賢人

ゆうみ

賢人

 四方を峨峨ががたる山脈に囲繞いじょうされたその村は、始まりが忘れ去られるほど古くより、隣村と争いを続けていた。雪の舞う日であろうと、日照りの厳しい日であろうと、人命の失われない日などなかった。誰もがそれを悲しみ、争いの終息を切望していたが、しかし誰一人として解決の方法を創造することはできなかった。ただ剣を振り、弓矢を放ち、敵が悉く消え去るという幻想じみた希望にすがり、彼らは幾年も戦い続けた。


 そのような状況の中、ある一人の若者が現れた。彼は敵の軍勢を薙ぎ払うほど剣の技術に長けているわけでも、山麓に立って山の中腹に陣を構える敵を討てるほど弓矢に習熟しているわけでもなかったが、敵の虚をつく戦術を次々と考案する、類い稀な知力という武器を備えていた。


 ある日のこと、彼は山を八つ越えた先にある竹林に居を構えるという、賢人の噂を耳にする。噂によれば、賢人は万物の原理に知悉ちしつした最上至極の知性を持つ老人だという。これを聞いた若者は、賢人ならばこの戦乱を快刀乱麻の如く治める方法も知っているのではないかと考え、一縷いちるの望みを胸に賢人を訪ねる旅へ出ることを決意した。


 しかしその道程は決して楽なものではなく、幾度も岨道そばみちを抜けた後の山間にて、若者はついに大地へと倒れ伏してしまった。覚醒と消失の狭間を揺れる意識は疲弊に屈する寸前であり、ああ、もう俺はここで死ぬのだろうかと、絶望に呑まれそうになった時のこと、前方に何者かの気配を感じた若者は、枯れ果てた力の泉を気力で満たし、なんとかその姿を視界に収めようと首を上げた。


 視界に入ったのは、長い白髪の老人であった。若者はすぐに彼こそが賢人であると悟った。それを確信するのに、どんな言葉による証明も必要はなかった。岩が岩であるのだと分かるように、賢人は賢人であると分かるものなのだ。


 無言で若者を見下ろす賢人は、しばらく老木のように土の上で凝立ぎょうりつしていたが、おもむろに懐から薬草らしきものを取り出すと、そっと若者の口へと運んだ。


 若者は与えられた薬草をむと、途端に体中に自らの意識が宿っているかのような、体験したことの無い活力の湧出を感じた。すぐに立ち上がることも可能となった若者は、まず深くお辞儀をして賢人に謝辞を述べると、それからすぐに村の戦火を鎮める方法を尋ねるため、はるばるあなたを探す旅に出たのだという旨を告げた。すると賢人は厳かに一度首肯した後、鷹揚おうように身を翻して歩き始めた。その背に拒絶の意志は見えず、若者は追従すればいいのだと直感し、衣服の汚れを幾度か払って、賢人の後を追い始めた。


 数分ばかり歩くと、すぐに賢人の家が見えた。存外時間が掛からなかったことに驚きつつ、若者は辺りを観察していた。噂通り周囲は鬱蒼と茂る竹林であり、その中に佇む賢人の家は、周囲の自然と渾然一体となっていたため、あそこに家があるのだと言われなければ気づかない程であった。


 軋みを上げる扉を開き賢人が家に入ると、若者もそれに続いた。部屋は酷く狭いが、奥にもう一つの部屋があるようだ。入ってすぐの部屋には座布団が二つ敷かれており、若者は導かれるように扉側に置かれた座布団に座った。


 賢人は若者が座ったことを見届けると、もう一つの部屋から古色蒼然とした毛筆と硯、それから正方形の和紙を持ち込み、一切口を利かないままに筆を執って何やら書き始めた。若者はその間、賢人の手元は見ずに、ひたすら賢人の炯眼に宿った、余りに深甚な智慧の輝きに我を忘れて見入っていた。あの目に真っすぐ見つめられたら、俺は己の至らなさを痛感して発狂してしまうのではないか。若者はそんな考えを持ってしまう程の畏敬を、目の前の巨儒に対して感じていた。


 そのようにして若者が賢人の瞳に宿る光に感銘を受けている間に、賢人は書を完成させていた。自らが永遠の生を得ているとでも言うような泰然とした動作で、賢人はその書を若者に渡すと、すぐに奥の部屋へと消えてしまった。若者は戸が閉まるまでじっと賢人を見つめていたが、やがて我に返って自らの目的を思い出した。授かった書にはきっと俺の求めていたものがあるのだ、そう信じて視線を手元に下ろした若者は、次の刹那にはあまりの衝撃に瞠若どうじゃくしていた。


 書かれていた文字の全てが、若者の解するそれとはかけ離れていたのだ。曲線のみで構成されたある種の芸術性を帯びた奇怪な文字は、若者には黒と白で構成された物体という以上の意味を持たなかった。これまでのあらゆる見聞を頭の隅々から引き出し、幾度も幾度も様々な角度からの解釈を試みたが、不適合な情報が輻輳ふくそうするばかりで、ともかく如何ともし難かった。


 見方を変えようと、向きを横にしたり、斜めにしたり、裏に返してみたり、果てには折り曲げてみたりもしたが、どれも何ら効果は得られなかった。考えられるあらゆる方法は、三日経ったころには底をついてしまっていた。


 諦念が若者をむしばみ始める。この場に足を踏み入れる際は、あれほど希望に満ちていた表情が、今や悄然として骨ばっているようにすら見える。遂に彼は賢人に授かった書を床へと投げ出した。はらりはらりと宙を舞いながら、書が床に広がる。


 なんともなしにそれを目で追っていた若者は、書が床に広がった瞬間、突如として頭の中で何かが目覚めたように、その書に記されたものの意味を理解することができるようになっていた。


 ああ、そうだったのか、と、夢中になって書の意を紐解いていく。


 賢人が書いたものが文字だったという考えこそが、そもそも謬見びゅうけんだったのだ。わら半紙に書かれていたもの、それは賢人が頭の中に描いた抽象的な概念を、平面的な図形へと一切の迂遠も冗漫もなく純粋に還元した記号だったのだ。曲線の一本一本が意味を持ち、また濃淡の機微さえもが理由を持ち、さらには余白の広がりすらもが特定の概念を指向していた。若者は諦念を通して文字という枠組みから離れた瞬間、その意味を理解する端緒を開くことができたのだ。


 ものの数分で若者は賢人の記した全てを理解し、さらには記憶すらもした。もとより彼は格別の知を持った者だ。一度方法を解してしまえば後は造作もない。


 彼は書の端に二本の曲線を描き、賢人に対して幸甚の至りを示すと、急ぎ村への道を戻って行った。


 これで村の争いは静まる。若者の胸には希望が満ちていた。あれほど苦労した岨道も揚々と超えていき、行きの半分足らずの時間で、村まであと一つの山を越えるのみというところまで来た。


 希望ばかりを募らせていた若者も、さすがに少しばかり緊張のようなものを感じてきたのか、賢人に授けられた解決策の精査を始めていた。


 あれも、これも、何もかも、全く問題などありはしない。ようし、やはりこれで村は救える。長い争いが終わる日が来るのだ。そんな確信を持とうというとき、はたと若者はある事実に思い当たる。


 俺は今、争いを鎮める方法をしかと心得ている。だがやはり、一人の力で戦況を動かすことは難しく、この方法には村の皆の力添えが必要だ。


 しかし、はたしてどのようにしてこの計画を村人たちに伝えれば良いのだろうか? 賢人より言葉を介さず伝えられたこの方法を、一体どのようにして彼らが理解する言葉へと還元すれば良いのだろうか?


 若者にそのような能力があるはずがなかった。賢人の用いた抽象的思考を記号へと変換する技能を体得した若者だったが、賢人ですら至らぬ境地、即ち思考の全てを言葉へと変換する術など、若者が身に付けているはずがない。


 山の向こう、夕日の朱に縁どられた山の端から、どんな闇夜よりも黒い煙が、歪な曲線を描きながら上っていた。若者はその様子を茫然と見つめながら、深い絶望、いや、言葉にすることなど到底できない失意の底へと、たちまち堕していくのだった。


 


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賢人 ゆうみ @yyuG_1984

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