45分間の邂逅
割瀬旗惰
第1話
あと四十五分――そう思うと、カーディガンの下がひんやりと汗ばんでいることに気付いた。耳鳴りのような音に体が震えてくる。
今年の初めから長く続いていた校舎の改修工事のさいに、職員室には最新のエアコンが取り付けられた。この教室にもエアコンはあるけど最新型ではないし、真夏日に冷房をつけることはあっても、暖房を使ったことは一度もない。
そもそも今日はそこまで気温が低いわけでもないのに。
分かっている。この寒気の原因はどう考えても“あれ”のせいだ。
“あれ”が初めて現れたのは、たしか今年の春過ぎだった。
ゴールデンウィークが終わって少し経った、数学の授業の時に。
そう、あの時も数学の授業だった。
あの日は朝から雲が多くて、冬に逆戻りしたような風が頬をさすってきた。
下駄箱の前で靴を脱いでいると、背後から聞きなれた声が降ってくる。
「よう、
「おう、
当たり前だろ。と海斗が返してきて、そのまま並んで教室まで歩いた。
教室内に充満していたゴールデンウィーク明けの気怠い空気は、だいぶ薄まってきて、受験勉強を始める人も増えていた。
窓側の一つ隣り、後ろから三番目の席に座り窓を見ると、工事用のシートで全面覆われていて空はまったく見えない。
本来ならばゴールデンウィークが終わるまでに、僕たちの教室やその周辺の工事はすべて終わるはずだった。だけど色々な事情によって完成が遅れるということを、始業式の時に校長先生が話していた。
昼休みの終わるチャイムが鳴り、
「起立。礼。着席」
みんなが海斗の動作をトレースしたように繰り返す。
いつもと同じだ。
今思えば、最初の異変は音だったのかもしれない。あの時は気にもならなかったけど、高く澄んだ音が頭の隅に響いていた気がする。
そして“あれ”が見えた。
昼過ぎのうとうとする時間だから、最初は見間違えかと思った。
だけど目を凝らしてみると、たしかに何かが飛んでいる。吉泉先生の周りを、小さな黒い物体が飛び回っている。
どこかから入ってきた虫だろうか。そう思って、今度は目を見開いてみた。相変わらずその物体は吉泉先生の周り、肩や首のあたりを飛び回っている。
あれは……、鳥……、そうだ、鳥だ。ものすごく小さな黒い鳥。
動きが早くてはっきりとは見えないが、鳥が羽ばたいているように見える。大きさはカメムシか、それよりももっと小さい。
丁度そんなことを考えていた時に、やっと音を認識した。高く鋭い音。まるで鳥の鳴き声みたいな。
「
吉泉先生が首から上だけを綿貫に向けた。いつも気の抜けたような顔をしている綿貫を、吉泉先生は多分嫌っている。
「……はい」
陰気くさい声で綿貫が答えるよりも早く、吉泉先生はすでに黒板に視線を戻していた。その間も、黒い鳥は相変わらず目障りに飛び回っている。
でも、なぜ誰も気付いてないんだろう。
一番前の席の女子は、校庭を走っている時に顔の前を小さな虫が横切っただけで悲鳴を上げていたのに。海斗も、隠してはいるけど虫が苦手なはずなのに。
吉泉先生だって、何かが飛び回っていたら気になるはずだし、手で追い払うことくらいしそうなのに。
見えていないのか。
その言葉の意味を理解するよりも先に、両腕が毛羽だった。
それまでは何か珍しい生き物かと思って、正直少し好奇心もあった。
だけどもし、誰にも見えていないのだとしたら。
もし、それが生き物ではないのだとしたら。
ふいに黒い鳥が、何か得体の知れないモノに変わったように見えた。
真っ黒な、本当に真っ黒でどこまでも続いているような小さな暗闇への入り口が動き回っている。
教室内の空気が暗闇に吸い込まれていくように薄くなって、シャーペンを握る手に汗が滲む。窓の外は見えないけど、雨が降ってくる気配がした。
カシャン、という音が響いて、ようやく吐息がもれると、夕立のように鼓動が速まっていく。
少し時間がかかって、黒板の下についているチョーク入れが床に落ちた音だと気付いた。
吉泉先生が小さく舌打ちをした。ように見えた。そのすぐあとに落ちたチョークのそばにしゃがみこむ。
「先生、これも」
床に転がるチョークの一つを、近くの席にいた
どうも。と言う吉泉先生の無機質な声が床に刺さる。
その光景を眺めていると、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
もはや飛び回るモノは何も見えない。
立ち上がり、チョーク入れを元に戻すと、吉泉先生はまた黒板に向かった。
そうだ、何もなかった。ただ寝ぼけていただけだと安堵してみると、少し鼓動が遅くなる。
だけど“あれ”は、やっぱりいた。
もはや飛び回ってはいなかったけど。黒板に向かってひたすらチョークを当てる吉泉先生の首筋に。短い襟足とスーツの間に。止まっている。
心臓を鷲掴みにされたみたいで息がしづらい。
真っ黒な鳥。黒の中に小さな深い赤が二つ。
鳥に見えたものが段々と歪んでくる。空間が歪み、少しずつ凹凸がなくなって、それから完全に首筋に張り付いた。いや、食い込んだのかもしれない。
その時になってようやく、これがまともではないと確信した。
そして、油絵のように首筋にしみ込んだ黒と赤が、高く鋭く疾風のように鳴き、一瞬にして消える。
吉泉先生の体内に吸い込まれていったみたいで、僕の肩がぴくりと震えた。
鳴き声はもう聞こえない。
その後は何事もなく授業は終わった。
でも、これは見間違いかもしれないけど、あの黒と赤が消えた後、吉泉先生が振り返った時の顔が、ひどい火傷を負ったみたいに爛れて見えた。
そして瞬きをした後には、二十代後半の男の顔、見慣れた吉泉先生の顔が、浮遊していた。
帰宅途中だった吉泉先生が通り魔に殺された、という話は稲妻のような速さで校内を駆け抜けていった。
通夜はそれから数日後で僕は参列していない。
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