第3話


 漣さんは一命を取りとめたけど右の手首を切断されていて、目を覚ましてからもしばらくは面会ができる状況ではなかったらしい。

 吹奏楽部の部長をしていた漣さん。高校でも絶対に続けたいと、芹川さんに話していたのを思い出すと、夏休みも憂鬱で、灰色な時間だけが流れた。

 そして真っ赤な夕日が眩しかった夏休み最終日、漣さんが自宅マンションの屋上から飛び降りた。


 通夜にはクラスのほぼ全員に、部活の友達や小学校時代の友人など、たくさんの人が参列して涙を流していた。

 僕はその人たちの顔を見るのが怖くて、また逃げ出そうとした。

 遺影の中の責めるような瞳に足元がぐらつく。


 僕はあの日、漣さんからも綿貫からも逃げた。

 助けようと思えば何かできたかもしれなかったのに。漣さんに全部話して、気を付けてと言えばよかったのに。綿貫に協力してもらえば、もっと他に方法はあったかもしれないのに。

 だけどできなかった。当たり前だ。変な鳥が見えたから気を付けて、なんて言えるわけがない。そんなことを言えば、僕のクラスでの立ち位置は綿貫と同じイカれたオカルト野郎に成り下がる。

 僕は自分の評価が落ちるのが怖かった。

 だから、ただの見間違いだと思うことにした。

 綿貫のオカルトじみた予言が偶然当たって動揺しただけだと。吉泉先生のことさえ忘れて、僕はまだ逃げられると思っていた。

 そして漣さんの顔も見ず、綿貫を振り返りもせずに一人で帰った。


 通夜の帰りに久しぶりに綿貫を見た。ずっと避けていたし、綿貫の方から話しかけてくることもあれ以来ない。

 でもその時はなぜだか話しかけようと思った。


「綿貫。ちょっといいか」

 街灯に照らされた綿貫の顔は、いつもより輪郭が鋭くて僕を見つめてくる目が遺影の中の瞳と重なる。

「なに……籾山くん」

「聞きたいことがあるんだ。お前あの時」

 そこで喉が引きつったように声が出なくなる。

 本当にこれを言っていいのか。今僕がいる場所が境界線なら、この先に踏み出すことでどちらかに落ちてしまう。それがまともな世界か、元には戻れない世界かは分からない。

 だけどもう限界だった。これ以上考えたくない。あの日からずっと、不安定な足場の上にいるようで、どこかに降りたかった。

 だから全部話すことにした。たとえ引き返せなくなるとしても、何かに委ねたかった。


「お前は全部知ってるんだろ。あの鳥はなんなんだよ。どうして僕にだけ見えるんだ」

 怒っているのか助けてほしいのか、よく分からないまま声を絞り出していた。

「なんでこんなことになったんだよ。教えてくれ。お前は漣さんに何を話したんだ」

 僕たちの横をトラックが走り去る。生暖かい風が頬をなでてきて、綿貫の髪が風になびく。その奥にある表情が一瞬歪んだように見えた。

「僕は……漣さんを助けたかった……けどできなかった」

 排気ガスの臭いが遅れて鼻をつく。

「あの日……漣さんに悪いモノが近づいていた……。僕はお守りを渡そうとして……受け取ってくれなくて」

「悪いモノって、なんだよそれ」

「分からない……僕には見えないから」

「じゃあなんで近づいてるなんて分かるんだよ」

「それは……僕には守護霊が見えるんだ……あの日、漣さんの守護霊が教えてくれた」

 守護霊なんて言葉をテレビ以外から耳にしたのは初めてで、足元から現実感が流れ出していく。

「でも……音は聞こえたよ」

 そう言ってニヤッと笑ったような顔に、嫌悪感を抱いて空を見上げた。帰ってしまいたかったけど、他に頼れるものはもうなかった。


「あんなモノはもう見たくもない」

「あれから色々調べたんだ……あれは多分悪魔の一種……。校舎の工事のせいで……昔封印したものが出てきたのかもしれない」

「それじゃ、まだ終わらないのか」

「また出る可能性はある……。でも、このお守りを持っていれば……大丈夫」

 綿貫が、ポケットから小さな石のようなものを取り出した。

「そんなものが役に立つのか」

「大丈夫……ちゃんと結界が張られるから……。漣さんにも渡したかったけど……。これを持っていればあんなことには」

 綿貫の方に一歩近づいて、お守りを受け取る。

「籾山くんは見えてるみたいだから……もしまた見えたら、これを握っていれば……大丈夫」

 そして、綿貫は悪魔について話し出した。

 それからの言葉は、僕にはまったく理解できなかった。けれども、何の意味もなさないような言葉を浴びていると、灰色な夏が洗い流されていくように、少しだけ気持ちが晴れてきた。




――ワイシャツが汗でびっしょり濡れている。授業が始まってから何分経ったんだろうか。耳障りな音はまだ消えない。

 あれから今日まで何も起こらなかったのに。なんでまた出てくるんだよ。

 あいつが変なことを言うからだろうか。


 席替えをして僕の後ろの席に来たけど、相変わらずオカルトじみた本ばっかり読んでいて、会話をすることはなかった。なのに、籾山くんの守護霊が弱ってる。なんて急に言ってきて、なんなんだよあいつ。

 やっぱりあいつに話すんじゃなかった。この音だってきっと耳鳴りで、一度ちゃんと病院で診てもらった方がいいのかもしれない。ああ、なんで気付かなかったんだろう。あいつに頼るより病院に行くべきだったんだ。同級生が死んだら精神が不安定になっても、寝れなくなってもおかしくない。やっぱりあいつに頼るべきじゃなかった。


 でも、なんで今回は見えないんだろう。

 顎から汗が滑り落ちた。鼓動がどんどん速くなる。

 今までと違って黒い鳥はどこにも見えない。

 なのに音だけはハッキリと聞こえる。僕の机の中から。木の板一枚を挟んだこの下から間違いなく“あれ”は鳴いている。


 お守りはどこに置いたんだろうか。

 信じていたわけではないけど捨てるのも嫌で、結局どこかに置きっぱなしにした気がする。だけど場所が思い出せない。


 また“あれ”が現れるかもしれないと、理解はしていた。

 でも僕が狙われるなんて考えてもなかった。理由は分からないけど僕だけが“あれ”を見ることができる。だから僕は狙われないと漠然と思っていた。

 黒板の上の時計を見ると秒針がとてもゆっくり動いている。


「籾山。これ解いてみろ」

 時計の下にある先生の顔。その目が僕を見つめている。

「どうした、分からないのか? 先週やったところだぞ」

 一瞬間の後に、先生に指名されたんだと理解した。

 はい。と言って立ち上がる。


 黒板の前まで歩いていくと不思議と汗が止まってきた。チョークを手に取って答えを書き始める。

 目の前の問題に集中して、間違えないように順序立てて考える。そうしていると段々と気持ちも落ち着いてきた。

 鳴き声はもう聞こえない。


 チョークを握る指が白くなっていく。読みにくくならないように一つ一つ、丁寧に書いていたから少し力が入りすぎたのかもしれない。

 答えを書き終えるとチャイムが鳴った。

 その音を聞いて思い出す。

 お守りは机の中に入れておいたんだった。


 振り返るとそこに“あれ”がいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

45分間の邂逅 割瀬旗惰 @WariseHatada

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ