(3)
「困ったことがあったらちゃんと言わなきゃ」
中年も半ばの店長を前に、志津子は恐縮して「はい」と答える。志津子を前に店長が渋面をしているのには、当然ながら理由があった。
早朝の一件も冷めやらぬ中、夕方にはバイト先に出勤した志津子は、夕方のシフトが滝沢と被っていることに気づいた。当然いい気はしないわけだが志津子は聞きわけのない子供ではないのだ。たとえ好悪において悪の感情しか抱けない相手であろうと、露骨に態度を変えたりしようとは思わなかった。
否、聞きわけのない子供であったのは滝沢のほうだった。今年で二十一だという、年齢でいえば志津子より多少大人である彼は困ったことに志津子に対して幼稚な嫌がらせをしてきたのだ。顔を合わせれば舌打ちをする、すれ違いざまに悪罵を吐きかけ、失態を犯せば志津子になすりつけようとした。
さすがのことに志津子は憤るよりも先に呆れ返ってしまう。とことん幼稚で気持ちの悪い男だとしか思えなかった。
目に余る行為は他のバイト仲間はもちろん、店長にも筒抜けであったわけで、一通りの嫌がらせが終わったころに、滝沢は店長に呼び出されて店の奥に消えた。
そうして志津子が女子トイレの清掃を終えて従業員用の控え室に戻ると、バイト仲間のひとりが滝沢が帰ったことを教えてくれた。
「帰ったっていうか、店長に帰されたっぽいけどね」
そのバイト仲間から店長が呼んでいることを教えられて冒頭へといたるわけだ。
志津子は滝沢とのトラブルをすっかり吐かせられて、ついでに彼からされた嫌がらせもそっくり伝えるはめになった。志津子から事情を聞いた店長は深いため息をついて事務イスの背に体を預ける。
「ああいう手合いのはね、やられたことを周囲に吹聴しちゃったほうがいいんだよ。メンツっていうのかねえ。そういうのが一番大事だから」
「はい」
店長の言葉には滝沢のような下心は感じられなかった。純粋に志津子の身を案じているのだということが伝わってくる。
――それでは、宗治郎はどうなのだろうか?
「それと麻生さん」
「はい?」
「最近男の人につけられてる……というか、ついて来られてる? みたいな話を耳に挟んだんだけれど」
「あ……いえ、その人は」
志津子は少し言いよどんだ。
「その人は、知り合いです」
「じゃあつきまとわれてるとかではないんだね?」
「はい」
「ふーん、なんかほかの子が言ってるから心配しちゃったよ。彼氏かどうか聞くのは野暮だね」
「彼氏では……ないんです。知り合いで」
志津子はあわててそういい募ったが、店長は面白そうなものでも見るように目じりを下げていた。
帰り道では、やはり宗治郎が待っていた。しわひとつないダークスーツは、夜の闇に溶けてしまいそうなほど美しい。油断のないシルバーフレームの眼鏡の奥には、優しそうな瞳がある。けれどもその目が滝沢の姿を鋭く射抜いたのを、志津子は鮮明に覚えている。
「今日はあの人には会いましたか?」
それが滝沢のことを指しているのだと志津子が気づくのには少し時間がかかった。志津子の中では店長が介入したことで、すっかり「終わったこと」になっていたのだ。宗治郎に助けてもらった手前、彼にも事の顛末は話しておくべきだろうと志津子は思った。
「会ったけど……でも店長がいるからだいじょうぶだよ」
続けて志津子は「心配しないで」と言うつもりだった。けれども不意にのぞいた宗治郎の瞳の奥に、なにか得体の知れないものが動くのを見て、志津子はハッと言葉を飲み込む。そのぞっとするようななにかは、すぐに宗治郎の奥底へと引っ込んでしまった。けれども一瞬だけ捉えたそれが脳裏にこびりついて離れがたく、志津子は心臓をわしづかみにされたような気になった。
「……店長、さんですか」
宗治郎の口元には変わらず柔和な笑みが浮かんでいる。けれどもその言葉の端からは、どこか苦々しいものがにじみ出ていた。
「うん。いろいろと親身になってくれてる人で……」
「そうですか」
「だから、店長がいるから、だいじょうぶ。……あ、もちろんずっとお世話になるつもりはないけど、うん。でも店長とか、他にも仲の良い人はいるし……」
つっかえながらもつらつらと言葉を並べ立てる志津子を、宗治郎は黙って見ていた。
「……だから、ね。宗治郎。心配しなくてもわたしはだいじょうぶだから。だから……」
その先を志津子は言葉にはしなかった。ややあって、宗治郎が無機質な声で「そうですか」と答える。師走の寒さだけではない、なにかとても寒々しいものが、ふたりのあいだを駆け抜けて行った。
「……わたし、帰るから」
それだけ言って、志津子は前方に立ちふさがるように立っていた宗治郎の脇をすり抜ける。すれ違う瞬間、志津子はなにかぞっとするようなものを感じたけれども、無視を決め込んだ。宗治郎はいつものように志津子のあとをついて、彼女の安アパートまで見送るようであった。
その日の道中に会話はなかった。志津子からは当然話しかけないし、宗治郎は不自然に黙り込んでいた。
「……じゃあ、宗治郎――」
木製の心許ない玄関扉を右手に、志津子は背後の宗治郎を振り返る。けれども不意に背を強く押されて、喉まで出かかった言葉は胃の腑へと落ちて行った。
志津子はたたらを踏んで、狭い玄関でつんのめりになる。思わず手放したバッグが、板の間に落ちて派手な音を立てた。幸いにも無様に転げるはめにはならなかったものの、膝をしたたかに打ちそうになった。
背を押したのは間違いなく宗治郎である。そうでなければ心霊現象ということになってしまう。志津子は背後の宗治郎を振り返り――そのあまりの距離の近さに総毛立つような思いをした。
「宗治郎?」
一歩あとずさって距離を取る。宗治郎は目元をゆるやかにして、微笑んでいた。けれどもその目は笑っていない。窓から外灯の光が入り込む以外はまるきり暗がりの中にある室内で、宗治郎の瞳はまるで奈落の先へと繋がっているかのような錯覚さえ覚えた。
「――『だいじょうぶ』、ですって?」
宗治郎の筋張った大きな手が、乱雑に志津子の体を押した。華奢な志津子が宗治郎の力に勝てるはずもなく、彼女は玄関に隣接する傷の目立つ板の間にしりもちをつく。すると自然、志津子はずいぶんと下から宗治郎を見上げることになる。
じっくりと見たことはなかったが、宗治郎はやはり男だった。志津子よりずっと肩幅が広くて、体つきはスーツの上からでもわかるほどがっちりとしている。体に厚みがあるのだ。それに比べれば女の志津子の体は、かなり心許ないものに見える。
ゆっくりと、宗治郎の顔が志津子に近づく。
「あ」
志津子はなにか言おうとして、なにも言葉が出てこないことに気づいた。冬の空気を存分に吸った喉は少し痛い。つきつきとした痛みが、志津子の喉に集まっていた。
志津子は体を震わせる。それが、冬の寒さのせいではないと彼女にはわかっていた。
宗治郎の両手が志津子の肩をつかんだ。そうしてゆっくりと、まるでなにか繊細なものでも扱うような風に、宗治郎は志津子を板の間に押し倒した。おおいかぶさるように志津子の視界を埋め尽くす宗治郎の姿に、志津子は息を呑む。
「これでも、『だいじょうぶ』なんですか?」
ぞっとするような微笑を浮かべた宗治郎の顔は雪の結晶のように繊細で、美しかった。しかしそれとは反比例するように、宗治郎の行いは下劣であった。
足で志津子の股を割り、コートのボタンに手をかける。ぷつりぷつりとボタンが外れていくと、冷え切った部屋の空気が服を通過して志津子の体に触れた。
志津子は体をひねって宗治郎の下から出ようともがく。けれどもがけばもがくほど、宗治郎は足を使って確実に志津子の下半身を押さえてしまう。
志津子の口から言葉は出ない。ただ志津子は体をばたつかせて宗治郎の手から逃れようとした。
宗治郎が志津子の毛玉の目立つちゃちなセーターをまくり上げる。志津子は口を開いた。白い吐息が暗闇の中で鮮烈に浮かぶ。宗治郎の大きな手のひらが志津子の口を覆った。
宗治郎と志津子の視線がぶつかる。
「これでも『ひとりでだいじょうぶ』、だなんて言うんですか?」
それは残酷な宣告だった。
宗治郎はあの母の日に、中庭で見せた顔と同じ顔で言う。
「ほら、志津子さんはひとりじゃ生きていけないじゃないですか」
哀れなものをみるような顔で、愛しいものを見るような顔で……勝ち誇った顔で、宗治郎は朗々と告げる。そこには自らの主張が正しかったことが証明され、素直に喜ばしいといった感情がにじんでいた。
「可愛らしい志津子さんがひとり暮らしだなんて危ないんですよ。昨日の男だって逆恨みをしていないとも言い切れません」
志津子は宗治郎の下から彼を見上げた。
「志津子さん、私といっしょに暮らしましょう。そうすればなにも怖いことはありません」
――そこに宗治郎は含まれているのだろうか。
志津子はそう思った。
「――志津子さん、さあ」
宗治郎の右手が志津子の顔から離れる。志津子は緩慢な動作で上半身を起こし、宗治郎を見やった。宗治郎の左手は、いまだに志津子の腕をつかんでいる。痛くはないけれども、しかし決して振り払えない力が、かかっている。
志津子はもう一度宗治郎を見た。
宗治郎は相変わらず微笑んでいた。
その日、二年過ごした安アパートを宗治郎と共に出た志津子は、二度とそこには戻らなかった。
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