グラースと瞳

橘花 紀色

第1章 瞳 第1話 出会い

その液体はクラスメイトを執拗に包み込んでいた。それはブルーベリーが潰れたあとのような黒くくすんだものもあれば、今流れ出したばかりの真っ赤なものもある。鼻の奥にねっとりと今まで感じたことのない量の錆びた鉄の匂いがした。絶望という言葉はこの時の為に生まれてきたのかもしれない。教室に散らばる27人は、腸が抉り取られ、目玉もくり抜かれていた。体のいくつもの部分が切断されている。彼らからの悲痛な叫び声が未だに聞こえ続ける気がした。ここは地獄だ。自分が生きているのかすらも分からない。その地獄の空間にいる生き残った数名の魂は、怯えきって衰弱している。

────ただ1人、その光景を冷めた瞳で見つめ続ける1人の少女がいた。


※※※

20××年 10月25日 14時53分

濱名高等学校 1年1組はある3人の男による襲撃を受けた。当時、濱名高等学校は文化祭が行われており1年1組は飲食店を経営していた。14時~15時の間は休憩をとる時間帯だったため、クラス全員が教室に集まっていた。担任は不在。作業を再開しようとしたそのとき、仮面を被り全身を黒い衣服で包んだ3人の男が教室に侵入してきた。3人のうち2人は教室の扉の前付近に移動し教室の鍵をかけ、生徒を簡単に外に出させないような形をとった。その男らはすぐにナイフを取り出し、生徒達を襲い始めた。

死者は27名。負傷者は6名でそのうち重傷者が4名、軽傷者が2名であった。全くの無傷の生徒は4名。男たちはすぐに逃走。1組のクラスが出口に近かったこともあり、すぐに逃げられてしまった。

遺体の状態は…


刑事である亘理 蒼司(わたりそうじ)は報告書をここまで読み進めると目の前の少女に視線を移した。いや、移せざるを得なかったと言う方が正しいのかもしれない。

この事件の名は通称「濱名高等学校1年1組襲撃事件」。一週間前に起こったばかりのとても残酷な事件だった。この事件の内容はあらかじめ上司の松茂さんから伝えられており、また自分自身でもこの報告書を通して事件については把握していたはずだった。しかしどうしてもこの後の文字達は読みたくはなかった。あまりにも残酷すぎる状態で命を失った生徒達。刑事課に移動し5年が過ぎた亘理だが、これほどまで酷く残虐な事件を担当することは初めてだった。もう一度この報告書を読むにはあまり気が進まなかった。あの反吐が出るような文章をもう脳に届けたくない。なにしろ今自分の目の前に座っているのは、襲われた生徒のうち無傷で生き残った4人の生徒の中の1人の少女であった。部屋の薄暗い明かりに照らされてこちらをじっと見ている。

彼はすぅっと冷たい肺に酸素を送り込んだ。


「これから事情聴取を始めさせて頂きます。刑事の亘理蒼司です。よろしくお願いします。」


「…」


「初めに、生年月日と名前をお願いします」


「…」


その少女は黒曜石のような瞳をこちらに向け、瞬きもせずまた怯えた様子も見せないまま口を閉じていた。小柄だがその落ち着いた態度によってそこまで彼女を小さくは見せない。その瞳と視線が交わった時、彼女はまるで猫のようだと思った。自分の知らないものに出会った時にじっとこちらを見つめてくるあの猫の目だ。しかし彼女からは「警戒」というものを感じない。どちらかというと…観察されているのか…?どこか幼い印象をあたえる美しく整った顔は表情を一切変えず、瞳孔の奥底に引きずりこまれそうだ。


「××15年7月20日16歳…冴木 蒼葉です…」


彼女が口を開いた。声は小さかったが、落ち着いた大人びた声が室内に響いた。


「サエキアオハさん。確認しました。では本題に入ります。濱名高等学校1年1組、あなたのクラスは10月25日 14時53分ごろ3人の男たちから襲撃を受けました。あんなことがあった後にとても悪いんだが、その一部始終を出来る限り教えて欲しい。出来れば事件が起こる前から。」


亘理はじっとそのぶれない瞳を見つめ返した。しかしその少女は全く動じない。呼吸も通常だ。…おかしい。普通人間はこのような事件に巻き込まれ、尚且つ初めてのこの場所で自分より大きな人間と対話する時は少しの「警戒」や「動揺」が見えるはずだ。表情に出さなくとも、瞳を見れば分かることが多い。だがこんなにも真っ直ぐに見つめ返してきた人間は初めてだ。こちらからも十分に観察させてもらう。少女が少し息を吸った。


「……はい…私たちの学校はそのとき文化祭の1日目でした。私たちのクラスは簡単なカフェをやっていました。だいたい午後の2時ぐらいに休憩に入って、3時からまた作業に取りかかろうとしたんです。お客さんはもちろんいませんでした。そしたら急に、仮面を付けた全身黒い服の男3人が教室に入ってきました」


冴木蒼葉はやはり落ち着いていた。だがこの瞬間、亘理は彼女に少しの違和感を覚えた。しかし彼は質問を続ける。


「…その男の人たちをもっと詳しく説明してみて」


「はい…まず、みんなが1番驚いたのは仮面だと思います」


「仮面?」


「…そうです。笑っていて不気味な顔でした。全員同じ顔で」


「そんな不気味な仮面を付けて学校を歩いてたってことか?クラスに来るまでに絶対に騒ぎになるはずだが」


「…私たちの学校の文化祭はハロウィンみたいなもので。特別奇抜な格好をしていない限りあまり目立たないんです。みんなが簡単な仮装をしています。」


「なるほど…男たちの特徴は?」


「とにかく全身黒い服でした。身長は…そんなに高くなかったと思います。170ぐらいかな。特別強そうな感じではなかったです」


「そうか…」


冴木蒼葉は、淡々と、薄く柔らかな、でもどこか芯のある声で話を続けた。


(彼女はなぜ普通に会話が出来ている…?)


亘理は気がついた。1つ目の違和感の正体はこれだ。彼女は事件のことを、他人事のように平然と話している。こちらとしては好都合だ。生存している10人のうち6人は入院中であり、無傷の生徒である他の3人に話を聞いたがまるで会話にならなかった。それはそうだ。友人のあんな残酷な姿を見せられて正気を保てる人間はいないだろう。この少女を除いては…


亘理は少し鎌をかけることにした。


「…君はこの状況を何も思わないのか?」


彼女の瞳が少し動いた。


「どういう意味ですか?」


「…いや、やっぱりいい」


亘理は先程感じた最も大きな違和感の正体が分かった。

────彼女は楽しんでいるのだ。この悲惨で残酷な状況を。決して表情に感情が出ている、という訳では無い。瞳が笑っているのだ。そしてその自分の本能を隠している。決して悟られないように。


「一応聞くけど犯人の心当たりは?」


「全くありません」


「…そうだよな」



相当な人物に出会ってしまったと亘理は思った。最初から平然と話せている時点でおかしいが、だんだんと彼女の瞳が興奮してきているような気がした。まるで小さい子供が大好きなおもちゃで遊ぶときのように。

…この少女、冴木蒼葉は〝感情〟を顔に出さない。正しく言うと〝見せない〟と言った方がいいだろう。しかし、目は口ほどに物を言う、ということわざがある通り人間は瞳に感情が出やすい。亘理蒼司という男はこの「目」に表れる微かな人間の感情を読み取ることが出来る。

冴木蒼葉のように感情を表情に晒さない人物に出会うのは、これで2度目だ。


────


「くん…亘理くん…」


これは誰の声なのか。たまに自分の脳裏に響き渡る女性の声…刑事課に来てから、この声がよく聞こえるようになった。


「…刑事さん?」


「…っ」


冴木蒼葉の凛とした声で亘理は我に返った。


「ああ…すまない。ええと、それじゃあ事件の最中、冴木さんはどこにいて、どんな風にしていた?もちろん無理に言わなくていい」


「…私は教室の端っこにずっといました。みんなが次々に殺されていって。一瞬のことでした。」


「なぜ君は生き残れたの?」


「犯人が見逃してくれたんです」


「見逃す?」


「はい…一瞬3人のうち1人と目が合ったんです。もう終わったなと思いました。でもなぜか彼は私を無視しました。」


「それが何故か分かるか?」


「全く分かりません」


…何か彼女を生かす理由があったのか。それともあいつらと繋がっている…?いや、それはない。彼女の瞳からはそんなものは感じない。


「でも…もしかして…」


彼女が小さい声で何かを呟いた気がした。


「何か言ったか?」


「いえ、なんでもありません」


(きっと今彼女は何か隠し事をしている。だが絶対に動揺などの感情は出さないな。ここまでの人間は初めてだ)


「…君、悪いやつは嫌いか?」


「…」


二人の間に沈黙が流れる。亘理はこの突拍子のない質問で、見たい彼女の反応があった。




「──ええ…大っ嫌いです」




冴木は今までに見たことのない、不気味で鮮やかな微笑みを返した。

こいつだ、と亘理は確信した。足を組み直して彼は言った。


「────冴木蒼葉…君を今から〝未成年者特別犯罪取締役団員〟の一人として迎える」


「……え…?」








──外には雨が降り始めていた。




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