水際になぞる

凪沙帳

もう一度、あなたと

 いつものように満員電車から吐き出される。胃酸で溶かされるような熱気に満ちた地獄から抜け出して、体は外気を求める。

 

 駅前の広場は火曜日の夜だというのに賑わっている。イルミネーションに釣られて集まって来た恋人たちが、恍惚に、あるいは笑顔を交わしながら、彩られた輝きに魅せられている。そんな中を早足で抜けていく。気分はひどく憂鬱で、束の間心地良く感じられた冬の夜気も、体を芯から冷やしていく。


 ひときわ眩しい区画を抜けると、バスターミナルがある。疲れた顔の人が並んだ乗り場をいくつか通り過ぎて、いつもほとんど人気のない乗り場に辿り着く。


 ベンチに一人、女性が座っている。俯いていて顔は良く見えない。近くの街灯が彼女の姿を照らす。少しパーマのかかった短い髪が顔に落とす陰影、緑ベースでタータンチェックのマフラー、肌が見えない程度にダメージ加工の入ったデニムを履いている。誰かと遊んだ帰りだろうか。そんなことを考えていると、不意に顔が上がった。


「あ」

 声が重なる。その顔には見覚えがあった。そう気付いた瞬間と、彼女の左の瞳から涙が零れたのは同時だった。

「千代さん?」

「……佐藤か」

 彼女は化粧が落ちないように慎重に涙を拭く。

「久しぶり」

 あの頃と少しも変わらず、牡丹がじんわり綻ぶように笑った。

 

千代さんは高校時代、二人だけの文芸部の先輩だった。

文学少年だった私は、文芸部がある近所の公立高校に進学した。期待に胸を膨らませて訪れた部室で、彼女は煙草を咥えながら、文庫本を読んでいた。あの時はまだ知らなかった、バニラの煙草の匂い。部室にしては大きすぎる教室に、机が疎らに並んでいる。そのうちの一つ、窓際に寄せた机に千代さんはいた。後ろの方に本棚がある。


「新入部員?」

あっけらかんとそう言い、まだ半分ほどしか吸っていない煙草をコーヒーの缶で捻り潰す。火花が一瞬散る。立ち上がってゆっくりとこちらに向かってくる。

「え、いや」

 思わず後ずさりをする。


「あぁ、苦手?」

 そう言って、彼女は窓を開けに行った。そういう問題ではない。無防備な背中を見ながら、この隙を突いて逃げようと思った。


「煙草は駄目です」

それなのに、どういうわけかそんなことを言ってしまっていた。本棚の蔵書が気になったのか、文芸部への未練か、分からない。……何だか寂しそうに見えてしまったのだろうか。広い教室にぽつんと座って文庫本を手繰る彼女が。窓を開けた千代さんは振り返って、少し驚いた顔をする。それが徐々に、挑戦的な笑みに変わる。


「へぇ、一体何が悪いの?」

「まず、健康に悪いです。肺や呼吸器への弊害はもちろん、未成年の喫煙はニコチン依存を起こしやすいと言われています」

「なるほど」

そう言いながら、彼女は半笑いで煙草に火を点ける。ゆっくりと吸い込んで、吐き出す。漂う煙が私まで届く。喉がザリっとするあの感じ。


「でもそれは、健康を全ての人間が重視する場合のロジックだろう。健康で文化的な生活よりも、不健康で享楽的な生活を好む人間もいる。そういう人間の精神の健康は、煙草を吸うことで保たれる。違うか?」

朗読でもするように、滑らかに彼女は言う。すでにその目元は勝ち誇っている。気分が高揚していく。高校にはこんな人がいるのかという驚きと、彼女の朗々とした語り口調に。


「まぁそうですね。でもそれは成人した大人にのみ許される自由でしょう」

「へぇ、それで?」

「未成年の喫煙は、法律で禁止されています。だから駄目なんですよ」

 これはどうしようもないだろう。法律ほど分かりやすい基準はない。

「ではその法律を守る根拠は? 煙草が吸える年齢は国によってまちまちだろう。つまりそのルールに普遍性はないということだ。何故守らなければならない」


 根底をいちいちひっくり返してくるから困る。必死に頭を働かせるが、出てくるのはしどろもどろの反論に過ぎなかった。視界でカーテンが膨らんで、千代さんの後ろで揺れている。

「日本にいるから日本でのルールが適用されるのは当然です」

「約束を守る必要が生じるのは、当事者同士の合意があるからだろう? 私は契約書を書いていない。理不尽な話だと思わないか?」 

「……あなたが言っていることは詭弁だし、社会契約の概念を真っ向から否定している」


「その通り! この話の行き着く先は分かるか?」

「従いたくないルールに従う必要はない?」

「惜しい。自分の意思以上に尊重するものはないということだ。だから君は私を変えられない」


いつの間にか彼女は距離を詰めていて、瞳をじっとのぞき込まれる。目と目が合う数秒。千代さんだって人間だから、虹彩が瞳孔を狭めることくらいは不随意なはずなのに、それすらも意のままに操っているような。生きると決めて生きているような、そういう人なのだと思った。


「気に入ったよ。甘くて優しい佐藤君」

「……顧問にバレたらどうするんですか?」

「バレないよ。君が隠滅するから」

 そう言って千代さんは私に消臭スプレーを投げて寄越した。



 バス停から場所を移して、近くの喫茶店に入った。窓際の席に通される。彼女がマフラーをほどいて、露わになった喉元の輪郭にどきりとする。あの頃と何も変わっていないなんて嘘だ。千代さんは咲き誇ったまま、ますます凄まじい魅力を湛えている。


「佐藤ってこの辺なの」

「えぇ、そうなんです。もう少し山の方なんですけどね」

 動揺を悟らせないように言う。

「そんなことより、千代さんはどうしてこんな辺鄙な所にいるんです? 大学進学で上京して、そのまま就職したって聞きましたけど」

「……あぁ、まぁね」


 変な間があって、歯切れ悪く答えた。様子が明らかにおかしいことは最初から分かっていたが、どうしたのだろう。

「……そういえば、ちょっと歩いたら高校か」

「懐かしいですか?」

「愚かだったと思うよ。頭の回転ばかり速い、嫌な子供だった」

「確かに」

「否定しろよ」


 そう言って笑い合う。私が入るまで、文芸部はろくすっぽ活動していなかった。私が入学する数年前までは、そこそこ規模のある部活だったらしく、広い部室がそれを証明している。しかし当時はほとんど彼女の書斎と呼んで良かったと思う。そのせいで部費はすずめの涙ほどで、部誌を印刷するためにあの手この手を尽くした。というかいいようにこき使われた。


 活動記録を改ざんさせられたり、読書及び執筆が情操教育にとって有意義であることを生徒会にプレゼンさせられたり。色々走り回ったが、来年の予算が増えただけで、結局二人でアルバイトした自費で賄うことになった。


「あの冊子ってまだ持ってる?」

「探せば多分」

「私捨てたんだよ。就職してから読み返して、あまりにも拙くて」

「そうなんですか?」

 少なからずショックだった。今となっては千代さんと私を繋ぐ唯一の物だ。


「久しぶりに読みたい。部室にまだあるかな」

「保管用に何冊か置いておいたのであると思いますよ」

先輩が卒業した後、私が尽力した成果もあって、小規模ながら部は存続しているらしいことは伝え聞いている。


「ねぇ、今から行こうよ」

「今って、もう閉まってますよ」

「ほら、OB・OG訪問ってやつだ」

「いやいや」

「覚えてるか? 一緒に学校に忍び込んだことあっただろう」

 小説に書くから、どうしても夜の学校が見たいと千代さんが言い出したのだ。


「覚えてますけど……」

「それと一緒だろう」

「あの時は見つかってもいたずらですけど、今じゃ不法侵入ですから」

「もう一回法律の話をしないといけないのか?」

「自分の意思以上に尊重するものはない?」

「百点。大丈夫だよ、警備ザルだし。……今はただ、景気のいいことがしたいんだ」


 むしろ懐古的で湿っぽいことだと思いますけどね、とは言わなかった。伏せた目に、初めて千代さんと会った時を思い出してしまっていた。

「しょうがないですね。分かりましたけど、さっさと切り上げましょう。明日も仕事なので」

 千代さんの顔に薄明かりが差したように見えた。湯気も無くなったコーヒーを飲み干して、言う。

「そうと決まれば悪も急げだ」

 

 静まった住宅街の先に、私たちが通った高校は眠っている。すっかり葉を落とした桜並木を黙って歩く。通学路にあったものの多くが、コンビニやドラックストアに取って代わられている。飛び出し注意の看板だけが昔と変わっていなくて、懐かしさに微笑が漏れた。

 

 グラウンドのフェンスを飛び越えて、学校の敷地に入る。そこまでは良かった。

 結論から言うと部室には入れなかった。

「くそ、田舎のくせに」

「まぁまぁ、最近は物騒ですから」

 

 不用心なことに職員室の一番端の窓は、昔と同じように開いていた。換気をするためによく開けていたのを覚えていたのだ。しかし鍵を収納しているボックスを開くことが出来なかった。

 外の自販機で私はホットレモン、先輩はホットコーヒーを買った。


「水が見たい」

不意に千代さんが言う。

「水ですか?」

「プール行こ」

「寒いと思いますけど」

「このままただでは帰れないだろ」

「……まぁ折角忍び込んだならねぇ」

「悪事が染みついてるな」

「やめてください。今じゃまっとうなサラリーマンなんですから」


 千代さんは少しだけ退屈そうな顔をして、早足になった。

 使っていない時期のプールは、藻でいっぱいのイメージだったけれど、最近は管理が行き届いているらしく、綺麗なものだった。とは言ったものの、真暗なプールサイドではほとんど何も見えない。わずかな光を反射して、時折煌めくばかりである。見上げると夜空に丸くなりきれない月がかかっている。


 千代さんはベンチにどかっと座って、昔と同じ銘柄の煙草を取り出した。

「いる?」

「やめたのでいいです」

「へぇ、何吸ってたの? 佐藤はどうせブラックデビルだろ」

「ピースライトですよ」

「一緒じゃん」

「……一本貰えます?」

「なに、私のこと好きなの?」

「じゃあいいです」

「嘘嘘」


 けらけら笑って、私に煙草を差し出す。咥えると、ライターを持った手が自然と伸びて来る。

「まさか佐藤と煙草を吸う日が来るとはなぁ」

「概念としてのオヤジっぽいですよ」

「相変わらず慎重に言葉を使うやつだな」

 そうだ、そう言った千代さんの顔に思いつきが灯った。


「いちごつみしようぜ。覚えてる?」

「学祭でしょ? ステージでやるには地味過ぎましたね」

 いそいそとホワイトボードを運び込んだのを覚えている。相手の短歌から一語を取り込んで順番に短歌を詠んでいった。PTAは物珍しそうに見ていたが、生徒からは甚だ不評だった。


「軽音でぶちあがった波が引いていくのは爽快だったなぁ」

「千代さんは心が強すぎます」

「そんなことねえよ」

 呼吸が赤く燃える。目を合わせて、数秒沈黙があった。瞳が震えている。それは小さな光だった。


『遠い果て埋めた想いが時を越え月はトンネル今振りそそぐ』


 呟くと、千代さんは少し考えて、悪くないと言った。


『月だったものは明け方灰になり白んだ空に揺蕩っている』 


 輪郭のはっきりした声で言った。ずっと聞いていたいのに、澄んだ空気に溶けていった。

「相変わらず先輩の歌が好きです」

「物好きだな」

「まぁ、否定しません」

 乾いた、笑い。


「この前旅行に行ったんだ。石川県、彼氏と」

「いいじゃないですか。海鮮ですか?」

「うん、のどぐろ。初めて食べたよ。信じられないくらい美味しかった」

「へぇ、食べたことないんですよ。いいですね」

「それでプレゼント渡されて、その日のうちに振られた」

「え、何があったんですか?」

「お前の番だぞ」


 煙草を缶で捻り潰して千代さんは言う。光が、捻じれて消えていく。ほつれていこうとする思考をなんとか手繰り寄せる。たじろけば、傷付けてしまう気がした。


『灰はただ確かに燃えた灯火を今に残して心に溜まる』


 千代さんは歌を味わうように目を閉じた。遠くで車が走る音が聞こえる。やがて目を開けて次の煙草に火を灯した。冷たい風にライターの火が揺れる。

「別に何があったわけでもない。最初からそのつもりだったらしい。別れるつもりで計画を立て、タイミングを見計らいつつ笑い、手を繋ぎながらシミュレーションしていたんだろう。『最後にいい思い出になった』そうだ」

「随分勝手な話ですね」


「そういうものだろう。合意がなくなった時点で関係は終わる。終わらせようと思えば片方が一方的に終わらせることが出来るものだ」

「あなたはそんな一方的に理不尽を受け入れる人じゃないでしょう?」

「受け入れるさ。自分で選んだ結果だからな」

 お互いがお互いに夢を見過ぎているなぁ。そう言って千代さんは煙草を勧めて来る。私は首を横に振った。悲しそうな顔をする。


『風荒ぶ夜にふわりと灯火が揺れてあの日が思い出になる』


「皮肉です」

「あの頃から何も変わりたくなかったのに、ただ立っていることが難しい」

 声が震えている。横顔は頼りなくて、千代さんじゃないみたいだった。

「……懐古は、松葉杖にはなり得ませんか?」

「それだけじゃ、頼りないな」


『思い出はただ分け合った血のように永久に巡って符牒のように』


「ちくしょう。やっぱいいなぁ」

 ライターが照らし出す千代さんは、静かに涙を流している。私は冷たい手にそっと触れた。

「手を繋いでいましょう。なんなら私のコートを貸してもいい。そして思い出話をしましょう。嘘でもいいから、朗らかに語りましょう。私たちが語れば、小説になり、それはいくらかの本当を孕みます」


「本当を語って、それからどうする?」

「温かいスープを飲みます。私は仕事を休む連絡を会社に入れて、それから二人で昼まで眠りましょう。目が覚めたら適当な電車に乗って、必要ならば飛行機も使って、どこか遠くに行きましょう。理不尽から一番遠い地平に、行きましょう」


「どこか遠くに行こうって、口説き文句としては下の下だぞ」

「そうですね。もっと気の利いたことを言えたらいいんですけど」

「十分だよ」

 そう言って私の口に煙草を咥えさせた。


『誓えども永久に形はないけれど優しい雨に打たれていたい』


 千代さんは立ち上がって伸びをした。

「今日は楽しかったよ」

「それは良かったです」

「私の明日が変わった気がする」

「どういうことです?」


「あいつを殺すかあいつの家に火をつけるか、それしか考えていなかった」

「それでバス停にいたんですね……」

「犯罪を未然に防いだんだ。これからは正義のヒーローとして真っ当な道を歩め」

「真っ当なつもりですけど」

 先輩は髪を整えて、向こうを見る。


「では、今宵はこれにて」

 振り向きざまにそう言って、さっさと行ってしまおうとする。

「また会ってくれますか?」

「会ってもいいけど、後悔するかもよ?」

「後悔するくらいなら、学校に忍び込んだりしませんよ」

 千代さんは思わず吹き出す。肩を揺らしながら、向こうに歩いて行った。その背中は自信に満ちていて、私は少なからず安堵した。一人になったプールに、時折月明かりが差した。


『もしあなたが望むのならば身を捨てて止まない雨でいたいと思う』


 続きは、また会えた時に。

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水際になぞる 凪沙帳 @tobari00

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