(4)

 宗治郎の黒いセダンに乗せられて志津子は彼が暮らすタワーマンションの一室へと連れて行かれた。志津子に比べるとずいぶんと余裕のある暮らしをしているようである。


 しかし宗治郎の部屋はほとんど殺風景と言ってよかった。必要最低限のものしか置かれていない部屋からは、生活臭というものが感じられないのだ。宗治郎によれば日中は仕事先にいるわけで、家に帰る用といえば寝ること以外にないので自然、こういった部屋になってしまったとのことだ。


 リビングルームに飾られた時計に目をやれば、いつの間にか朝の六時を回っている。夜明けにはまだ遅く、しかしそろそろ多くの人間が目を覚ます時間帯であった。


 だが志津子からすると午前六時は就寝間近の時分である。体は疲れきっていて、眠気に侵された頭はよく回らない。だが宗治郎がそれを気にした風はなく、それはつまり常に志津子を気にしている彼が、あえて狙ってやっていることの証左でもあった。


「志津子さん。店長さんはこの時間帯は店舗に出勤されているのですか?」

「え? ……うん。深夜シフトが終わるくらいに来るから……」


 宗治郎は志津子にソファを勧める。断る理由もないので志津子は大人しくソファに腰を下ろした。その真横に宗治郎が座り、志津子のバッグからスマートフォンを取り出す。


「はい、志津子さん」


 志津子は首をかしげた。


「職場に連絡してください。仕事辞めてくれるんでしょう?」

「え……」


 宗治郎の言葉に志津子はわずかに目を見開いた。だが宗治郎はそんな志津子の姿が見えていないのか、あるいは看過しているのか、志津子の手のひらにスマートフォンを押しつける。


「そんな……」

「どうしたんですか? 志津子さん」

「……どうしても辞めなきゃいけないの?」

「はい。危険ですから」

「あの、滝沢さん――昨日の男の人のことを言ってるなら、だいじょうぶだよ。店長がいるから――」


 宗治郎の手がスマートフォンを握る志津子の手の上に重ねられた。まるで志津子の奥底に隠したなにかを見つけようとでもするかのように、宗治郎は彼女の瞳をじっと見つめている。


 志津子は言葉に詰まった。なんと言えばいいのか、志津子にはわからなかった。


「……店長さんは」

「…………」

「志津子さんにとって……他人、ですよね?」

「……うん」

「それではなにかあったとき、助けてくれるかはわかりませんよね?」

「……そう、かな」

「はい。だからそんな職場なんて辞めましょう」


 理論の破綻と飛躍には志津子も気づいていた。しかしながら志津子はあえてそれを指摘しなかった。


「麻生さん?」


 電子的なダイヤル音のあと、聞きなれた店長の声が志津子の耳に飛び込んでくる。


「あの……朝早くにすみません」

「いいよいいよ。どうしたの? なにかあった?」


 宗治郎は志津子のそばでじっと耳をそばだてていた。知らず、スマートフォンを握る志津子の手に力が入る。


 それから志津子は淡々とバイトを辞めたい旨を伝える。突然のことに店長はおどろいたようで、なにかあったのかと当然ながら尋ねて来た。


「滝沢くんのこと?」

「いえ……違うんです。あの、わたしの方の都合で……急なことで迷惑だとは存じておりますが、辞めざるを得なく……」


 志津子は何度も横に座る宗治郎の顔を見た。宗治郎は正対するふたつの感情の狭間に、あるいはその混沌にいるようであった。


 そうして志津子が宗治郎を見ているあいだも、スマートフォンの受話口からは困惑を隠せない店長の声が聞こえて来ている。


 しかし最終的には志津子を説得ができないと知るや、店長はあっさりと折れた。


「麻生さんがそう言うんじゃ仕方ないね……」

「はい……。あの、滝沢さんの件は関係ないので、本当に……。すみません。……今までお世話になりました」


 その後もいくらか言葉を交わして、ようやく志津子が電話を切ったときには、時計の針が七時を指そうかと言う時間であった。


 志津子は無意識のうちに深く息を吐いていた。肺から空気が抜けていくのと同時に、強張っていた肩からも力が抜けていくのを感じる。


「よくできました」


 横に座る宗治郎は、そう言って志津子の頭を撫でた。いつだったか、そうやって宗治郎に褒められたことを、志津子は思い出していた。



 宗治郎の行動は迅速で、その日の夜には志津子の住んでいたアパートから、決して多くはない荷物を引き上げてしまった。その途上でアパートの部屋も解約してきたらしく、志津子はいよいよ本格的に宗治郎の借りる一室で暮らすことになった。


「志津子さん、欲しいものはありますか?」


 感情が平坦な宗治郎にしては珍しく浮ついた様子で志津子にあれこれと尋ねる。


「せっかくですから、志津子さんの好きなものでいっぱいにしましょう」


 宗治郎はこの殺風景な部屋を着飾るつもりのようだったが、あいにくと志津子には継母のようにあれやこれやと散財する才能はなかった。暮らしていくのにじゅうぶんなものはそろっているわけで、宗治郎の言う「好きなものを」とは、つまるところ志津子の「趣味のもの」を揃えたいと言う意思表示なのだろう。


「……ねえ、わたしはどうすればいいの?」


 ノートパソコンの画面に映るネットショップの商品に目をやる宗治郎へ、志津子はそう尋ねてから、すぐにかぶりを振った。


「ううん。宗治郎はわたしをどうしたいの?」


 宗治郎はノートパソコンから目を離して、志津子を真正面から見据えた。


「それはもちろん、変わらず志津子さんのお世話をしたいと思っています」

「……世話?」

「はい」


 志津子はそれ以上なにも言わなかった。



 逃げようと思えばいつでも逃げられる状況下で、志津子は逃げ出そうとはしなかった。


「どこへ行こうとも、私は志津子さんを見つけ出すことができますから」


 宗治郎の言葉が、志津子には嘘には聞こえなかった。実際、宗治郎は嘘や戯言を言っているつもりは微塵もない。彼は本気でそう思っているのだ。自分ならばどこにいようと志津子を見つけ出せると――。


 志津子の荷物はすべて宗治郎の借りる一室へと運び込まれ、志津子は帰る場所を失った。しかしそれは裏を返せば「どこへでも行ける」ということである。その考えを失してしまうほどに志津子は混乱しているわけではなく、むしろ冷静であった。


 冷静に、志津子は「逃げ出す日」のことを考えていた。今はまだそのときではないのはたしかで、志津子はただ大人しく宗治郎のされるがまま、彼に世話をされて暮らす。


 そう、宗治郎は宣言通り、朝から夜まで働いて家に帰れば、今度は志津子のために働くのであった。志津子のために食事を作り、志津子のために着替えを用意して、志津子のために濡れた髪を乾かしてやる。風呂上りにはスキンケアを施すのを欠かさず、ときには志津子の足にオイルマッサージをしたがった。


 志津子にとって、こうして嬉々として奉仕する宗治郎の姿はぞっとするものがある。仕事をして帰って来て、疲れているだろうにそれでもまだ彼は志津子のために働くのだから、それはもう病気と言ってしまって差し支えないだろう。


 けれども志津子はなにも言わなかった。なぜならばまだ「そのとき」ではないからだ。


 だが志津子は一方でこうも考える。もしかしたら宗治郎を説得できるのではないかと。


 しかし志津子が言葉を重ねれば重ねるほど、宗治郎は頑なになって行った。


 外出するのはダメで、働きに出るなど論外。ならば家事でもしようとすれば宗治郎は大変に嫌がった。曰く、


「怪我でもしたらどうするんですか? 志津子さんの綺麗な肌に傷がつくなんて耐えられません」


 宗治郎の負担を減らしたいからと奉仕を辞めさせようとすれば、これもまた宗治郎は拒絶し、絶望すら感じられる目で哀願した。


「どうか、私の喜びを奪わないでください」


 宗治郎はとことん志津子の世話をしたがった。それが己の存在意義とでも思っているかのように、丁寧に丁寧に志津子に奉仕する。


 宗治郎は、志津子がひとりでは生きていけないと思いたがった。世話役なしで志津子は生きていけないのだと、思い込みたかった。それが醸造された狂気の結果だとは志津子は気づくべくはずもなく、ただ彼女は宗治郎に言われるがまま、「なにもできないお嬢様ごっこ」とでも言うような日々を過ごすのである。


 志津子はそんな日常に不満を抱きながら、しかし機会はまだ失してはいないと、虎視眈々と時機を狙っていた。


 それでも先の志津子とのやり取りで不安を抱いたのか、宗治郎は玄関扉に鍵を増やした。外側にしか鍵穴のないタイプのもので、外から鍵をかけてしまえば中から鍵を開けることは不可能となった。


 宗治郎は以前にも増して志津子に尽くした。志津子が昔好きだったものを買って来たり、志津子はとうてい着ないような少女趣味の服を買って来たりもした。志津子は黙って昔好きだったイチジクを食べて、趣味ではない甘ったるい服を着た。


 宗治郎は志津子のありとあらゆるものを管理したがった。食べるもの、飲むものは当たり前で、手足の爪を切りそろえたがるところまでは許容できたが、産毛を剃りたがられては志津子も参ってしまう。この調子では排泄まで記録をつけそうな勢いであった。


 宗治郎は奉仕をする側の人間で、志津子はされる側の人間。それが当たり前の世界。それは一見すれば以前と同様の関係に戻ったかのようにも思える。――ただひとつ、志津子の心内こころうちが違うことを除いて。



 気がつけば、そんなままごとのような生活をはじめてから実に一ヶ月が過ぎていた。志津子は相変わらず人形のように宗治郎のされるがまま、だが雌伏のときと心を押し殺していた。


 きっかけは、テレビのニュース番組だった。


「……ここに行ってみたいな」


 画面には先日リニューアルオープンした大型デパートの様子が映し出されていた。ご丁寧にも繊細な模様が描かれたテーブルクロスが引かれた食卓に白いつるりとした食器を置きながら、宗治郎は困ったように笑う。


「こんなに人が多いところ、よくないですよ」


 宗治郎は人の好さそうな笑みを浮かべながらも、決して自身が看過できない志津子の要望は叶えなかった。そうであるから常から志津子は自らの要望を口にすることはなかったし、またそもそも彼女はそういった欲求に乏しかった。


 けれどもその日は違った。


「こういうところ……あんまり行ったことないし。お父さんとかは、連れて行ってくれなかったから……。行ってみたいなあって」

「志津子さん……」

「ねえ、ダメ?」


 志津子はじっと宗治郎の瞳を見つめる。


 宗治郎はややあって、底抜けに明るい声が聞こえてくるテレビ画面を見た。その瞳の裏でなにかが目まぐるしく動いているのはたしかだったが、それがどういう結果を弾き出すのかまでは、志津子にもわからなかった。


 宗治郎の行動原理は明快で、彼は志津子を自分の目が届く、安全な場所に置いておきたいのだ。これが第一で、第二にそうして安全な場所にいる志津子に奉仕する――というのが宗治郎の欲求であり、欲望であった。


 だからこの、安全な部屋から志津子を出してくれるかどうか、というのが志津子にとっての第一のハードルであった。最大のハードルはその後に待っている。


「ねえ、宗治郎、お願い」


 ダメ押しとばかりにそうねだれば、とうとう宗治郎は折れた。今までわがままのひとつも言わなかったことが効いたのだろう。


「……仕方ないですね。ずっと部屋にいるのもよくないですし……」

「じゃあ、連れて行ってくれるの?」

「ええ。ちょうど年休を消化するよう言われていましたし。いつにしましょうか」


 志津子は喜んだ。そうして宗治郎の元から逃げ出したあとのことについて、目まぐるしくその頭を働かせた。


 これが成功したときどうなるのか。それは志津子にも未知数のことであった。しかしためらう気持ちはない。


 決行の日は、再来週の月曜日と決まった。

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