのが嘘みたいだ。
「そう、だけど」
「必要以上にベタベタするのやめてもらえますか?」
「ベタベタ……してませんが」
「してるように見えるんです」
「大学でほとんど一緒にいないし」
「しょっちゅう、家に、来てますよね」
わたしは気づかなかったが見られていたんだろうか。
「彼女って、友人関係制止できるほど偉いんですね」
「あなたは友だちじゃないでしょ」
きれいにラインストーンが施された立派な爪はわたしを攻撃するために豪奢にしているように見えた。
「わたし、那月のことは本気だから」
「本気?」
そういわれてなんだか笑けてきてしまって、堪えられなくなって少しこぼしてしまった。
「なに笑ってんだよ!」
中森はわたしの髪の毛を掴んだ。痛い、と思ったけれど口にはせず下から睨んだ。
「これ以上那月の優しさに浸けこまないで。勘違いしないで。あんたなんていなくても那月は困らないんだから。これ以上那月に近づかないで。もし近づいたらただじゃ済まないんだから」
頭を振り、髪を数本犠牲にしてその場を去った。こんな下品な女に那月を盗られることに対する現実味が増して、体の中が煮え立つ感覚がする。耐えられない。
中森の命令を守りたくなくてコンビニでアイスをふたつ買って那月の家に行った。
「暑いね。アイス買ってきたよ。一緒に食べよう」
扇風機をつけてその前に座った。わたしは袋を破いてアイスを口にふくんだ。
「あのさ珠寿」
那月がなにか口にするのが恐いから来なければよかったとふと思った。なにか言われるより先に避けてしまえばよかったのかもしれない。
「もう、家に来るのやめてくれないかな」
急激に湿る全身を誤魔化しながら那月の顔を見た。前髪の隙間から覗く綺麗な目がいまは黒豆くらいにしか感じない。
「なんで」
「愛が、ほかの女が家に入るの嫌だって。ふたりきりで会うのもやめてって」
「……いわれたから、やめようなの?」
那月は頷いた。まったく那月らしい意見で怒る気にもならなかった。わたしの幸せはいままで付き合ってきた女たちの脇が甘さの上に成り立っていただけだ。こんなことになるなら那月にひとり暮らしなんてしてもらいたくなかった。わたしの部屋で交わっているほうがずっと幸せだった。
「ごめん、珠寿」
「べつにいいよ」
口ではそういっておきながら涙が扇風機の風ですぐに吹き飛ばされていく。
「食べないとアイス溶けるよ」
わたしはアイスを食べ終えてすぐに家を出た。那月がアイスを食べたかどうかは覚えてない。
その晩からうまく眠れなくなった。夜、ベッドの中で目を閉じていると那月とのいろいろな思い出がフラッシュバックしてくる。今更になってどうしてもなくしたくないという気持ちが膨らんでくる。こんな風になるなら幼い頃から知っていたくなかった。じぶんの中で眠っていた狂気が不安と結合して芽吹くのを感じた。
数日間は那月と一切連絡を絶ったし、大学で見かけても声を掛けるのをやめた。次第に中森は大学でも那月と一緒にいるようになった。遠目で見ながら那月なんかと一緒にいて楽しいのか? と思ったりもした。べつに那月とあんな風に一緒にいたかったわけじゃない。なのに中森が妬ましくてたまらなかった。
電車でたまたま中森と同じになったけれど気づかれなかった。少し距離を置いて彼女の様子を窺った。向かう場所は予想がついていた。
那月の家の最寄駅に停車し、中森が降りた。わたしも降りて彼女が改札をくぐるのを十メートル後ろくらいから見ていた。商店街を抜けて、アパートに近づく。生まれて初めてひとを尾行しているので成功の保証も自信もないのに緊張もしていなかった。
中森が部屋に入っていくのを確認して、わたしは追いかけてチャイムを鳴らした。数秒して那月がドアを開けた。
「もう来ないでって言っただろ」
迷惑そうな顔なんてせずにそう言った。なんだかその所為でもう冷静でいることができなかった。両手で那月の白い首を締めた。那月がバランスを崩し、わたしは馬乗りになった。
「嘘つき、嘘つき、嘘つき……」
ひどいのはどっちなのか明白なのにこうせずにはいられなかった。
「那月っ!」
中森が飛んできてわたしに掴みかかる。
「ふざけんなよ!」
猛獣のように中森を振り払い、那月の首を締め続けようとした。こんなことをしながらじぶんの間違いには気づいていた。
「やめよう……」
那月は感情のない瞳でわたしを見ながらそう呟いた。何度も何度も咳をして、その音で少しずつ猛々しさから醒めていく。
「もう、やめよう」
後ずさりながら那月の体から離れた。
「那月、大丈夫?」
中森が優しく介抱するように寄り添った。
「珠寿には感謝してる。ほんとだよ、それは」
那月はたぶん、母親から暴力を受けてもこんな風に相手を責めるような目をしなかった。
恐くなって逃げ出した。それ以来、那月には関わることを一切やめた。わたしたちはほんとうにただの幼馴染でしかなくって、関わろうとしなければ何の情報も入ってこない。
大学三年生になれば就職活動をして、他人のことなど気にしている場合じゃなかった。
人生が八十年だとすると、若くて楽しい時期なんてあまりにも短すぎる。平均寿命なんて六十歳くらいでいい。むしろ、二十歳のいま暗礁に乗り上げているから四十くらいでもう十分だ。乾く、という感覚はしなかったし特に寂しいとも感じなかった。ただ最近世界が暗いな。そんな風に思ってしばらく過ごしていた。
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