(2)

 志津子にとって、宗治郎は単なる使用人にとどまらない、思い出深い人物である。


 志津子の両親は先述した通り、自分のことが一番大事な人間で、おまけにその意識を他人に向けることすら厭うような人物たちであった。そうであるから、そんなふたりの夫婦の家庭において、愛情など望もうとも叶うべくもない代物であった。


 だが幼い頃の志津子はそれが理解できなかった。だから必死で両親の気を引こうとしては、まったくの無駄足に終わったり、あるいは手ひどい仕打ちを受けては何度も深く傷つけられた。


 使用人たちは金で雇われているから自分の領分以上のことをしようとはしない。それは正しい行いではあったが、それがまた志津子の孤独感を深めた。


 愛情に欠けた家庭で育った子供が、しばしば正常な人間関係を築けないのはよくあることで、志津子も例に漏れず小学校へ上がっても親しい友人のひとりもいなかった。そうなれば志津子の興味は外側の他人ではなく、内側の身内――親へと向かう。だがそもそもの原因は家庭にあるわけだから、志津子の愛されたいという欲求が満たされることはなかった。


 その日も志津子は継母から手ひどい拒絶を受けた。愛情の代わりとでもいうようにたっぷりと与えられたお小遣いを手に、志津子が初めて赤いカーネーションを買った日のことである。


「こんなもので気を引こうとするなんてあさましい子供ね」


 継母は美しいかんばせを歪めて志津子が買ったカーネーションをゴミ箱に捨てた。志津子はそれが悲しくて仕方がなく、立派に整えられた中庭で、ひとり静かに涙を流した。


「志津子さん? どうされたんですか?」


 そんな志津子に声をかけたのは、まだ年若い宗治郎であった。志津子は継母の言った「あさましい子供」がどういう意味の言葉なのかは知らなかったが、それでも自分がなにか失態を犯してしまったことだけは理解できたので、宗治郎に進んでそのできごとを語ろうとはしなかった。そうすることで、なけなしのプライドを、志津子は守っているつもりだった。


 それでも志津子は精一杯大人ぶって宗治郎に告げる。「わたしが悪いの」と。


 しかしそうしたら、今度は言葉が溢れて止まらなくなった。志津子は学校でも孤立しているから、彼女の生活において口を開く機会というのは非常にまれであった。家庭内では言わずもがな。だから、こうして話を聞いてくれそうな人間が現れると、どうしても志津子は心情を吐露せずにはおれなかったのである。


 なにを話したのか、志津子の記憶はおぼろげであった。とにかく自分を否定するようなことばかりを言っていた気もするが、その裏側には「それを否定して欲しい」という、「あさましい」感情が隠れていた。


 けれども宗治郎は志津子の言葉の裏に隠された感情を、上手にくみ取ってくれた。そして志津子の欲しい言葉をくれたのだ。


「そんなこと言わないでください。私は志津子さんの味方ですよ」


 ――それが、たとえうわべだけの言葉でも志津子は構わなかった。なにせこんな言葉をかけてくれる人間は、今までひとりとして志津子の人生には存在し得なかったのだから。


 けれども宗治郎は、志津子の一家が離散するまでその言葉をたがえることはなかった。すなわち麻生の家の中で、宗治郎だけが志津子に優しくしてくれる人間だったのである。


 そうであるから志津子はずいぶんと宗治郎に懐いていた。それでもその態度は控えめなもので、宗治郎が暇そうにしていれば進んで話しかけるくらいの他愛ない行動で示された。


 宗治郎は志津子にとって唯一絶対の、安心できる存在だった。志津子の生育環境を鑑みれば、彼女の中で宗治郎の存在がどれほど大きかったのか、言葉で示さなくとも理解できるだろう。


 だがそんな幻想を抱き続けられたのも、十五で家を追い出されるまでの話である。


 志津子は未成年者で、社会的には子供の部類から未だ出られない。それでも自分で自分を養えるていどには自立しているから、ほとんど大人と同じだと志津子は思っていた。だから、だれかに寄りかからずとも生きていけるし、そうでなければならない。


 だから、「大人」になった志津子にとって、宗治郎はもう必要のない存在なのだ。それは残酷な考えだろう。けれども志津子はこんな子供のことは忘れてしまえばいいと思っている。あんな、みすぼらしい子供のことなどは、過ぎ去りゆく人生のほんの瞬きのあいだに見た幻だと思って、忘れて欲しかった。


 一方で、忘れて欲しくないと思う志津子もいた。宗治郎に忘れて欲しいという思いを押しつけるのは、志津子が宗治郎のことを忘れてしまいたいと思っていることの裏返しである。つまり、志津子は宗治郎を忘却の彼方へと放り込むことが、未だできないでいるのである。


 ――私は志津子さんの味方ですよ。



 幾度目か、宗治郎の姿を見たとき、志津子は自然と彼に助けを求める言葉が突いて出た。宗治郎は実に素早く、しかし見苦しくない所作で志津子と滝沢たきざわのあいだに割って入る。突如として現れた長身の男に、滝沢はぎょっとしたような顔をしたあと、取り繕うように顔を歪めて舌打ちをした。


 滝沢は志津子のバイト先の先輩である。しかし特に親しい間柄というわけではなかった。それというのもこの滝沢という大学生、率直に言って素行がよろしくないのである。


 茶色く脱色した髪をあちらこちらへと逆立てて、耳にいくつもピアスホールを空けているこの男は、志津子からすると威圧感を覚えて苦手な人間であった。おまけに性格も軽薄で、口から出るのは自慢話ばかりなものだから、バイト仲間の特に女からは煙たがられているのである。


 女から嫌がられるのは合コンやらナンパやらで女を「お持ち帰り」したという自慢話を滝沢が好むせいもあるし、最大の原因は人前で合コン相手やら客やらの容姿を平気で貶す点にあった。それでもそういった下心や、品性下劣な話題が自分には向けられないのなら聞こえぬフリのしようもあるのだが、その日は志津子にとって運がなかった。


 その日、偶然にもシフトが被った滝沢は、受付の奥にある従業員用の休憩室で悪態をついていた。その犠牲になっているのは滝沢よりも年下の男子大学生である。


「まったくよー。ちょっと女と会ったくらいで怒るってなくねえ? 浮気は男のカイショーだろ? なあ?」


 なんとも返答しづらい言葉に大人しそうな大学生は愛想笑いで返す。滝沢としては特に同意を求めているわけではなく、絶え間なくしゃべることでストレスを発散させているだけのようで、相手のそんな反応を見ても怒り出すといったことはなかった。


「お先、失礼します」


 店の制服から私服に着替え終えた志津子は、休憩室に顔を出して頭を下げる。それはこの店で働いている人間ならだれでもするようなことであって、その日だけの特異な行いというわけではなかった。


 しかし志津子のそんな姿の、どこがどう琴線に触れたのか、滝沢はおもむろに立ち上がると大股で志津子に近づいた。


「麻生さ~ん。これから遊びに行かない?」

「え? お気持ちはうれしいですが、今日は疲れているので……」


 志津子の言葉に嘘はなかった……半分ほどは。フルタイムではないにせよ、今日も十八時からこっち、働き詰めである。深夜シフトでは避けて通れない酔客の相手に吐瀉物の掃除、その他もろもろの雑用をこなしてきたわけで、志津子の体はくたくたであった。


「じゃあオレんち来ない?」

「え? いえ。滝沢さん、彼女いるんでしょう?」

「いいっていいって! 気にしないで!」


 そういう問題ではないのだが、志津子ははっきりと断ることができなかった。これがクレーマーであれば別なのだが、相手は同じ職場の先輩である。そういった客を相手にするのとはまた勝手が違うので、もとより引き出しの少ない志津子は困ってしまった。


 最終的に深夜に雨が降ったことを引っぱり出して来て、「洗濯物を出しっぱなしにしてきたので帰ります」などと強引に会話を終わらせた。


 そこであきらめてくれればいいものを、志津子より先に身支度を終えていた滝沢は、すぐに彼女を追って店を出て来てしまう。志津子の暮らす安アパートはすぐそこだが、滝沢に家が知られるというのはぞっとしない話である。だから志津子は駅前の、明るい通りに面している場所でいったん足を止めた。


「滝沢さん、帰る方向逆ですよね?」


 それが志津子の精一杯の威嚇であったわけだが、悲しいことに滝沢はこんな腹芸の通じる相手ではなかった。「気にしないで」とあっさり蹴落とされてしまった志津子は、いよいよ困り果ててしまう。


「麻生さんって十八だったよね?」

「まあ……はい」

「かわいい顔しているのになんで化粧しないの~? まあオレはそっちのほうが好きだけど」


 滝沢がおもむろに顔を近づけて来たので、志津子はおどろいて反射的にのけぞった。


「え? なに? キスされると思った?」

「いえ……」

「麻生さんって彼氏とかいたことなさそうだよね~。オレとつき合ってみない?」

「いえ、今は彼氏とか作る余裕がないので……」

「いいじゃん、ちょっとぐらいつき合ってみない? ね?」


 志津子の顔を覗き込むように頭を下げる滝沢を見て、志津子は鳥肌が立つのを感じた。もう限界だった。


 ――宗治郎の姿を認めたのはそんなときである。


「――そ、宗治郎!」


 気がつけば志津子は上擦った声で宗治郎の名を呼んでいた。あとは先の通りである。


「なんだよ、処女かと思ったのに」


 ぞっとするような言葉を吐いて滝沢は志津子から離れ、本来の帰路についたようであった。志津子は宗治郎の背後でそっと息を吐く。次いでずいぶんと高い位置にある宗治郎の顔を見上げて、あわてた。


「志津子さん、先ほどの彼は……? 彼氏、というわけではなさそうですが」

「あ、うん、バイト先の先輩で……ちょっとしつこくて……」


 志津子の言葉に宗治郎は顔をしかめた。次にどんな言葉が出て来るのか、志津子にはわかっていた。


「――やはり、志津子さんをひとりにはしておけません」

「……そうは言ったって。今日のは……ちょっと事情が違うし」

「なにがどう違うのですか? それにあんな人間がいるところで働くなんて――」

「もう、わかったから!」


 志津子はきびすを返し、白い息を吐きながら足早に歩を進めた。宗治郎はいつものように難なくそのあとをついて行く。そうしてうしろから今のバイト先は辞めるべきだ――などと言うのであった。


 たしかに、こんなことがあったあとでは滝沢と顔を合わせるのは気まずい。しかしたかがこれくらいのことでバイト先を辞めるわけにはいかない。社会に出るということは、学校にいるとき以上に様々な人間とつき合わなければならない――と志津子は思っている。ちょっと嫌なことをされたくらいで大騒ぎするのははばかられるというものだろう。


 滝沢は頭の痛い存在ではあるが、店長の人柄はいいし、他のバイト仲間や社員との関係は良好なのだ。滝沢ひとりのせいで辞めるなど癪というのもあったし、実際に現実的な案だとも思えなかった。


「わたしはだいじょうぶだから。放っておいて」


 志津子は宗治郎の鼻先で木製の玄関扉を勢い良く閉めた。

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