賢人
ゆうみ
賢人
四方を
そのような状況の中、ある一人の若者が現れた。彼は敵の軍勢を薙ぎ払うほど剣の技術に長けているわけでも、山麓に立って山の中腹に陣を構える敵を討てるほど弓矢に習熟しているわけでもなかったが、敵の虚をつく戦術を次々と考案する、類い稀な知力という武器を備えていた。
ある日のこと、彼は山を八つ越えた先にある竹林に居を構えるという、賢人の噂を耳にする。噂によれば、賢人は万物の原理に
しかしその道程は決して楽なものではなく、幾度も
視界に入ったのは、長い白髪の老人であった。若者はすぐに彼こそが賢人であると悟った。それを確信するのに、どんな言葉による証明も必要はなかった。岩が岩であるのだと分かるように、賢人は賢人であると分かるものなのだ。
無言で若者を見下ろす賢人は、しばらく老木のように土の上で
若者は与えられた薬草を
数分ばかり歩くと、すぐに賢人の家が見えた。存外時間が掛からなかったことに驚きつつ、若者は辺りを観察していた。噂通り周囲は鬱蒼と茂る竹林であり、その中に佇む賢人の家は、周囲の自然と渾然一体となっていたため、あそこに家があるのだと言われなければ気づかない程であった。
軋みを上げる扉を開き賢人が家に入ると、若者もそれに続いた。部屋は酷く狭いが、奥にもう一つの部屋があるようだ。入ってすぐの部屋には座布団が二つ敷かれており、若者は導かれるように扉側に置かれた座布団に座った。
賢人は若者が座ったことを見届けると、もう一つの部屋から古色蒼然とした毛筆と硯、それから正方形の和紙を持ち込み、一切口を利かないままに筆を執って何やら書き始めた。若者はその間、賢人の手元は見ずに、ひたすら賢人の炯眼に宿った、余りに深甚な智慧の輝きに我を忘れて見入っていた。あの目に真っすぐ見つめられたら、俺は己の至らなさを痛感して発狂してしまうのではないか。若者はそんな考えを持ってしまう程の畏敬を、目の前の巨儒に対して感じていた。
そのようにして若者が賢人の瞳に宿る光に感銘を受けている間に、賢人は書を完成させていた。自らが永遠の生を得ているとでも言うような泰然とした動作で、賢人はその書を若者に渡すと、すぐに奥の部屋へと消えてしまった。若者は戸が閉まるまでじっと賢人を見つめていたが、やがて我に返って自らの目的を思い出した。授かった書にはきっと俺の求めていたものがあるのだ、そう信じて視線を手元に下ろした若者は、次の刹那にはあまりの衝撃に
書かれていた文字の全てが、若者の解するそれとはかけ離れていたのだ。曲線のみで構成されたある種の芸術性を帯びた奇怪な文字は、若者には黒と白で構成された物体という以上の意味を持たなかった。これまでのあらゆる見聞を頭の隅々から引き出し、幾度も幾度も様々な角度からの解釈を試みたが、不適合な情報が
見方を変えようと、向きを横にしたり、斜めにしたり、裏に返してみたり、果てには折り曲げてみたりもしたが、どれも何ら効果は得られなかった。考えられるあらゆる方法は、三日経ったころには底をついてしまっていた。
諦念が若者を
なんともなしにそれを目で追っていた若者は、書が床に広がった瞬間、突如として頭の中で何かが目覚めたように、その書に記されたものの意味を理解することができるようになっていた。
ああ、そうだったのか、と、夢中になって書の意を紐解いていく。
賢人が書いたものが文字だったという考えこそが、そもそも
ものの数分で若者は賢人の記した全てを理解し、さらには記憶すらもした。もとより彼は格別の知を持った者だ。一度方法を解してしまえば後は造作もない。
彼は書の端に二本の曲線を描き、賢人に対して幸甚の至りを示すと、急ぎ村への道を戻って行った。
これで村の争いは静まる。若者の胸には希望が満ちていた。あれほど苦労した岨道も揚々と超えていき、行きの半分足らずの時間で、村まであと一つの山を越えるのみというところまで来た。
希望ばかりを募らせていた若者も、さすがに少しばかり緊張のようなものを感じてきたのか、賢人に授けられた解決策の精査を始めていた。
あれも、これも、何もかも、全く問題などありはしない。ようし、やはりこれで村は救える。長い争いが終わる日が来るのだ。そんな確信を持とうというとき、はたと若者はある事実に思い当たる。
俺は今、争いを鎮める方法をしかと心得ている。だがやはり、一人の力で戦況を動かすことは難しく、この方法には村の皆の力添えが必要だ。
しかし、はたしてどのようにしてこの計画を村人たちに伝えれば良いのだろうか? 賢人より言葉を介さず伝えられたこの方法を、一体どのようにして彼らが理解する言葉へと還元すれば良いのだろうか?
若者にそのような能力があるはずがなかった。賢人の用いた抽象的思考を記号へと変換する技能を体得した若者だったが、賢人ですら至らぬ境地、即ち思考の全てを言葉へと変換する術など、若者が身に付けているはずがない。
山の向こう、夕日の朱に縁どられた山の端から、どんな闇夜よりも黒い煙が、歪な曲線を描きながら上っていた。若者はその様子を茫然と見つめながら、深い絶望、いや、言葉にすることなど到底できない失意の底へと、
賢人 ゆうみ @yyuG_1984
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