飼育病

やなぎ怜

(1)

 宗治郎そうじろう志津子しづこがひとりでは生きていけないと思っている。


 その事実を麻生あそう志津子が知ったのは、寒風吹きすさぶ十二月の朝五時のこと。カラオケ店での深夜シフトを終え、くたくたの体を引きずって安アパートへと帰るさなかのできごとであった。


「――志津子さん」


 不意にそう声をかけられて志津子は反射的にうしろを振り返った。そこには仕立ての良いが決して派手ではないダークスーツを身にまとった、三十も半ばほどに見える男が立っていた。志津子がいたのはちょうど駅前の道であったから、地面を照らす外灯はじゅうぶんにあり、加えて二十四時間営業の店々から漏れ出る光がふたりの姿を闇の中にしっかりと浮かび上がらせていた。


「志津子さんですよね?」


 シルバーフレームの神経質そうな眼鏡をかけた男が、目を瞠ったまま繰り返す。志津子はふっと息を吐く。冷え切った外気にさらされて、白い吐息が志津子の口からすーっと流れ出た。


「宗治郎……?」


 志津子は男の名を呼んでから、何度か瞬きをした。そうやってもう一度、沁みるほどに冷たい空気を肺に取り込んで、男――宗治郎を見た。


 見間違えようもない。彼は、駒谷こまや宗治郎だと志津子が理解するのはすぐであった。



 今はカラオケ店のアルバイト店員として慎ましく暮らしている志津子だが、もとはかなり裕福な家の娘であった。父親は中小企業ながら社長の地位についていたから、志津子はいわゆる「社長令嬢」というやつであった。


 だがそれも昔の話である。二年前、志津子が高校一年生のときに父親は破産し、会社は人手に渡った。プライドの高い暴君であった志津子の父親は借金取りから逃げるためか、あるいは醜態を晒すことに耐え難かったのか、まもなく蒸発した。父親の後妻である志津子の継母も、ブランド物のバッグとたくさんの宝石を手に、堅気には見えない若い男の車に乗ってどこかへと消えた。そして志津子だけが残されたわけだが、当然のごとく自宅も抵当に入っていたので彼女はまもなく生家を追い出された。


 志津子は右も左もわからない、幼子同然のていで追い出されたので、あやうく野垂れ死にするところであった。しかし間もなく父親の親戚だとかいう人たちが来て志津子を安アパートへと押し込み、必要最低限の生活手段を教えたところで彼らは消えたので、志津子はどうにかホームレスにならずには済んだ。


 志津子にとって幸いだったのは、今の職場に行きついたことであろう。


 志津子は世間知らずに加えて、極度の内向的な性格の少女であった。当然、友人などという存在は望むべくもなく、それに比例してコミュニケーション能力も散々なものである。そうであるから履歴書はどうにか完成させられても、面接は壊滅的と言ってほかなく、何度も断られては志津子は落ち込んだ。


 それでも最低限与えられた貯金はどんどん減って行くし、とにかく働き出さなければ死んでしまう。店長に出会ったのはそんなときだった。


 店長は志津子の身の上に同情して雇ってくれた。とかく世間知らずの志津子に対して根気良く様々なことを教えてくれた。お陰で、志津子はどうにか真人間になることができたのだ。


 そうして二年が過ぎ、十八歳になった志津子は店長の店で精力的に働き、たまに多少の贅沢ができるていどには経済的に安定した生活を送っていた。


 そこには世間知らずの社長令嬢だったころの志津子はいない。安アパートと職場を行き来する、ありふれた貧しい若者の姿がそこにはあった。


 だから志津子は目の前にいるのが宗治郎だと気づいた瞬間、気まずい思いを抱いた。それは出先で不意に職場の同僚に出会ったときのような気まずさを、もっと深刻にしたものだ。


 宗治郎はかつて志津子の家で働いていた、いわゆる使用人というやつである。最後に会ったのがいつであるか、志津子は正確に思い出せない。ただ、会うのが二年ぶりであるということだけはわかった。とにかく父親が破産する前後は家中が騒がしかったので、いつごろ宗治郎がいなくなったのか志津子は覚えていなかったのだ。


「やっぱり、志津子さんなんですね?」


 白い息を吐き、宗治郎は垂れ目がちの柔和な顔を華やがせた。その表情を見て、志津子は余計いたたまれない気分に追い込まれる。


 なにも、志津子は宗治郎に高飛車ぶってあれこれ命令した――というような過去はないのだが、だが今の志津子は以前とはあまりに違いすぎた。家事はすべて自分でこなさなければならないし、住んでいる家は築五十年を超える、控えめに言ってもオンボロのアパートである。送迎してくれる人間も車もなければ、自分を養ってくれる人間もいない。あまりに、以前とは正反対の状況であった。


 志津子はこの暮らしを嫌だと思ったことはない。たしかに不安ではある。けれども、働いて生きて行くことができている。そのことに志津子は一種の充足感を得ていた。


 かつての家は志津子にとって非常に息苦しいものであった。愛人の家を渡り歩く父親は、たまに帰って来たかと思えば暴君のごとく振る舞う。継母は志津子を遺産を得るのに邪魔な存在くらいにしか認識していなかった。端的に言って、家の中に志津子の居場所など存在しなかったのだ。


 けれども今は違う。志津子の家はだれにも邪魔されることのない、安息できる場所なのだ。


 しかしそれとこれとは別である。やはり以前の志津子の暮らしぶりを知っている人間に出会うのは、ぞっとするものがある。


 だから志津子は己の失敗を悟った。はじめにそ知らぬフリをしておけばよかったと、志津子は後悔した。あれから二年も経っているのだ。顔などおぼろげになっているだろうに、どういうわけか宗治郎は志津子を見つけてしまった。


「志津子さん、心配したんですよ。あれからどうしたのだろうと思って……」


 足早に駆け寄って来た宗治郎を前にして、いよいよ志津子は背中を冷や汗が流れ落ちるのを感じた。なにを言えばいいのかわからなかった。いろいろと言葉は頭に浮かぶのだが、それが口まで届かないのだ。だから自然、志津子はだんまりを決め込む形となる。


「でも、元気そうで良かった。今はどうされているんですか?」


 宗治郎の屈託ない疑問に、志津子は俯く。カラオケ店でバイトをしています――とは、なんとなく言いづらかった。今の職を下に見ているわけではないのだが、それでも志津子のちっぽけなどうしようもないプライドが、正直に身上を述べることを阻んだ。


「……志津子さん?」


 地面に視線を落とす志津子を見て、宗治郎は首をかしげる。


「……人違いです」


 白い息と共に志津子の口から出てきたのは、あまりに今さらな言葉であった。


「志津子さん!」


 志津子はきびすを返し、外灯に照らされたひとけのない道を進む。薄汚れたスニーカーに納まった足は、とっくに冷え切っていた。安っぽい手袋の中にある指先も同様で、志津子は無性に風呂に入りたい気分になった。風呂に入って、なにもかも洗い流してすっきりしたかった。


 けれどもコンパスの長い宗治郎が志津子に追いつくのは容易で、志津子はあっさりと捕まってしまう。


「志津子さん、あなたを見間違えるわけないじゃないですか」


 宗治郎の言葉に、志津子は無意識のうちに眉間にしわを寄せていた。


「放してください。でないと叫びますよ」


 消え入りそうな声で志津子がそう言えば、宗治郎は渋々といった様子で彼女の腕から指を放す。志津子は宗治郎につかまれていた腕をさっと自分の方へ寄せた。


「人違いだから、帰ってよ」


 志津子はその声が震えていることに気づいた。そしてそのことを忌々しく思いながら宗治郎を見たが、しかしすぐに視線を彼の胸へとそらす。宗治郎の双眸を見るには、今の志津子は弱すぎた。


「ひとりで暮らしているのですか?」

「…………」

「ひとり暮らしなんて危ないですよ」

「…………」


 志津子はふたたび俯いた。そのまなじりからは、涙がこぼれそうだった。


 本当は、うれしかったのだ。自分を忘れないでいてくれて。


 けれども、そんなことを表明できるほど志津子は素直な性格ではなかったし、今のふたりの関係を思えばそうすることははばかられるように思えた。


「……もう、忘れてよ」

「志津子さん?」

「忘れてったら。もう、関係ないんだから」


 その言葉を最後に、志津子はもう振り返らなかった。早足に道を駆け抜けて行って、安アパートにたどりつく。普段運動などしないものだから、ちょっと走っただけで息が上がり、刺すように冷たい空気が志津子の喉を痛めつける。錆びついた階段を音を立てて駆け上がれば、志津子の家はすぐそこだ。のぞき穴もない木製の古びた扉の鍵を空けて、志津子は部屋に飛び込んだ。


 はーっと息を吐く。脱いだスニーカーを規則正しく並べて、コートをハンガーにかける。背の低い折り畳みのテーブルの脇にバッグを放り投げたあと、志津子はなんの気なしに部屋から外をのぞいた。いや、もしかしたら期待していたのかもしれない。


 アパートのすぐそばに宗治郎は立っていた。そうして唯一明かりのついている、志津子の部屋を見上げていた。志津子はすぐにカーテンを引いて、毛羽立ちが目立ちはじめた畳に座り込む。脳裏に浮かぶのは宗治郎のことばかりで、志津子は嫌になった。


 明日も仕事がある。早々に志津子は室内よりはいくぶんか近代的な狭い風呂場へと向かった。


 家を知れば多少は宗治郎も気が済むのではないかと志津子は思ったのだが、その考えが甘いことを思い知るのはすぐであった。


 宗治郎はあろうことか、次の日から志津子を待ち伏せするようになったのである。志津子は基本的に十八時から翌日の五時までのシフトで働いているので、待ち伏せをすること自体は容易であった。


「あんなところに住んでいるなんて危ないですよ」


 再会から一日が経ってからの開口一番がそれで、志津子はちょっとむっとした。若い女性が住むにはたしかにあの安アパートは不適切だろう。かろうじて風呂場はついてはいるものの相当に年季が入っていることには変わりはないし、トイレは共用だ。玄関扉は強度に心許ない木製な上にのぞき穴がついていない。実際にそれで志津子は何度も厄介なセールスに捕まったが、ないものは仕方がない。


 引っ越しを考えたこともないではないのだが、保護者のいない志津子からするとまず資金面に不安があったし、今のバイト先から徒歩十分程度という立地は捨てがたかった。


「志津子さんがひとりで暮らしているなんて不安です」


 宗治郎は二言目にはそんなことを口にした。彼からすると志津子は未だにひとりではなにもできないお嬢様のままなのだろう。志津子はそう考えたが、しかしそれを訂正するのもおっくうで、ただ帰途につく己のうしろを追いかけてくる宗治郎を放置した。

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