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 七月生まれだから那月なんだと那月の母親がいっていた。いまとなっては七月なら葉月だろうと思う。


 気づいたら那月はいた。じぶんが誰であるか那月に伝えた覚えがない。そのくらい昔からの付き合いだ。わたしの住む一軒家の向かいに三階建てのマンションがあって、その一階の部屋に住んでいた。幼稚園の頃から当然のようにわたしの部屋に遊びにきていた。


那月は背が低く、痩せていてものすごくおとなしかった。体格のいい男の子によく暴力を振るわれていたけれど泣きもせず、ただやられるままだった。そしてそいつにやり返して怪我をしていたのはわたしだった。


 その頃は那月が女の子だったらよかったとなんべんも思った。男の子の那月に無理やり女の子の遊びをさせて、それが悪いなという自覚があった。でも、彼はいろんなことに興味なさそうだった。それは那月が男の子だからなんだと思っていた。実際は性別がどうとかではなく単にそういう性格だった。


 那月の母親は非常にヒステリックだった。その頃はそんなことばを知らなかったけれど夜、街が静かになると彼女が那月を叱る声がきこえた。叱るというより怒鳴っていて、むしろただ叫んでいるだけの気がした。わたしや母の前ではいいひと風を装っていたけれど母も彼女が「ナツキッ!」と酷い音で怒鳴るのを知っていた。うちも那月の家も共働きだったけれど、那月がしょっちゅううちにきていたのは母がそういうふうに仕向けたからだった。考えてみれば那月の家にあがったことはほとんどない。


 小学校に入ってもわたしたちの関係は変わらず、暗く友だちをつくろうとしない那月の面倒をみてやっていた。


 那月が貶されれば怒り、何かされれば守った。わたしからしてみれば彼を守るのは当然の行為だった。それでよく那月のことが好きなのかとからかわれたけれどそんなことはなかった。そのおかげで担任からもときどきお礼を言われていたし、六年間同じクラスだった。


 三年生のときに大阪から引っ越してきた佐和ちゃんという子と友だちになった。わたしと美樹子ちゃんと三人でいつも一緒にいた。


 佐和ちゃんはいつもカラフルな服を着ていて、ほかのクラスメートとは違う視点を持っていて面白かった。三人で話しているとき、窓の外を眺めてひとりでいる那月のことを佐和ちゃんがときどき見ているような気がした。わたしが那月と一緒に登校すると、わたしに向かって「おはよう」と言いながら目線は那月のもののような気がした。


「いつも五十嵐くんの世話焼いてんやな。珠寿(すず)ちゃんは」


 ある日急に佐和ちゃんはどこか遠くを見ながらいった。


「生まれたときから一緒で、アイツ弱いから」


 何かいおうと溜めこんだあと、「きれいやな」と佐和ちゃんがいった。


「え?」


「五十嵐くんってきれいやな」


 そのとき、わたしの中で何かがはっきりと割れた音がした。目の前にいる佐和ちゃんに対して怒鳴りたいような気持ちになったし、もう何も話したくないような気持ちにもなった。横目に映る那月がそのことばが発される前といまとで違う存在になったような気がした。


「アイツが?」


 半笑いでそういったけれど本当のところ初めて不安みたいなものが襲ってきた。この気持ちが何なのかはっきりとはわからなかった。


「他の男子とはなんかちゃうやん」


「えー? そう? わたしはそう思わないけれどね」


 美樹子ちゃんのあっけらかんとしたことばで会話の方向が変わってそれで目が覚めて少し冷静になれた。


 その日、美樹子ちゃんと佐和ちゃんが習いごとで一緒に遊べなかったから那月と一緒に帰って、わたしの家で一緒に宿題をすることにした。いつも通り先に二階のわたしの部屋にあがらせて、台所からジュースとおやつを持ってあがった。


 円卓に向かい合って座り黙々と計算ドリルを解く那月のことを見ていた。左の腕にまた見たことない痣があった。テレビで、母親が子どもに暴力をふるうのを「虐待」というとやっていて、知った。


「ねえ。あんた、ギャクタイされてるの?」


 那月はわたしを無視して計算を続けた。


「ねえ、あんた、お母さんにいじめられてるの?」


「違う」


「違わないでしょ。わたし、知ってるんだから」


 那月は顔をあげ、いつもより強い目でわたしを見た。ほんとうのことをいうとなにも知らないのにそう口をついてしまったから嘘だよと引き下がれなかった。手を伸ばし、手首を掴んだ。那月は黙ってわたしの様子を見ていた。そのまま立ちあがって接近し、指を滑らせ痣に到達した。


「わたしにだけはほんとのこといっていいんだよ。わたし、誰にも言わないから」


 誰も知らない那月の情報をたくさん握っておきたかった。


 那月はしばらく俯き、蛹みたいに静止した。わたしは痣にキスをした。顔をあげると目を丸くしていた。


「……お母さんは、ぼくのことが嫌いみたいだから」


 喉に突っかかりながら声を発し、唇を何度も何度も噛んだ。心臓が暴れている。本能に従い、そのまま那月のことを抱きしめた。


 体を離し、しばらく見つめると、那月は長い前髪の間からわたしを見ていた。わたしが那月を守ろうとしていたのは心の奥底で彼をきれいなものだと感じていたからかもしれない。とりわけ顔のつくりがいいわけでもない。だけど那月のとりまく雰囲気がほかの誰のものとも違った。


「いじめられらこうしてあげる」


 そのとき那月が少しだけ安心した顔をしたのをいまでも覚えている。少し笑った。


 それでも那月はいつも押し黙っていて誰かに何かをされたからといってすぐに頼ってくるようなことはしてこなかった。家で一緒に宿題をしてときどきキスをした。そうすると少しだけくすぐったそうにする。


 那月の服を掴んで「見せて」と頼むと服を脱いでくれた。体の骨という骨が浮きまくっていた。白い白い肌に赤や青のインクを散らしたみたいな傷跡がたくさんあった。息をのんだ。しばらく動けずにいたけれど「寒い」といって那月が服を着ようとするのを手で制した。――一生一緒にいれたらいいな。わたしはこれをただ眺めるだけでいいから。そのときはじめてそんな感情が生まれた。




 わたしの初潮は少し早くて、小学校五年生のときにきた。宿題をやりながら「わたしもう子どもが産める体なんだよ」とのたまった。那月は関心がなさそうに「へえ」といった。


「どうやって子どもつくるか知ってる?」


 那月は絶対知らないと思いながらいじわるのつもりで訊いた。


「知らない」


 わたしは兄や姉のいる友だちの家で少しずつ知識を蓄えていった。那月は友だちがいないから何も知らないんだと内心ばかにしていた。


「わたしのお股に那月のそれを入れるんだよ」


 わたしが股間を指差すと那月は少しびくりとした。


「ねえ、ためしてみない?」


 たぶん断らないだろう。変な自信があってそう訊いたのに小さい声で「きょうはいい」といった。


 わたしは少し近寄ってブラウスのボタンを外した。それからスポーツブラをあげて、ほとんど膨らみのない胸を見せた。那月は一瞬目を見開き、わたしを見ないようにした。


「やめなよ」


「ちゃんとみて。どう思う?」


 那月の頬を両手で掴んでわたしが視界に入るようにしようとする。


「やだ」


 那月の股間に目をやると少し膨らんでいる気がした。


「じゃあちゃんと学校で習ったらしよう。約束。さいしょはわたしとして」


 那月は弱々しく頷いた。那月に顔を近づけ、唇に唇を重ねた。少ししょっぱいような気がした。


 男女別に分けられて性教育を受けて、小学六年生のときにセックスを知った。その日、わたしたちはセックスのまねごとをした。それから何度も何度もわたしの家でそれをした。段々とほんものに近づいていった気がした。


 ふと、なんとなくわたしは那月をちゃんと「じぶんのもの」にすることはできないような気がした。どうしてかはわからない。それならばどこかで繋がっていればいい。だけどこの方法以外に思いつかなかった。


「ほかに好きなひとつくってもいいけどたまにはわたしとこれしてよ」


 三回目のそれを終えた後わたしはそういった。


 彼は震える声で「約束する」といった。わたしはそれでひどく満足した。


 中学二年生のとき、那月はクラスの中では人気があったけれどそんなに可愛くない女の子と付き合った。わたしといる時間は減ったけれど偶にわたしの家で会ってセックスしたので不満はたまらなかった。那月がちゃんと約束を守ってくれることに悦びを感じていた。


 その彼女とどこまでしたのか知らないし、別れて別の子とも付き合った。こんなに絶えず交際相手ができるなんて客観的に見てもやっぱり那月はきれいなんだろう。わたしも別の男の子に告白されることはあったけれど那月以外は興味が沸かなかった。


 高校生になっても那月は彼女を作った。それでもやっぱりわたしたちの関係は変わらない。中学校のときまではわたしより小さかったのに高校に入学する頃にはわたしより大きくなったし、関節も太くなっていった。わたしはちゃんと処理していたけれど陰毛やわき毛も生えきっていたし、髭も生えるようになっていた。それなのに那月はわたしに逆らうことはなかったし、高校生になっても那月の体はいつも傷だらだけだった。抵抗できない小学生じゃないのにどんどん傷ばかり増えていく。


「ほかのひとはこれ見てなんて言うの?」


「別に、何とも」


「なんでお母さんにやめてって言わないの? 痛いでしょ」


 那月は本棚を見ながら本、増えたなと呟いた。


「ねえ」


「ストレスを発散する存在がいたほうがいいんだ。親がいなかったら俺なんて存在してないわけだし。だから親の好きなようにしたらいいんじゃないの」


「なんでじぶんのことひとごとみたいに言うの?」


 数秒考え込んでそれから、そうかなといって笑った。そのとき少しだけ罪悪感が芽生えた。那月がこんな風になってしまったのはもしかしたらわたしの所為かもしれない。

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