第2話


 吉泉先生の事件で、昨日まで存在していた人間がある日突然いなくなる、ということを初めて経験した。

 そして次に“あれ”が現れたのはそれから数か月後。

 夏休み目前の、数学の授業で。




 その日は、前日までの刺さるような暑さもやわらいだ、夏休み前最後の月曜日だった。

 中学三年の夏になると、いよいよ進路が現実味を帯びて立ちふさがる。それでも夏休みは嬉しくて、エレベーターが下る時のような奇妙な浮遊感が教室内を包んでいた。

 窓の外は相変わらずシートで覆われている。


 休み時間にトイレから戻ると、教室の前で綿貫と漣さんが話をしていた。

 横目に見ながら、僕は一体いつから綿貫と距離を置くようになったのかを考えた。思えば些細な出来事だったのかもしれない。


籾山もみやまくん」

 いつの間にか一人になっていた綿貫が、こっちを向いて話しかけてきた。

「なに」

「見えてるんだよね……籾山くんには」

 長い前髪の下に潜む瞳が揺れている。僕と目を合わせることはなく、返事を催促するように泳ぐ。

「……黒い鳥」

 その言葉に体が硬直して、吉泉先生が振り返った時の幻影がよみがえる。

「やっぱり……籾山くんには見えてるんだね……。僕には見えないけど……今日も出るよ」

灰霧かいむ! いい加減にしろ」

 つい口調が強くなる。下の名前で呼んだのはいつぶりだろう。

 廊下の先から先生が歩いてきた。綿貫はまだ何か言いたそうに視線を泳がしていたけど、それ以上話したくもなかったから教室に戻った。背中がじわじわと熱くなる。


 綿貫がオカルトに嵌まったのは、たしか中学に入ってからだった気がする。

 小学生の頃に遊びに行った時にはあんなに優しかったお母さんが、変な宗教に没頭して、それから綿貫もおかしくなった。今では毎日、学校に怪しい本を持ち込んで休み時間に読んでいる。

 たった数年前のことなのに、生まれたばかりの頃を思い出すように記憶に靄がかかっている。

あの頃のあいつの顔が記憶の彼方に滲む。


 その時は、はっきりと音から認識した。

 綿貫に話しかけられたことで動揺していた心が、やっと落ち着き始めた授業の中ごろ。室内の静寂を切り裂くように、突然鳴り出した。

 黒板を引っ掻くような不快な音。体が固まって、目だけであの鳥を探す。

 目を瞑りたいとは思わなかったけど、どこにもいなければいいと思った。

 それでも“あれ”は、やはりいた。


「それじゃこの問題、えっと、漣さん。解いてみて」

 はい。と答えて漣さんが立ち上がる。

 新しい数学の先生は、三十歳を過ぎているのにやたらと快活で、生徒を指名して問題を解かせることも多い。

 暗い池の中を泳ぐ白い魚のようにチョークの先端をくゆらせる漣さん。まるでチョークと一体化したような真っ白な指を、そこから広がる手の甲や腕を、何度も小刻みに震わせて、暗い池にいくつもの水泡を作り出す。

 その様子を見ていると、水泡を見つめていると、まともではないこの状況もどうにか説明がつくんじゃないかと思えてくる。

 けれどもやっぱりそんなことはなくて、漣さんの指は真っ白で、手の甲も腕も真っ白だけど、その手首に黒い鳥が飛び回っているのはどうしようもない事実としてそこにあった。


 誰にも見えていないのは明らかだ。

 黒板の前に立つ漣さんが右手を掲げて、その手首にこれだけ目障りにまとわりついている。本人や周りの人が見えていたら声くらい出すだろう。

 唐突に背後が気になった。窓際の一番後ろ、綿貫の席。

 あいつは今日も出る、と言っていた。

 今の状況に気付いているのだろうか、本当に分かっていたのだろうか。それともただのオカルトじみた予言だったのか。

 あいつの顔を見たところでどうにもならないのに、なぜだか背後が気になって仕方がない。

 我慢できずに振り向こうとした時、カタンという音が聞こえた。


「できました」

「うん、合ってる」

 漣さんが手で髪を耳にかける。そして席に戻るとノートをとり始めて、先生が授業を再開した。

 黒板を見て、先生の話を聞いて、下を向いてノートをとる。その動作を繰り返すうちに髪が邪魔になるのか、何度も髪を耳にかける漣さん。そしてその度に黒い鳥が視界の隅を飛び回る。


 ふいに漣さんが振り向いた。僕にではなく、後ろの席の芹川せりかわさんに。

 囁くような声で芹川さんが短く話しかけると、少し口角を上げて漣さんが頷いた。そして前を向いてペンケースを探り、また少し後ろを向いてから何かを差し出した。芹川さんが拝むようなポーズをしてそれを受け取る。その瞬間だった。


 モゾモゾと、耳から頭の中に何かが忍び込んでくるような不気味な感覚が突き抜けた。咄嗟に目を瞑って両手を耳に当てる。

 次に目を開いた時には、もう黒い鳥は飛び回るのをやめていて、すでに手首に食い込み始めている。

 飛び回っている時にはよく見えなかった二つの赤が、僕の席からでも不自然なくらいくっきりと見える。

 その赤に魅入られて、体も視線も動かせなくなる。

 このまま呼吸さえ止まってしまうのではないかと思い始めた時に、高く鋭い鳴き声が耳元でさえずりだした。


 コップの中の氷が融けだすように、ゆっくりと体の重しが消えていく。全てが融けきると、最後のひと鳴きが脳内に冷たく響いた。


 音が消えると何も違和感のない、いつも通りの教室に戻っていて、僕の心臓だけがびしびしと騒いでいる。

 後ろを振り返ってみると、綿貫が俯いていた。

 その様子をしばらく眺めていたけど、綿貫はずっと手元を見ているようで前を向く気配もない。今起きていたことに、気付いているのかいないのか、分からない。


 漣さんが通り魔に襲われたのはその日の帰り道だった。


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