(5)

「あの――宗治郎」


 都心にある話題の大型デパートとあって平日でも大いに人でにぎわっていた。それでも人ごみに揉まれるというほどの混み方ではない。だが人口密度など宗治郎には関係のない話らしく、彼はしっかりと志津子の右手を握っていた。


 志津子に服の裾を引っ張られて、宗治郎は彼女を見やる。志津子は言いにくそうに口をもごもごとしていたが、それでもややあって舌に言葉を乗せた。


「……ちょっと、お手洗いに……」

「――ああ、そうですか。たしかさきほど通り過ぎたような……」

「……ひとりで行けるから」

「でも」

「恥ずかしいんだってば」


 志津子がそう言えば、宗治郎は渋々手を放した。――志津子は、その瞬間を見逃さなかった。


「志津子さん!」


 志津子は宗治郎を背に駆け出す。背後から彼の声がかかったが、気を割いている余裕はなかった。向かう先は先ほど見つけた衣類店である。通りに向けて壁もなく洋服を並べているその一角に、志津子は体を滑り込ませた。志津子はおろか、宗治郎の背を優に超える衣類棚が居並ぶ地帯に入ってしまえば、彼を撒くのは容易であった。


 志津子はちらりと背後を見やり、そこに宗治郎がいないことを確認して歩を緩める。気がつけばエスカーレーターの前まで来ていた。志津子は周囲を見回してから、呼吸を整えるためにエスカレーターの脇に設置されたベンチの前へと足を向けた。


「――あれ? 麻生さん?」

「えっ?」


 志津子は慌てて前を向く。ベンチに腰掛けているのは間違えようもなく、かつての店長であった。ポロシャツにチノパンといった風体は、ステレオタイプな「日曜日のお父さん」といった感じである。


 思いがけない人物との再会に、志津子は困惑した。それが店長にも伝わったのか、彼は困ったような笑みを浮かべて右手を上げる。


「久しぶり――と言ってもまだ一ヶ月くらいだったよね?」

「あ、はい。そうですね……」

「その後はどう?」


 店長にそんな話題を振られて、志津子は困ってしまった。どうと聞かれても、なんと答えればいいのやら。間違っても「かつての使用人に軟禁されていました」などとは言えまい。仮に言ったとしてもジョークとして笑い飛ばされてしまうのがオチだろう。


 けれども、店長ならどうだろう、と志津子は思った。


 店長なら、もしかしたら信じてくれるかもしれない、と志津子は思った。


「――あの、実は――」


「志津子さん」


 志津子は、全身がぞわりと総毛立つのを感じた。


「志津子さん、探したんですよ」

「――あ、お友達かな?」


 店長は意外そうな顔をして志津子の背後に立つ宗治郎を見た。


 ここでなにかを言えば逃げられると志津子はわかっていたし、頭は冷静さを保ったままだった。志津子が大騒ぎすれば人が集まるし、店長だって異変を察してくれるだろう。


 けれども。


 ――けれども、志津子はなにもしなかった。


 志津子の耳の横を店長と宗治郎の声が通り過ぎて行く。


「――へええ、婚約してたの?」

「ええ。彼女のお父様とは昔からの知り合いでして――」



「――ねえ、志津子さん」


 家族に呼ばれベンチから腰を上げた店長の背を見送ったあと、宗治郎は有無を言わさず志津子を部屋に連れて帰った。志津子はなにも言わなかった。


「どうして、逃げようとしたんですか?」

「どうして、そんなことをしようと考えたんですか?」

「外は危険なんですよ。わかっていますよね?」

「私は志津子さんを守りたいだけなんですよ。わかっていますよね?」

「志津子さんは私がいないと生きていけない。そうですよね?」

「私がいないと、志津子さんは暮らしていけない。そうですよね?」

「志津子さんはなにもできないんですよ?」

「私になにか不満でもありましたか?」

「一週間前に買ってきた服、気に入りませんでしたか?」

「それとも志津子さんの嫌いなトマトをお出ししたこと、怒ってらっしゃるのですか?」

「一昨日トラブルで帰るのが遅れたことを怒ってらっしゃるのですか?」

「昨日、髪を梳かしているときに引っかけてしまったこと、怒ってらっしゃるのですか?」

「私との生活はお嫌でしたか?」

「私は、志津子さんのお世話ができるのならそれでよいのです。それ以上は望みません。わかっていますよね?」

「志津子さんは私の喜びを奪うおつもりなのですか?」

「志津子さんはいつの間にそのような残酷なことができるようになったのでございますか?」

「志津子さんは私がいなければならないということ、わかっていますよね?」

「志津子さん、あれほど私から離れてはいけないと言いましたよね?」


「志津子さん――わからないのなら、わからせてさしあげないと……。志津子さんのために……」


 宗治郎は志津子に手を伸ばす。宗治郎よりもずっと華奢な、まだ少女の面影が抜け切らない体に触れて、宗治郎はひっそりと微笑んだ。


 志津子は体を震わせ、その場に突っ立ったまま宗治郎を見る。


 志津子は有頂天だった。


 下着をはしたなく濡らすほどに志津子は興奮していた。


 宗治郎を説得したのは、彼が説得できないことを確認するため。彼が第一に掲げる志津子の懇願すら受け入れないのであれば、宗治郎はきっとだれの言葉にも耳を傾けはしないだろう。


 逃げ出したのは罰を受けるため。宗治郎に襲われたあの日、大人しく家まで連れて行かれたのは、きっとそうすればもっと楽しいことを味わえるだろうという直感があったから。


 マゾヒストである志津子は、しかし痛いことはあまり好きではない。それよりも「強要」されて「言うことを聞かせられる」ことの方がずっと好きだった。特に宗治郎のようなひと回り以上年上の優しそうな男性の言いなりになるというのは、志津子がいつも自慰をするときにしている妄想と同じだった。


 宗治郎は志津子の好みそのものであったが、唯一の不満点は彼は志津子に奉仕したいと思っている点である。だから志津子は最初、宗治郎を相手にはしなかった。だが思い直して店長の話ばかりを出して嫉妬心を煽ってみれば、彼もまた野蛮な獣性を持っていることがわかった。


 宗治郎は志津子が思い通りになっているあいだは大人しいのだが、志津子が少しでも彼の想像から外れると激しい拒絶を覚えるようで、そうなれば力づくでも思い通りにしようとしてくるだろうことは、容易に想像が可能であった。


 宗治郎によって寝室に連れて行かれた志津子は、彼に与えられた服をすっかり剥ぎ取られて、外気の冷たさに体を震わせた。


 志津子は宗治郎にまったくの下心が――言ってしまえば性欲がないなどとは思っていない。志津子への奉仕にだって、むしろ多分に性的な意味を含んでいることを彼女は見抜いていた。


 宗治郎の理想は普段の言動から想像するに、志津子にかしずいて性的な奉仕までもをすることなのだろう。それでもまあ志津子は良かった。嫌がりながら宗治郎に体のあちこちを愛撫されるというのも一興ではあるが、できるのなら妥協はしたくない。


「志津子さん。志津子さん、この世には恐いことはたくさんあるんですよ」


 ――そうね、本当に。


 志津子は心の中でくすりと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

飼育病 やなぎ怜 @8nagi_0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ