後編
クラブの中もオレンジと紫で溢れかえっていた。音の洪水が鼓膜を刺激する。普段はEDMなどの音楽が沸かせているであろうフロアも、今日はハロウィンMIXといったようなどこか不気味さを感じさせる音で満ちていた。
壁際の席でしばらくグラスを呷る。綾は知り合いを見つけたらしく、共にフロアの中心で踊っていた。こんな場所も綾がいなければ来なかっただろう。出会いというものは不思議なものだ。聴き慣れない音楽に気持ち程度体を揺らしていると、どこからともなくグラスが差し出された。
「っうぇーい。飲んでる?」
いかにもこうしたところにいる人間だと思った。派手な緑色の髪に、いくつ空いているのかもわからない数のピアス。やけにしゃくれた顎が気になった。こうした人たちの声が大きいのは音楽が鳴りやまない空間で過ごしているからではないだろうか。
「飲んでますよ」
「え、反応悪くない? とりま乾杯しよ」
グラスを促されるままに合わせると、男はぐいと杯を呷った。
「ほら、おねーさんもグラス空いてるよ。もう一杯いい感じの持ってきてあげる」
そういうと、男は自分の持っていたグラスを引き取りカウンターの方へ歩いて行った。変な酒を持ってきたらどう突き返してやろうかと考えていると男はすぐに戻ってきた。
「チャイナブルー好き? 青くて綺麗だよね」
ショートグラスになみなみと青い海のような液体が満ちていた。チェリーも浮かんでいる。知らない人から飲み物を差し出されるのは少々気持ちが悪いなと思いながらも礼を言い、受け取る。飲まずに適当に話して立ち去るのを待つことにした。
「ほらぐいっといきましょ~」
男は煽りを入れてきた。行ってすぐ帰ってきたように見え、変なものを入れたようにも見えなかったので一口ぐらいは口を付けようとした、その時だった。
「あんた。琴に何飲ませようとしてんの」
綾だった。いつの間にこちらに来ていたのだろうか。唖然とした顔で彼女の顔を見遣る。彼女は見てわかるように怒っていた。
「この店、青い酒ないよ」
そう言って、私が持っていたグラスを緑髪の男に突き返す。
「あんた、今ここでそれ全部飲んでみてよ」
不敵に笑う綾に、男はたじろぎながらも言い返す。
「なんだよ、お前には関係ないだろ。変な言いがかり付けんな」
今にも殴りかかってきそうな勢いだった。しかし、綾は少しも恐れる様子を見せなかった。
「それが答えね。わかった」
彼女はそれだけ言うと、受け取られなかったグラスの酒を男に浴びせた。ボタボタと酒が零れ落ちる。何が起きているのかわからず、身体が強張るのを感じる。
「逃げるよ!」
綾は私の手を引いてクラブの出口に向かった。緑髪の男は何か喚き散らしている。状況に追い付かない頭の中を整理しながら走る。そういえば、いつも綾に手を引かれているなと思った。
人込みの中を完全に逃げ切ることはできず、綾と私はクラブのスタッフルームに連れていかれた。きついお叱りである。日常茶飯事とはいえ、客同士のトラブルはよいことではない。男が酒に仕込んでいたのはレイプドラッグとして有名な睡眠薬だった。そちらの方を取り締まってくれよ、と思いながら綾と私は出入り禁止を言い渡されることになった。
「や~出禁くらっちゃったね」
クラブの外にある喫煙所で、綾はケタケタと笑っている。制服姿で喫煙所に立つ姿はどこかおかしかった。綾だからこそ似合っていたが。ポケットを探って煙草を取り出そうとしたはいいが、どうやら持ち合わせていないようだった。
「ごめんね。せっかく券も貰ったのに」
「いいってことよ。綾が無事ならなんでもいい。それに、あたしももうクラブ遊びなんてやってられなくなるしね」
私が緑髪の男に絡まれ始めたころから見ていたらしい。あの薬の入った酒はそれなりに名のしれたモノのようだった。
「もう、って」
最後に付け足した一言が気になり、尋ねる。
「ああ、そう、これを言いたかったのもあって今日誘ったんだよね」
彼女の顔が一瞬曇る。
「あたし、子どもできたんだ」
「え」
「二か月になるかな」
戸惑いを隠せずにいる私に無理もないと笑いながら続ける。
「大丈夫。ちゃんと好きな人の子どもだよ」
子どもなんてまだ考えたこともなかった私にとっては余りに衝撃的だった。それでもなんとか自分を持ち直し、祝いの言葉をひねり出す。
「そっか。おめでとだね」
「ありがと」
思わず逸らしてしまっていた目を、綾に向ける。綾の顔はいつもの少女のようなものではなく、母の顔だった。
「だから、遊びも煙草も酒も卒業。赤ちゃんのために仕事も頑張る」
強い意志を持った瞳は、変わらず綾だった。しかし、変わっていないなどというのは自分の思い込みであったことがわかった。
「結婚はするの? 式やるんなら呼んでよ」
当り障りのない質問をする。何故、自分はこんなにも動揺しているのだろうかと思った。
「式はしないよ。お金ないからね。でも、友達呼んでご飯食べるくらいはするつもり。そんときは絶対琴も呼ぶよ」
「楽しみにしてる」
なんとか笑顔を作りながら、答える。それから、しばらく沈黙が続いた。ネオンに殺された空に、月だけが光っている。気が付けば時計は十二時半を回っていた。
「終電、終わっちゃったね。どうする?」
綾がこちらを見遣る。いつもしているようにカラオケで一夜を過ごすかと尋ねてきた。
「私、歩いて帰るね。ちょっと風に当たりたい気分でさ。明日も仕事あるし。綾は大事な身体なんだし、タクシーで帰るかどこか温かいところで眠った方がいいよ」
なんだか、一人になりたい気分だった。
「そっか、わかった。久しぶりだからもうちょっと一緒にいたかったんだけど。そういうことなら」
寂しそうに綾は笑った。本当はこんな顔させたくなかったな、と思った。けれど、わけのわからない感情が胸にまで押し寄せてきていた。じゃあね、と綾に背中を向ける。背後から、ごめんねと声がしたような気がした。綾は何も悪くないのに、そう言わせてしまう自分が嫌になった。涙が零れる。どこへともなく、足は自然に駆けていいた。
すぐに走り疲れ、夜の冷たい空気が鼻をつんとさせる。走っても歩いても朝までに家に着けることはなさそうだった。そんなことはわかり切っていたのだけれど、どうしても気持ちを落ち着けたかった。携帯が何度か鳴っていた。どうやら綾が心配しているようだった。また、写真ファイルが何件か送られてきているようだったが、携帯の充電は五パーセントを切っており、開けそうになかった。なんと返信しようかと迷っていると、携帯は静かに電源を落とした。真っ暗になった画面に街灯の光が落ちる。画面に映った顔はなんともひどい顔だった。
なんとか近くの駅に辿りつき、駅近のインターネット喫茶に入る。いかにもやる気のない店員から携帯の充電器を借り、シングルのブースに腰を据えた。漫画でも読むかと、立ち上がり、フロアを歩きまわる。そういえば、漫画も読まなくなっていた。高校時代に好んで読んでいた漫画は全て完結していた。私の人生はそれでも続いていくのだと思うと、なんだか恐ろしい気持ちになった。
始発の電車に揺られ、充電された携帯の画面を開き、送られてきた写真を眺める。年甲斐もなくはしゃいだ様子の二人はあまりにも変わっていない。姿なんて、ほとんど変わっていない。私に至っては中身も変わっていないのだと思い知ってしまった。
何の変哲もない一軒家の鍵を開け、家族に迷惑をかけないようにそろりと自室に入る。二十三にもなって朝帰りを咎められることもないだろうが、まだ六時半だ。まだ少し薄暗い部屋の電気を点ける。姿見に自分の姿が写った。まだ、高校生の様に見える。若く見えることは悪いことではないかもしれない。しかし、あれほどなりたかった大人になったはずなのに、何も変わりたくないままでいた幼い自分に気づいてしまったことが、痛かった。そして、綾にも変わらないままでいて欲しかったなどということに気づいてしまった。子どもだったのはどこまでも私だったのだ。鏡の中の自分は余りに滑稽で、まるでピエロのようであった。ため息をつき、制服を脱ぎ捨てる。へんてこなメイクも乱暴にメイクシートで落とした。シャワーを浴びながら、少しだけ泣いた。
仕事に行かなければならない、とスーツに着替える。鞄の中に残っていたチョコポップが目についた。朝ご飯の代わりにしようと、銀紙を剥ぎ、口にする。強い甘さは辛さになって、舌を刺激した。トリートの中にトリックを仕込んでくるんじゃないよ、と笑う。文句を言いたかったけれど、それを今思ったところで後の祭りである。ありがとうと呟いて、またドアを開けた。
ピエロは制服を脱ぎ捨てた 更科 周 @Sarashina_Amane27
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